四条金吾殿御返事 建治三年秋 五六歳

別名『告誡書』

 

第一章 仏法と王法の相異

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 御文(おんふみ)あらあらうけ給はりて、長き夜のあけ、とをき道をかへりたるがごとし。
 
 あなたのお手紙の概略をうけたまわり、長い夜が明け、遠い道を歩いて、帰りついたように、安心いたしました。
 (それ)仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば()(おう)と号し、王をば自在となづけたり。中にも天竺をば月氏という、我が国をば日本と申す。一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。名のめでたきは印度第二、()(そう)第一なり。    そもそも、仏法というのは勝負を第一とし、王法というのは賞罰を本としています。故に、仏を世雄と号し、王を自在と名づけているのです。この世界の国々のなかでも、天竺国すなわちインドを月氏といい、わが国を日本といいます。一閻浮提中にある八万の国のうちでも、大なる国は天竺であり、小なる国は日本です。しかし、その国の名のめでたさでいうならば、インドは第二であり、扶桑は第一です。
 仏法は月の国より始めて日の国にとゞまるべし。月は西より出でて東に向かひ、日は東より西へ行く事天然のことはり、磁石と鉄と、雷と象牙とのごとし。誰か此のことはりをやぶらん。
   仏法は月の国から始まって、日本の国にとどまるであろう。月は西から東に向かい、日は東から西へいくことが自然の道理であるように、このことは真理であり、あたかも磁石が鉄を吸い、雷が鳴って象牙が成長するようなものです。誰もこの道理を破ることはできません。

 

第二章 日本へ仏法渡来

 此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば、天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて、第一神武天皇乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき。位につかせ給ひて三十二年治め給ひしに、第十三年壬申(みずのえさる)十月十三日辛酉(かのととり)に、此の国より西に()(だら)国と申す国あり。日本国の大王の御知行の国なり。其の国の大王聖明(せいめい)王と申せし国王あり。年貢(みつぎ)を日本国にまいらせしついでに、金銅(こんどう)の釈迦仏並びに一切経・法師・尼等をわたしたりしかば、天皇大いに喜びて群臣に仰せて云はく、西蕃(せいばん)の仏をあがめ奉るべしやいなや。    この日本国に仏法が渡ってきた由来をたずねてみれば、天神七代、地神五代、すなわち神代の時代を過ぎて、人王の時代となって、第一代神武天皇より第三十代目に欽明天皇という天皇がおられた。この天皇は位につかれて三十二年間、世を治められたわけであるが、その第十三年目壬申の十月十三日辛酉に、日本国の西方に百済国という州があり、日本国の天皇が統治されていた国であるが、その国の大王で聖明王という国王がいた。この王が年貢を日本国につかわしたおりに金銅の釈迦仏、ならびに一切経、法師、尼等を渡らせたので、天皇は大いに喜んで群臣にむかって「西蕃の仏を崇るべきかどうか」と問われた。
 蘇我(そが)大臣(おとど)いな()()宿(すく)()と申せし人の云はく、西蕃の諸国みな此を(らい)す、とよ()あき()やまと(日本)あに(ひと)(そむ)かんやと申す。物部(もののべ)の大む()()こし()・中臣のかま()()等奏して曰く「我が国家天下に君たる人は、つねに天地・しゃ()そく()(もも)()十神(そのかみ)を春夏秋冬にさい()はい()するを事とす。しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せば、をそらくは我が国の神いかりをなさん」云云。    すると、蘇我の大臣で稲目の宿禰という人が「西蕃の諸国はみな、これを礼拝しています。とよあきやまと(日本)ひとりだけが、どうして背くことがありましょうか」と申し上げた。物部の大連の尾興、中臣の鎌子等は「わが国家・天下の君主である人は、つねに天地、社稷、百八十神を春夏秋冬に祭拝するのをならわしとしています。それをいまさら、あらためて西蕃の神を拝するならば、おそらくは、わが国の神は怒りをなすでしょう」と申しあげた。
 ()の時に天皇わかちがたくして勅宣(ちゃくせん)す。此の事を(ただ)心みに蘇我の大臣につけて、一人にあがめさすべし。他人用ひる事なかれ。蘇我の大臣うけ取りて大いに悦び給ひて、此の釈迦仏を我が居住のをはだ(小墾田)と申すところに入れまいらせて安置せり。
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   その時に天皇は判断しがたくして「この仏を試みに、ただ蘇我の大臣一人に崇めさせることにしよう。他の者は用いてはならない」と勅宣を下した。蘇我の大臣は、これを受け取って、大いに喜ばれ、この釈迦仏を自分の居住しているおはだというところに迎え入れ、安置した。

