頼基陳状 建治三年六月二五日 五六歳

別名『三位房竜象房問答記』

第一章 桑ヶ谷問答の発端を述べる

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 去ぬる六月廿三日の御下し文、島田左衛門入道殿、山城民部入道殿両人の御承りとして同廿五日謹んで拝見仕り候ひ畢んぬ。
 
 去る六月二十三日の御下し文は、島田の左衛門入道殿、山城の民部入道殿、両人の取り次ぎで、同月二十五日、謹んで拝見しました。
 右仰せ下しの状に云はく、竜象御房の御説法の所に参られ候ひける次第、をほかた穏便ならざる由、見聞の人遍く一方ならず同口に申し合ひ候事驚き入って候。徒党の仁其の数兵杖を帯して出入すと云云。    右の仰せの状によると「竜象御房の御説法の場に行かれたときの成り行きは、およそ穏やかでなかったと、見聞していた人々が、みな一同に口を合せて言っているのを聞いて驚いている。それによると、徒党の者が数人、武装して乗り込んできた」との仰せでした。
 此の条跡形も無き虚言なり。所詮、誰人の申し入れ候ひけるやらん、御哀憐を蒙りて召し合はせられ、実否を糾明せられ候はゞ然るべき事にて候。    このことは、なんの証拠もない虚言です。所詮、誰かが耳に入れたのでしょうか。哀憐をいただき、その者と召し合わされ、ことの実否を糾明されるなら最も妥当なことかと思われます。
 凡そ此の事の根源は、去ぬる六月九日、日蓮聖人の御弟子三位公、頼基が宿所に来たり申して云はく、近日竜象房と申す僧京都より下りて、大仏の門の西桑谷に止住して、日夜に説法仕るが申して云はく、現当の為、
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仏法に御不審存ぜむ人は来たりて問答申すべき旨説法せしむる間、鎌倉中の上下釈尊の如く貴び奉る。しかれども問答に及ぶ人なしと風聞し候。彼へ行き向かひて問答を遂げ、一切衆生の後生の不審をはらし候はむと思ひ候。聞き給はぬかと申されしかども、折節宮仕へに隙無く候ひし程に、思ひ立たず候ひしかども、法門の事と承りてたびたび罷り向かひて候へども、頼基は俗家の分にて候、一言も出ださず候ひし上は、悪口に及ばざる事、厳察に足るべく候。
   およそ、この根源は、去る六月九日、日蓮聖人の御弟子、三位公が、頼基が宿所に来て言うには「このごろ、竜象房という僧が、京都から下って来て、大仏殿の門の西側の桑ヶ谷に居住して、日夜に説法している。その竜象房が言うには『現世と来世のために仏法について不審のある人は来て問答されるがよい』と説法している。そのために、鎌倉中の上下万民は釈尊のように尊んでいる。しかしながら、誰ひとりとして問答をする人はいないと噂にきいている。そこで私・三位房はそこへ行って問答をし、一切衆生の後生の不審を晴らしたいと思う。ついては同行して、聞かれてはどうか」と勧められたのです。
 だが、ちょうどその時は、官仕えで隙もなかったもので、その後法門のことと承ったものですから、たびたび説法の場に出向いては行きましたが、頼基は在家の身分であるから、一言も発言しませんでした。ですから、悪口などをなかったことは御厳察下さるに足ることと存じます。

 

