四条金吾殿御返事 建治三年秋  五六歳

別名『告誡書』

第一章 仏法と王法の相異

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 御文(おんふみ)あらあらうけ給はりて、長き夜のあけ、とをき道をかへりたるがごとし。(それ)仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば()(おう)と号し、王をば自在となづけたり。中にも天竺をば月氏という、我が国をば日本と申す。一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。名のめでたきは印度第二、()(そう)第一なり。仏法は月の国より始めて日の国にとゞまるべし。月は西より出でて東に向かひ、日は東より西へ行く事天然のことはり、磁石と鉄と、雷と象牙とのごとし。誰か此のことはりをやぶらん。

第二章 日本へ仏法渡来

 此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば、天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて、第一神武天皇乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき。位につかせ給ひて三十二年治め給ひしに、第十三年壬申(みずのえさる)十月十三日辛酉(かのととり)に、此の国より西に()(だら)国と申す国あり。日本国の大王の御知行の国なり。其の国の大王聖明(せいめい)王と申せし国王あり。年貢(みつぎ)を日本国にまいらせしついでに、金銅(こんどう)の釈迦仏並びに一切経・法師・尼等をわたしたりしかば、天皇大いに喜びて群臣に仰せて云はく、西蕃(せいばん)の仏をあがめ奉るべしやいなや。蘇我(そが)大臣(おとど)いな()()宿(すく)()と申せし人の云はく、西蕃の諸国みな此を(らい)す、とよ()あき()やまと(日本)あに(ひと)(そむ)かんやと申す。物部(もののべ)の大む()()こし()・中臣のかま()()等奏して曰く「我が国家天下に君たる人は、つねに天地・しゃ()そく()(もも)()十神(そのかみ)を春夏秋冬にさい()はい()するを事とす。しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せば、をそらくは我が国の神いかりをなさん」云云。()の時に天皇わかちがたくして勅宣(ちゃくせん)す。此の事を(ただ)心みに蘇我の大臣につけて、一人にあがめさすべし。他人用ひる事なかれ。蘇我の大臣うけ取りて大いに悦び給ひて、此の釈迦仏を我が居住のをはだ(小墾田)と申すところに入れまいらせて安置せり。

第三章 崇仏・排仏派の争い

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物部
(もののべ)大連(おおむらじ)
不思議なりとていきどをりし程に、日本国に大疫病をこりて死せる者大半に及ぶ。すでに国民尽きぬべかりしかば、物部大連(ひま)を得て此の仏を失ふべきよし申せしかば勅宣なる。「早く他国の仏法を()つべし」云云。物部大連御使ひとして仏をば取りて炭をもてをこし、つち()をもて打ちくだき、仏殿(ほうどの)をば火をかけてやきはらひ、僧尼をばむち()をくわう。其の時天に雲なくして大風ふき、雨ふり、内裏(だいり)天火にやけあがて、大王並びに物部大連・()(がの)(おみ)三人共に疫病あり。きるがごとく、やくがごとし、大連は(つい)寿(いのち)絶えぬ。蘇我と王とはからくして蘇生す。而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。

 第三十一代の()(だつ)天皇は欽明第二の太子、(みよ)十四年なり。左右の両臣は、(ひとり)は物部大連が子にて、()(げの)(もり)()、父のあとをついで大連に任ず。蘇我の宿(すく)()の子は蘇我(うま)()と云云。此の王の御代に聖徳太子生まれ給へり。用明(ようめい)の御子敏達のをい()なり。御年二歳の二月、東に向かって無名の指を開ひて南無仏と唱へ給へば御舎利(みて)にあり。是日本国の釈迦念仏の始めなり。太子八歳なりしに八歳の太子云はく「西国の聖人釈迦牟尼仏の遺像、末世に之を(たっと)めば則ち(わざわい)()し福を(こうむ)る。之を(あなず)れば則ち災を招き寿を縮む」等云云。大連(おおむらじ)物部(もののべの)()(げの)宿禰(すくねの)(もり)()等いかりて云はく「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云。又疫病未だ()まず、人民すでにたえぬべし。弓削守屋又此を間奏す云云。勅宣に云はく「蘇我馬子仏法を興行す、宜しく仏法を(しりぞ)くべし」等云云。此に守屋と中臣(なかとみの)(おみ)勝海(かつみの)大連(おおむらじ)等の両臣は寺に向かって堂塔を切りたう()し、仏像をやきやぶり、寺には火をはなち、僧尼の袈裟をはぎ、(むち)をもって()む。又天皇並びに守屋・馬子等疫病す。其の言に云はく「焼くがごとし、きるがごとし」と。又(かさ)()こる。はうそう(疱瘡)といふ。馬子歎ひて云はく「尚三宝を仰がん」と。勅宣に云はく「汝独り行なへ、但し余人を()てよ」等云云。馬子欣悦(ごんえつ)精舎(しょうじゃ)を造りて三宝を(あが)めぬ。