 

第三章 崇仏・排仏派の争い

 物部(もののべ)大連(おおむらじ)不思議なりとていきどをりし程に、日本国に大疫病をこりて死せる者大半に及ぶ。すでに国民尽きぬべかりしかば、物部大連(ひま)を得て此の仏を失ふべきよし申せしかば勅宣なる。「早く他国の仏法を()つべし」云云。物部大連御使ひとして仏をば取りて炭をもてをこし、つち()をもて打ちくだき、仏殿(ほうどの)をば火をかけてやきはらひ、僧尼をばむち()をくわう。    物部の大連は「これは意外なことである」といって、憤っていたところ、日本国に大疫病がおこって、死んだものは大半に及んだ。やがて国民が死につくしそうな様子であったので、物部の大連は、この時とばかり、この仏像をなくすべきであると申したてたところ、「すみやかに、他国の仏法をすてよ」との勅宣が下された。物部の大連は天皇の命をうけた使いとして、仏像を取り上げ、炭をおこして焼き、槌でうちくだき、仏殿には火をつけて焼きはらい、僧尼にはむちを加えた。 
 其の時天に雲なくして大風ふき、雨ふり、内裏(だいり)天火にやけあがて、大王並びに物部大連・()(がの)(おみ)三人共に疫病あり。きるがごとく、やくがごとし、大連は(つい)寿(いのち)絶えぬ。蘇我と王とはからくして蘇生す。而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。    その時、天には雲もないのに、大風がふき、雨がふり、内裏は落雷によって炎上し、天皇ならびに物部の大連、蘇我の臣も三人とも、疫病にかかったのである。その苦しみは、身を切られるごとく、焼かれるようでした。大連はついに命絶えてしまい、蘇我の臣と天皇とは、ようやくのことで生命を全うし、治った。けれども仏法を用いないままで十九年が過ぎました。
 第三十一代の()(だつ)天皇は欽明第二の太子、(みよ)十四年なり。左右の両臣は、(ひとり)は物部大連が子にて、()(げの)(もり)()、父のあとをついで大連に任ず。蘇我の宿(すく)()の子は蘇我(うま)()と云云。    第三十一代の敏達天皇は欽明天皇の第二子で、十二年間国を治められた。その左右の大臣は、一人は物部の大連の子で弓削の守屋といい、父の跡をついで大連に任じられた。もう一人は蘇我の宿禰の子で、蘇我の馬子といった。
 此の王の御代に聖徳太子生まれ給へり。用明(ようめい)の御子敏達のをい()なり。御年二歳の二月、東に向かって無名の指を開ひて南無仏と唱へ給へば御舎利(みて)にあり。是日本国の釈迦念仏の始めなり。    この天皇の御代に聖徳太子がお生まれになった。太子は、のちの用明天皇の御子であり、敏達天皇の甥であった。御年二歳の二月に東に向かって無明の指を開いて、南無仏と唱えられると釈迦の御舎利が掌にあった。これが日本の釈迦念仏のはじめである。
     