第二章 桑ヶ谷問答(1)諸宗の誤りを糺す

 ここに竜象房説法の中に申して云はく、此の見聞満座の御中に、御不審の法門あらば仰せらるべしと申されし処に、日蓮房の弟子三位公問うて云はく、生を受けしより死をまぬかるまじきことはり、始めてをどろくべきに候はねども、ことさら当時日本国の災に死亡する者数を知らず、眼前の無常、人毎に思ひしらずと云ふ事なし。然る所に京都より上人御下りあて、人々の不審をはらし給ふよし承って参り候ひつれども、御説法の最中、骨無くも候ひなばと存じ候ひし処に、問ふべき事有らむ人は各々憚らず問ひ給へと候ひし間悦び入りて候。    ここに、竜象房は説法の中で「この見聞満座の人びとの中で、法門にご不審のある人は尋ねられるがよい」と申されたので、日蓮房の弟子・三位公が質問していうには「生を受けたときより死をまぬかれないという道理は、いまさら驚くべきことではありませんが、とりわけ、当時、日本国の災難で死亡する者は数えきれません。眼前の惨状を見て、無常を観じない者は、一人もいません。
 そうしているところに、京都から上人が来られ、人びとの不審を晴らされているということを承ってきましたが、御説法の最中では無作法と思っていたところ、質問のある人は各々、誰にも遠慮せずに尋ねなさいとのことで悦んでおります。
 先づ不審に候事は、末法に生を受けて辺土のいやしき身に候へども、中国の仏法幸ひに此の国にわたれり。是非信受すべきの処に、経は五千七千数多なり、然而一仏の説なれば所詮は一経にてこそ候らむに、華厳・真言乃至八宗、淨土・禅とて十宗まで分かれてをはします。    先ず不審に思うことは、末法の世に生まれ、仏の出現したインドから遠く離れた辺土の卑しい身分でありますが、仏法の中心の国の仏法が幸いにもこの日本の国に渡ってきました。是か非でも信受したいと思うのですが、経文が五千、七千と数多くあります。しかも一仏の説ですから所詮は一経であるはずなのに、華厳・真言・乃至八宗・浄土・禅と宗教界は十宗にまで分かれています。
 此等の宗々も、門はことなりとも所詮は一かと推する処に、弘法大師は我が朝の真言の元祖、法華経は華厳経・大日経に相対すれば門の異なるのみならず、其の理は戯論の法、無明の辺域なり。又法華宗の天台大師等は諍って醍醐を盗む等云云。法相宗の元祖慈恩大師云はく、法華経は方便、深密経は真実、無性有情永不成仏と云云。華厳宗の澄観云はく、華厳経は本教、法華経は末経。或は華厳は頓々、法華は漸頓等云云。三論宗の嘉祥大師云はく、諸大乗経の中には般若経最第一と云云。浄土宗の善導和尚云はく、念仏は十即十生百即百生、法華経等は千中無一と云云。法然上人云はく、法華経を念仏に対して捨閉閣抛、
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或は行者は群賊等云云。禅宗の云はく、教外別伝不立文字と云云。
   これらの諸宗も宗門は異なっているとはいえ、究極は一つであろうとおしはかっていましたところ、弘法大師はわが国の真言宗の元祖で、『法華経は華厳経・大日経に相対すると、門が異なるばかりでなく、その理は戯論の法で、無明の分際である』といい、また、『法華宗の天台大師等は争って六波羅蜜の醍醐を盗んだ』等と言っています。法相宗の元祖・慈恩大師は『法華経は方便であり、深密経は真実である。そして無性有情の二乗は永く成仏できない』と説いています。また華厳宗の澄観は『華厳経が根本の教であり、法華経は枝末の教である』あるいは『華厳経は、速やかに仏果を得る頓々の教であるが、法華経は次第に仏果を得る漸頓の教である』等といっている。また三論宗の嘉祥大師は『諸の大乗経の中で般若教が第一である』といい、浄土宗の善導和尚は『念仏を修行する者は十人が十人、百人が百人往生するが、法華経等では千人に一人も成仏しない』といっています。更に法然上人は『法華経を念仏に対して、捨てよ、閉じよ、閣け、抛て』といい、あるいは『法華経の行者は群賊である』と。禅宗では『仏教の神髄は一切経の外の別伝であり、文字によらない』といっています。 
 教主釈尊は法華経をば、世尊の法は久しくして後に要ず当に真実を説きたまふべし、多宝仏は妙法華経は皆是真実なり、十方分身の諸仏は舌相梵天に至るとこそ見えて候に、弘法大師は法華経をば戯論の法と書かれたり。釈尊・多宝・十方の諸仏は皆是真実と説かれて候。いづれをか信じ候べき。善導和尚・法然上人は法華経をば千中無一・捨閉閣抛、釈尊・多宝・十方分身の諸仏は、一として成仏せずといふこと無し皆仏道を成ずと云云。三仏と導和尚・然上人とは水火なり雲泥なり。何れをか信じ候べき、何れをか捨て候べき。    しかし教主釈尊は、法華経を『世尊は法は久しく説いて後に、必ず真実を説くのである』といい、多宝仏は『妙法華経は皆是れ真実である』と証明を加え、十方分身の諸仏も真実証明のため『広長舌を梵天まで至らしめた』と経文に説かれています。だが、弘法大師は『法華経をば戯論の法』と書いています。釈尊・多宝・十方の諸仏は『法華経は皆是れ真実』と説いていますがいずれを信ずべきでしょうか。また、善導和尚と法然上人は法華経を『千人に一人も成仏しない。捨てよ、閉じよ、閣け、抛て』と説いています。これに対して釈尊・多宝・十方分身の諸仏は『法華経では一人として成仏しないということはない。皆ことごとく仏道を成ずる』と説いています。釈尊・多宝・十方分身の三仏と善導和尚・法然上人の説とは水火・雲泥の相違です。いずれを捨てるべきでしょうか。
 就中彼の導・然両人が仰ぐ所の双観経の法蔵比丘の四十八願の中に、第十八願に云はく「設ひ我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く」云云。たとひ弥陀の本願実にして往生すべくとも、正法を誹謗せむ人々は弥陀仏の往生には除かれ奉るべきか。又法華経の二の巻には「若し人信ぜざれば其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。念仏宗に詮とする導・然の両人は、経文実ならば阿鼻大城をまぬかれ給ふべしや。彼の上人の地獄に堕せば、末学弟子檀那等自然に悪道に堕ちん事疑ひなかるべし。    とりわけ、彼の善導・法然の両上人が尊ぶ雙観経の法蔵比丘の四十八願の中の第十八願には『設い我れ仏を得るとも…唯五逆罪を犯したものと正法を誹謗した者は除く』とあり、たとえ阿弥陀の本願が真実であって往生できるとしても、正法を誹謗する人々は阿弥陀仏の往生から除かれるはずである。また、法華経の二の巻には『若し人がこの法華経を信じないならば、その人は命終えて、阿鼻地獄に堕ちる』と説かれています。念仏宗を仏法の詮要とする善導・法然の両人は、これらの経文が真実であるならば阿鼻地獄をまぬかれることができるでしょうか。彼の上人が地獄に堕ちられるなら、その流れを汲んだ者、弟子・檀那らも、自然に悪道に堕ちる事は疑いないことです。 
 此等こそ不審に候へ、上人は如何と問ひ給はれしかば、    これらのことこそ不審なことです。竜象上人はこれをどう考えられますか」と三位公は問い糺されました。