 天皇は終に八月十五日崩御云云。此の年は太子は十四なり。第三十二代用明天皇[治二年欽明の太子、聖徳太子の父なり]。(みよ)二年丁未(ひのとひつじ)四月

第四章 崇仏派の勝利を示す

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に天皇疫病あり。(みかど)勅して云はく「三宝に帰せんと欲す」云云。蘇我の大臣(おとど)(みことのり)に随ふべしとて遂に法師を引いて内裏(だいり)に入る。豊国の法師是なり。物部守屋大連等大いに(いか)り、横に(にら)んで云はく「天皇を(えん)()す」と。終に皇隠れさせ給ふ。五月に物部守屋が一族、渋河(しぶかわ)の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押し寄せてたゝかう。五月・六月・七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ。第四度()に太子願を立てゝ云はく「釈迦如来の御舍利の塔を立て四天王寺を建立せん」と。馬子願って云はく「百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てゝ崇重すべし」云云。弓削(ゆげ)なの(名乗)って云はく「此は我が放つ矢にはあらず。我が先祖崇重の府都(ふと)の大明神の放ち給ふ矢なり」と。此の矢はるかに飛んで太子の(よろい)(あた)る。太子なのる。此は我が放つ矢にはあらず、四天王の放ち給ふ矢なりとて、()(みの)(いち)()と申す()(ねり)にいさせ給へば、矢はるかに飛んで守屋が胸に(あた)りぬ。はた()かはかつ(河勝)をちあひて頸をとる。此の合戦は用明崩御・()(しゅん)未だ位に()き給はざる其の中間なり。 

第三十三崇峻天皇位につき給ふ。太子は四天王寺を建立す。此釈迦如来の御舍利なり。馬子は元興(がんごう)()と申す寺を建立して、百済国よりわたりて候ひし教主釈尊を崇重す。今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑(おうわく)これなり。又釈迦仏にあだをなせしゆへに、三代の天皇並びに物部の一族むなしくなりしなり。又太子、教主釈尊の像一体をつくらせ給ひて元興寺に()せしむ。今の(たちばな)()の御本尊これなり。此こそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。

第五章 漢土への仏法渡来

 漢土には後漢の第二の明帝(めいてい)、永平七年に金神(こんじん)の夢を見、博士(はかせ)蔡愔(さいいん)王遵(おうじゅん)等の十八人を月氏につかはして、仏法を尋ねさせ給ひしかば、中天竺の聖人()(とう)()竺法蘭(じくほうらん)と申せし二人の聖人を、同じき永平十年丁卯(ひのとう)の歳迎へ取りて崇重ありしかば、漢土にて本より皇の御いのり()せし儒家・道家の人々数千人、此の事をそねみてうつた()へしかば、同じき永平十四年正月十五日に召し合はせられしかば、漢土の道士悦びをなして唐土の神百霊を本尊としてありき。
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二人の聖人は仏の御舍利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙(たのみ)給ふ。道士は(もと)より王の前にして習ひたりし仙経・三墳(さんぷん)・五典・二聖三王の書を(たきぎ)につみこめてやきしかば、古はやけざりしが、はい()となりぬ。先には水にうかびしが水に沈みぬ。鬼神を呼びしも来たらず。あまりのはづかしさに褚善信(ちょぜんしん)()(しゃく)(さい)なんど申せし道士等はおもひ(じに)しゝぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舍利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間(みけん)より光を放ち給ふ。呂慧通(りょけいつう)等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ちぬ。