 太子八歳なりしに八歳の太子云はく「西国の聖人釈迦牟尼仏の遺像、末世に之を(たっと)めば則ち(わざわい)()し福を(こうむ)る。之を(あなず)れば則ち災を招き寿を縮む」等云云。大連(おおむらじ)物部(もののべの)()(げの)宿禰(すくねの)(もり)()等いかりて云はく「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云。又疫病未だ()まず、人民すでにたえぬべし。弓削守屋又此を間奏す云云。勅宣に云はく「蘇我馬子仏法を興行す、宜しく仏法を(しりぞ)くべし」等云云。此に守屋と中臣(なかとみの)(おみ)勝海(かつみの)大連(おおむらじ)等の両臣は寺に向かって堂塔を切りたう()し、仏像をやきやぶり、寺には火をはなち、僧尼の袈裟をはぎ、(むち)をもって()む。
   聖徳太子が八歳になられたときに、その八歳の太子がいわれるには、「西国の聖人である釈迦牟尼仏の遺像を末世に尊べば、すなわち禍を消し、幸いを蒙る。またこれを蔑れば、すなわち災を招き寿命を縮めるであろう」と。
 大連物部の弓削、宿禰の守屋は怒って「蘇我は勅宣に背いて、他国の神を礼拝している」と奏聞した。また疫病はいまだやまず、すでに人民は死に絶えてしまいそうな様相であった。弓削の守屋は、これをまた奏した。そこで「蘇我の馬子は仏法を興行礼拝している。この仏法をよろしく退けるべきである」との勅宣が下った。
 そこで守屋及び中臣の勝海らの両臣は、寺に向かい、堂塔を切り倒し、仏像を焼きこわし、寺には火を放ち、僧尼の袈裟をはいで、笞をもって責めた。 
 又天皇並びに守屋・馬子等疫病す。其の言に云はく「焼くがごとし、きるがごとし」と。又(かさ)()こる。はうそう(疱瘡)といふ。馬子歎ひて云はく「尚三宝を仰がん」と。勅宣に云はく「汝独り行なへ、但し余人を()てよ」等云云。馬子欣悦(ごんえつ)精舎(しょうじゃ)を造りて三宝を(あが)めぬ。
 天皇は終に八月十五日崩御云云。此の年は太子は十四なり。第三十二代用明天皇治二年欽明の太子。聖徳太子の父なり。
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   この結果、また天皇ならびに物部の守屋、蘇我の馬子らは疫病にかかった。その時の言葉にいわく「身を焼かれるようである。身を切られるようである」と。また、皮膚病がおこった。疱瘡という。馬子は嘆いて「やはり三宝を信奉しましょう」と奏上した。勅宣は「汝一人でうやまえ、ただし、他人のうやまうことは禁ずる」と下った。馬子は大いに悦んで、精舎を造って三宝をうやまったのである。
 敏達天皇は、ついに八月十五日に崩御された。この年、聖徳太子は十四歳であった。。第三十二代用明天皇は治世二年間である。欽明天皇の太子であり、聖徳太子の父である。

 

第四章 崇仏派の勝利を示す

(みよ)二年丁未(ひのとひつじ)四月に天皇疫病あり。(みかど)勅して云はく「三宝に帰せんと欲す」云云。蘇我の大臣(おとど)(みことのり)に随ふべしとて遂に法師を引いて内裏(だいり)に入る。豊国の法師是なり。物部守屋大連等大いに(いか)り、横に(にら)んで云はく「天皇を(えん)()す」と。終に皇隠れさせ給ふ。   治世二年丁未、四月に、天皇は疫病にかかられた。
 皇はついに「三宝に帰依したい」と勅宣された。蘇我の大臣は、詔に随うべきであるとして、ついに法師を内裏に引き入れたのである。これが豊国の法師である。
 物部の守屋の大連は、大いに怒って、反発をまし、「天皇をのろうであろう」と言った。ついに、天皇はおかくれになった。
 五月に物部守屋が一族、渋河(しぶかわ)の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押し寄せてたゝかう。五月・六月・七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ。第四度()に太子願を立てゝ云はく「釈迦如来の御舍利の塔を立て四天王寺を建立せん」と。馬子願って云はく「百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てゝ崇重すべし」云云。    五月に物部の守屋の一族は渋河の家にひきこもって、多数の人を集めた。聖徳太子と馬子が押し寄せて、戦いとなった。五月、六月、七月の間に四回合戦が行われた。そのうち三度は太子側が負けた。
 第四回目の合戦のとき、聖徳太子は「釈迦如来の御舎利の塔をたてて、四天王寺を建立しよう」との願をたてた。馬子も「百済より渡ってきたところの釈迦仏を、寺を建てて安置し崇重しよう」と願った。
 弓削(ゆげ)なの(名乗)って云はく「此は我が放つ矢にはあらず。我が先祖崇重の府都(ふと)の大明神の放ち給ふ矢なり」と。此の矢はるかに飛んで太子の(よろい)(あた)る。太子なのる。此は我が放つ矢にはあらず、四天王の放ち給ふ矢なりとて、()(みの)(いち)()と申す()(ねり)にいさせ給へば、矢はるかに飛んで守屋が胸に(あた)りぬ。はた()かはかつ(河勝)をちあひて頸をとる。此の合戦は用明崩御・()(しゅん)未だ位に()き給はざる其の中間なり。     いよいよ合戦に入って、弓削の守屋は「これは私が放つ矢ではない。私の祖先から崇重している府都の大明神の放たれる矢である」と名のりをあげた。その矢は、はるかにとんで、太子の鎧にあたった。太子も名のり、「これは私の矢ではない。四天王がはなちたもう矢である」と告げて、迹見の赤梼という舎人に射らせると、矢ははるかに飛んで守屋の胸にあたった。そこで秦の川勝が馳せつけて頸をとった。
 この合戦は、用明天皇が崩御されたあと、崇峻天皇が末だ位につかれないその間のことである。
 第三十三崇峻天皇位につき給ふ。太子は四天王寺を建立す。此釈迦如来の御舍利なり。馬子は元興(がんごう)()と申す寺を建立して、百済国よりわたりて候ひし教主釈尊を崇重す。今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑(おうわく)これなり。又釈迦仏にあだをなせしゆへに、三代の天皇並びに物部の一族むなしくなりしなり。又太子、教主釈尊の像一体をつくらせ給ひて元興寺に()せしむ。今の(たちばな)()の御本尊これなり。此こそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。    第三十三代崇峻天皇が位につかれると、聖徳太子は四天王寺を建立した。これは釈迦如来の御舎を安置したのである。馬子は元興寺という寺を建立して百済国から渡ってきた教主釈尊を尊重したのである。ところが、今の代で世間に第一に不思議なことは善光寺の本尊が阿弥陀如来であるということであり、これは世間をたぶらかすものである。
 また、釈迦仏に仇をなした故に、三代の天皇並びに物部一族は滅んだのである。また太子は教主釈尊の像を一体造られて元興寺に安置された。今の橘寺の本尊がこれでる。これこそ日本国で釈迦仏を造ったはじめである。

