大白法・平成7年9月1日刊(第439号より転載)御書解説(029)―背景と大意

松野殿御返事(1169頁)

 

 一、御述作の由来

 本抄は、建治三(1277)年九月九日、大聖人様が御歳五十六歳の時に、身延においてお(したた)めになられた御書です。

対告衆

 松野殿は、本名を松野六郎左衛門尉と称し、後には入道しました。元来、駿河国(するがのくに)()(はら)(ごおり)松野の郷主で、三人の子がいたと伝えられます。一人は跡をとり、六郎左衛門を(しゅう)(めい)した長男。二人目は、南条家に嫁ぎ、時光殿の母となられた上野の後家(ごけ)(あま)。そして、幼少にして四十九院に(のぼ)り、それが縁で日興上人の弟子となり、さらに文永七年には大聖人の(じき)弟子(でし)となって、後には六老僧の一人に加えられた(にち)()です。

 大聖人様の建治二年二月十七日付『松野殿御消息』に、

在家の御身として皆人にくみ候に、(しか)もいまだ見参(げんざん)に入り候はぬに、何と(おぼ)()して御信用あるやらん」(御書951頁)

とあることから、松野殿はこの建治二年頃に入信したようです。そして、これ以後、松野家では、弘安五年に大聖人が(にゅう)(めつ)なさるまでの七年の間に、現存しているだけでも計十二通のお手紙を頂戴しています。本抄は、その第四番目のお手紙です。

背景

 松野殿は、本抄を賜ってから一年と二ヵ月余り後の、弘安元年十一月に亡くなりました。本抄をいただいた時、すでに病床にあったかどうか定かではありませんが、前年に賜った御書にも本抄同様、(りん)(じゅう)(しょう)(ねん)のことや成仏得脱への心構えなどが説かれ、信心堅固に、(ただ)ひたすら唱題することが勧められています。

 すなわち、建治二年に松野殿は大聖人のもとへ種々の御供養を奉ると同時に、一通の手紙をもって、

日夜勤行唱題に励んでいるが、入信間もない何も知らない者と、信心修行の進んだ聖人が唱える題目には、どれくらい功徳の違いがあるのでしょうか

と質問されています。また、成仏への心構えも尋ねられたようです。

 そして、大聖人様からこれに対する懇切丁寧な御教示を賜っています。すなわち、正しく信心している者が唱題する功徳は、聖人の唱える題目と功徳に違いはないが、仏様の教えに(そむ)いて、十四誹謗の心で唱えれば功徳がないこと。

 さらに、成仏するためには、()(まん)(へん)(しゅう)(みょう)(もん)(みょう)()を捨てて、法華経の行者を供養し、仏法を(ちょう)(もん)することが大切であり、雪山童(せっせんどう)()のように身命を惜しまず、仏道に精進することが成仏の要諦(ようてい)であるとの勧誡(かんかい)などです。

 こうして松野殿は、一つ一つ大聖人様から(きょう)()を受けられ、信仰の道を正しく歩んでいったのです。

 二、本抄の大意

 まずはじめに、()(もく)一貫文・油一升・衣一つ・筆十管などの御供養の品々を書き上げられて、その一つ一つの品が非常に貴重なものであり、松野殿の志の深さを表わすものと、その真心に感謝あそばされています。そして、ただひたすら余念なく、唱題していくならば、最後臨終の時には、常楽我浄の法界寂光土を感見することができると仰せられ、最後まで信仰を貫き、唱題していくべきことを勧められています。

 最後に追伸として、別名(むく)欒子(ろじ)といって、その実を数珠の珠とする目連樹という木を求められています。

 三、拝読のポイント

 まず第一は、唱題の功徳についてです。本抄には、

但在家の御身は余念もなく日夜朝夕南無妙法蓮華経と唱へ候ひて、最後臨終の時を見させ給へ

と仰せです。この唱題こそが成仏の要因であることの御指南は、御書の随所に拝されます。

 御化導初期の『総在一念抄』には、

文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先づ()業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子むね()の中に収めて必ず(しゅつ)()の人と成るなり。此の経の諸経に(ちょう)()する事は()(ぼう)すら尚逆縁と説く不軽(きょう)()の衆是なり。何に況んや信心を致す順縁の人をや」(御書115頁)

とあり、信心をもととした真剣なる唱題こそが成仏への直道であることを御指南されています。信心は御本尊に対する唱題に始まり、唱題に終わると申しても過言ではありません。そして、この唱題とは『三大秘法稟承事』に、

末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異り、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594頁)

と仰せのように、像法天台宗における自行ばかりの唱題ではなく、まさに自行・化他にわたる本仏事行の題目であることを知らねばなりません。

 私たちは、大聖人様の弟子檀那であるからには、大聖人のお唱えになる自行化他の題目、すなわち唱題と折伏に励むところに真の唱題の意義があることを心得て、唱題行に励んでまいりましょう。

 第二に、本抄には、

妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ。法界は寂光土にして瑠璃を以て地とし、(こがねの)(なわ)を以て八つの道をさかひ、天より四種の花ふり、()(くう)に音楽聞こえ、諸仏菩薩は皆(じょう)(らく)()(じょう)にそよめき給へば、我等も必ず其の数に(つら)ならん

と仰せです。これは法華経『見宝塔品』の三変(さんぺん)()(でん)の清浄国土や『寿量品』の自我偈に、

我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀」(開結508頁)

と説かれる(ほん)()の常寂光土を示された御指南です。

 大聖人様は、この娑婆世界が、本来は本有の常寂光土であることを知らしめ、一切衆生を成仏せしめるために末法に御出現になり、立正安国の原理を説かれたのです。

 『南条殿御返事』には、

不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。(乃至)此の砌に(のぞ)まん(やから)は無始の罪障(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(御書1569頁)

と説かれますが、今日においては、大聖人様の御法魂まします総本山大石寺のみが、真の霊山浄土なのです。そして、また『最蓮房御返事』には、

されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光の都たるべし」(御書588頁)

とも仰せのように、代々の御法主上人が、大聖人様の御法魂にまします本門戒壇の大御本尊の御内証を書写あそばされた、御本尊を安置する個々の家庭も、常寂光土の意義を有することは言うまでもありません。但し、そこには、当然総別の立て分けが存するのであり、娑婆即寂光とは、根本の下種三宝に対する強盛な信行の実践の中にのみ感得される境界であることを知らねばなりません。

 四、結  び

 このように、私たちが成仏するために必要なものは、正法・正師の正義に対する真剣な求道心と実践なのです。大聖人様は、

命限り有り、惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり」(富木入道殿御返事 御書488頁)

と仰せですが、全ての毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)をバネとして大聖人様の教えに一歩でも近づこうと心掛けていくことが大切です。世俗の権力や金品は、生者の全てを奪い去る死の前には無力です。

 只、心に積んだ宝だけが、死に臨んでの私たちの唯一の宝であり、そして誰も奪うことのできない永遠の宝なのです。

 この真実の生命の宝を得た境界こそ、本抄の御教示と拝し、残された人生を強い信心を根本に唱題と折伏に精進し、御法主上人猊下御指南の三十万総登山をめざして、いよいよ精進いたしましょう。