第六章 仏法は賞罰正しい事を説く

されば釈迦仏は賞罰たゞしき仏なり。(かみ)に挙ぐる三代の(みかど)並びに二人の臣下、釈迦如来の敵とならせ給ひて、今生は(むな)しく、後生は悪道に()ちぬ。

 今の代も又これにかはるべからず。漢土の道士信・費等、日本の守屋等は、漢土日本の大小の神祇を信用して、教主釈尊の御敵となりしかば、神は仏に随ひ奉り、行者は皆ほろびぬ。今の代も此くの如し。上に挙ぐる所の百済国の仏は教主釈尊なり。名を阿弥陀仏と云ひて、日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり。神と仏と、仏と仏との差別こそあれども、釈尊をすつる心はたゞ一なり。されば今の代の滅せん事又疑ひなかるべし。是は未だ申さゞる法門なり。秘すべし秘すべし。又吾が一門の人々の中にも、信心もうすく日蓮が申す事を背き給はゞ蘇我が如くなるべし。其の故は仏法日本に立ちし事は、蘇我(そがの)宿(すく)()と馬子との父子二人の故ぞかし。釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈の如くにてこそあらまじなれども、物部と守屋とを失ひし故に、只一門になりて位もあがり、国をも知行し、一門も繁昌せし故に、(たか)(あがり)をなして崇峻天皇を失ひたてまつり、王子を多く殺し、結句は太子の御子二十三人を馬子がまご()(いる)鹿()の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇は中臣(なかとみの)(かま)()(はから)ひとして、教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば、入鹿の(おみ)並びに父等の一族一時に滅びぬ。

 此をもて御推察あるべし。又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人々は、かへりて(とが)あるべし。
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日蓮をうらみさせ給ふな。少輔(しょうい)(ぼう)能登(のと)房等を御覧あるべし。

第七章 仏法の道理は必ず勝つことを示す

かまへてかまへて、此の間は()の事なりとも()()(しょう)かゝせ給ふべからず。火はをびたゞしき様なれども、(しばら)くあればしめ()る。水はのろき様なれども、左右無く失ひがたし。御辺は腹あしき人なれば火の燃ゆるがごとし。一定人にすかされなん。又主のうらうら(遅々)と言(やわ)らかにすか()させ給ふならば、火に水をかけたる様に御わたりありぬと(おぼ)ゆ。きた()はぬかね()は、さかんなる火に入るればとく()()け候。氷を()に入るゝがごとし。剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず。是きたへる故なり。まえ()にかう申すはきたうなるべし。仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に(かつ)つ物なり。いかにいとを()し、はなれじと思ふ()なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしゝとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか()へて年久し、すこしも惜しむ事なかれ。

第八章 身の用心を勧める

又さきざき申すがごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし。

 日蓮は(わか)きより今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計りなり。されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。其の故は法華経の命を()ぐ人なればと思ふなり。穴賢(あなかしこ)穴賢。あらかるべからず。吾が家にあらずんば人に()()ふ事なかれ。又()(まわ)りの殿原はひとりもたのもしき事はなけれども、法華経の故に屋敷を取られたる人々なり。常はむつ()ばせ給ふべし。又夜の用心の為と申し、かたがた殿の守りとなるべし。吾が方の人々をば少々の事をばみずきかずあるべし。さて又法門なんどを聞かばやと仰せ候はんに、悦んで(まみ)え給ふべからず。いかんが候はんずらん。御弟子共に申してこそ見候はめと、やはやは(和和)とあるべし。いかにもうれしさにいろに顕はれなんと覚え、聞かんと思ふ心だにも付かせ給ふならば、火をつけてもすがごとく、天より雨の()るがごとく、万事をすて()られんずるなり。

 又今度いかなる便りも出来せば、したゝめ候ひし陳状を()げらるべし。大事の(ふみ)なれば、ひとさは()ぎはかならずあるべし。穴賢穴賢。
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日蓮 花押

 四条金吾殿