 

第五章 漢土への仏法渡来

 漢土には後漢の第二の明帝(めいてい)、永平七年に金神(こんじん)の夢を見、博士(はかせ)蔡愔(さいいん)王遵(おうじゅん)等の十八人を月氏につかはして、仏法を尋ねさせ給ひしかば、中天竺の聖人()(とう)()竺法蘭(じくほうらん)と申せし二人の聖人を、同じき永平十年丁卯(ひのとう)の歳迎へ取りて崇重ありしかば、漢土にて本より皇の御いのり()せし儒家・道家の人々数千人、此の事をそねみてうつた()へしかば、同じき永平十四年正月十五日に召し合はせられしかば、漢土の道士悦びをなして唐土の神百霊を本尊としてありき。
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二人の聖人は仏の御舍利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙(たのみ)給ふ。
    漢土では、後漢の第二明帝が、永平七年に金神の夢を見て、博士蔡愔、王遵等の十八人を月氏に派遣し、仏法を求めさせたところ、中天竺の聖人摩謄迦、竺法蘭という二人の聖人と同じく永平十年丁卯の歳に迎えることができて崇重したのです。
 すると、漢土で昔から皇室の祭祀をしていた儒家・道家の人々数千人が、この事を嫉んで訴えたので、同永平十四年正月十五日に、双方を召し合せて、勝劣を決することになった。
 漢土の道士は喜んで、唐土の神・百霊を本尊とし、一方、摩謄迦、竺法蘭の二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊となしその力を頼りとした。
 道士は(もと)より王の前にして習ひたりし仙経・三墳(さんぷん)・五典・二聖三王の書を(たきぎ)につみこめてやきしかば、古はやけざりしが、はい()となりぬ。先には水にうかびしが水に沈みぬ。鬼神を呼びしも来たらず。あまりのはづかしさに褚善信(ちょぜんしん)()(しゃく)(さい)なんど申せし道士等はおもひ(じに)しゝぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舍利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間(みけん)より光を放ち給ふ。呂慧通(りょけいつう)等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ちぬ。    漢土の道士は昔から王の前で行ってきた習わしどおり、仙経・三墳・五典・二聖・三王の書を薪と一緒に積んで焼いたところ、仏法伝来以前は焼けなかった書が、この度はことごとく灰となってしまった。また以前には水に浮かんだものが、今は水に沈んでしまった。鬼神を呼んでもも、それも来ず、あまりの恥ずかしさに褚善信・費叔才などという道士は思い死んでしまった。
 一方、仏教の二人の聖人が説法すると、仏舎利は天に登って光を放って日の光すらみえないありさまであった。そして画像の釈迦仏は眉間より光を放たれたのである。
 呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家し、三十日の間に十箇寺が建立された。

 

第六章 仏法は賞罰正しい事を説く

 されば釈迦仏は賞罰たゞしき仏なり。(かみ)に挙ぐる三代の(みかど)並びに二人の臣下、釈迦如来の敵とならせ給ひて、今生は(むな)しく、後生は悪道に()ちぬ。    このように、釈迦仏は賞罰が正しい仏法である。前にあげた三代の天皇と二人の臣下は、釈迦如来の敵となったので、今生には命を捨て、後生には悪道に堕ちたのである。
 今の代も又これにかはるべからず。漢土の道士信・費等、日本の守屋等は、漢土日本の大小の神祇を信用して、教主釈尊の御敵となりしかば、神は仏に随ひ奉り、行者は皆ほろびぬ。    現代にあってもこれと変えるところがない。漢土の同士、褚善信、費叔才等、また日本の守屋等は、それぞれ漢土・日本の大小の神祇を信じ用いて、教主釈尊の御敵となったので、神は仏に随って、そのため行者は皆亡んだのである。
 今の代も此くの如し。上に挙ぐる所の百済国の仏は教主釈尊なり。名を阿弥陀仏と云ひて、日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり。神と仏と、仏と仏との差別こそあれども、釈尊をすつる心はたゞ一なり。されば今の代の滅せん事又疑ひなかるべし。是は未だ申さゞる法門なり。秘すべし秘すべし。    今の時代も、それと同様である。前にあげた、百済国伝来の仏は教主釈尊である。しかるにその名を阿弥陀仏だといって、日本国をたぼらかし、釈尊を他仏にすりかえたのである。かつて仏法渡来の時は神と釈迦仏、今の鎌倉時代は阿弥陀仏と釈迦仏と、その違いこそあっても、釈尊を捨てる心は同じである。それゆえ、今の代が滅びることもまた疑いないのである。これは今までに申したことのない大事な法門である。深く秘していくべきである。
 又吾が一門の人々の中にも、信心もうすく日蓮が申す事を背き給はゞ蘇我が如くなるべし。其の故は仏法日本に立ちし事は、蘇我(そがの)宿(すく)()と馬子との父子二人の故ぞかし。釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈の如くにてこそあらまじなれども、物部と守屋とを失ひし故に、只一門になりて位もあがり、国をも知行し、一門も繁昌せし故に、(たか)(あがり)をなして崇峻天皇を失ひたてまつり、王子を多く殺し、結句は太子の御子二十三人を馬子がまご()(いる)鹿()の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇は中臣(なかとみの)(かま)()(はから)ひとして、教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば、入鹿の(おみ)並びに父等の一族一時に滅びぬ。    また別しては、吾が一門の中の人であっても、信心がうすく、日蓮の申したことに背いたならば、蘇我一門のようになるであろう。
 その理由は、仏法が日本に受け入れられたのは、蘇我の宿禰と馬子との父子二人がいたからであった。仏法を守護したのであるから、釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈のような立場となるはずであった。だが、蘇我氏は、物部の尾輿や、その子の守屋を滅ぼしてしまったために、大きな勢力をもった朝臣はただ蘇我一門だけになり、位も上がり、国をも知行し、一門も繁盛したため、おごりたかぶった心を起こして、ついには崇峻天皇を殺し、王子を多く殺し、結局は、聖徳太子の御子二十三人を、馬子の孫にあたる入鹿の臣下が殺してしまったのである。
 そこで皇極天皇は中臣の鎌子の計いで、教主釈尊を造って、逆臣が亡びることを強盛に祈って討伐したので、入鹿の臣ならびに、その父蝦夷等の一族は一時に皆滅びてしまったのである。
 此をもて御推察あるべし。又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人々は、かへりて(とが)あるべし。
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日蓮をうらみさせ給ふな。少輔(しょうい)(ぼう)能登(のと)房等を御覧あるべし。
   この蘇我氏の興亡の例を以て推察しなさい。またわが一門のなかでも、信仰が浅薄で信心を貫き通せない人々は、かえって仏の罰を蒙るのである。その時になって日蓮をうらむようなことがあってはならない。少輔房・能登房、門下で退転した人々の姿を御覧なさい。

第七章 仏法の道理は必ず勝つことを示す

 かまへてかまへて、此の間は()の事なりとも()()(しょう)かゝせ給ふべからず。火はをびたゞしき様なれども、(しばら)くあればしめ()る。水はのろき様なれども、左右無く失ひがたし。御辺は腹あしき人なれば火の燃ゆるがごとし。一定人にすかされなん。又主のうらうら(遅々)と言(やわ)らかにすか()させ給ふならば、火に水をかけたる様に御わたりありぬと(おぼ)ゆ。    充分に用心して、当分、たとえ他の事であっても、御起請を書くようなことがあってはならない。
 火の勢いは、ものすごいようであっても、しばらくすれば消える。水はのろいようであっても、その流れは簡単にはなくならない。あなたは短気であるから、火の燃えるようなところがある。必ず人に足をすくわれるであろう。また、主君がのどかに、言葉やわらかくいいくるめようとするならば、火に水をかけたように、主君に説き付せられてしまうだろうと思われる。
 きた()はぬかね()は、さかんなる火に入るればとく()()け候。氷を()に入るゝがごとし。剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず。是きたへる故なり。まえ()にかう申すはきたうなるべし。仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に(かつ)つ物なり。いかにいとを()し、はなれじと思ふ()なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしゝとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか()へて年久し、すこしも惜しむ事なかれ。    鍛えていない鉄は、燃えさかる火の中に入れればすぐにとけてしまう。氷を湯の中に入れるようなものである。剣などは大火に入れても、しばらくはとけない。これは鍛えられているからである。
 あなたは事前に、こう申すのは、あなたを鍛えるためである。仏法というのは道理をもととするものである。道理というものは主君のもつ権力にも勝つのである。いかに愛おしい、離れまいと思う妻であっても、死んでしまえばどうにもならない。また、いかに所領を惜しいと思っても、死ねば他人のものとなってしまう。
 あなたは所領をいただき、すでに栄えて年久しいことである。少しも所領など惜しむ心があってはならない。

第八章 身の用心を勧める

 又さきざき申すがごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし。    また以前にも申したように、今は身に危険がある時であるから、以前より百千万億倍、用心していきなさい。
 日蓮は(わか)きより今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計りなり。されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。其の故は法華経の命を()ぐ人なればと思ふなり。穴賢(あなかしこ)穴賢。    日蓮は若い時から、今生の栄を祈ったことはありません。ただ仏になろうと思い願うだけです。しかしながらあなたの事は、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っているのでる。それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからです。
 あらかるべからず。吾が家にあらずんば人に()()ふ事なかれ。又()(まわ)りの殿原はひとりもたのもしき事はなけれども、法華経の故に屋敷を取られたる人々なり。常はむつ()ばせ給ふべし。又夜の用心の為と申し、かたがた殿の守りとなるべし。吾が方の人々をば少々の事をばみずきかずあるべし。    決して争いごとをしてはいけません。わが家でなければ、人と寄り合ってはいけません。また世廻りの同志の人達は一人も頼りがいがあるとはいえないが、法華経のために屋敷を取られた人々であるから、平常は親しくしていきなさい。夜の用心のためにもなり、また殿の守りにもなろう。わが味方には少々の過ちがあっても、見ず聞かずのふりをしていきなさい。 
 さて又法門なんどを聞かばやと仰せ候はんに、悦んで(まみ)え給ふべからず。いかんが候はんずらん。御弟子共に申してこそ見候はめと、やはやは(和和)とあるべし。いかにもうれしさにいろに顕はれなんと覚え、聞かんと思ふ心だにも付かせ給ふならば、火をつけてもすがごとく、天より雨の()るがごとく、万事をすて()られんずるなり。    また、主君等より、法門など聞きたいとの仰せがあっても、軽率に悦んで出ていくようなことがあってはなりません。「さあ、どうしましょうか、日蓮大聖人の御弟子達に聞いてみましょう」と、ものやわらかにして、答えていきなさい。いかにも、うれしそうな様子を顔色に顕わし、法門を聞こうとの主君の心に乗れられたならば、火をつけて燃すように、天から雨が下るように、いままでの努力の全てを無にすることになるでしょう。
 又今度いかなる便りも出来せば、したゝめ候ひし陳状を()げらるべし。大事の(ふみ)なれば、ひとさは()ぎはかならずあるべし。穴賢穴賢。
(★1180㌻)
        日 蓮 花押
 四条金吾殿
    また今度、なにかの便宜がおきたならば、先ごろしたためて差し上げた陳状を、主君に奏上しなさい。大事なことをしたためた文であるから、一騒ぎは必ずおこるでしょう。穴賢穴賢。
        日蓮花押
 四条金吾殿