 

第三章 桑ヶ谷問答(2)正師の実践を明かす

 竜上人答へて云はく、上古の賢哲達をばいかでか疑ひ奉るべき。竜象等が如くなる凡僧等は仰いで信じ奉り候と答へ給ひしを、をし返して、此の仰せこそ智者の仰せとも覚えず候へ。誰人か時の代にあをがるゝ人師等をば疑ひ候べき。但し涅槃経に仏最後の御遺言として「法に依って人に依らざれ」と見えて候。人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候。御辺はよもあやまりましまさじと申され候。御房の私の語と仏の金言と比べんには、三位は如来の金言に付きまいらせむと思ひ候なりと申されしを、    竜象房上人がそれに答えていうには「昔の賢人や哲人達をどうして疑うことができよう。竜象のような凡僧等はただ仰いで信ずるのみである」と答えたのです。三位房はその言葉を押し返して、「この仰せこそ、智者の仰せの言葉とはおもわれません。誰がその時代に仰がれた人師らを疑うでしょうか。但し、涅槃経に仏最後の御遺言として「法に依つて、人に依ってはならない」と説かれております。もし人師に誤りがあるならば、経文に依りなさいと仏は説かれています。あなたはまさか先師に誤りがないといわれます。だが、御房の私的な言葉と仏の金言とを比べるならば、この三位は如来の金言のほうを信じていこうと思うのです」といわれました。
 象上人は人師にあやまり多しと候はいづれの人師に候ぞと問はれしかば、上に申しつる所の弘法大師・法然上人等の義に候はずやと答へ給ひしかば、象上人は嗚呼叶ひ候まじ、我が朝の人師の事は忝くも問答仕るまじく候。満座の聴衆皆々其の流にて御坐す。鬱憤も出来せば定めてみだりがはしき事候なむ、恐れあり恐れありと申されし処に、三位房の云はく、
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人師のあやまり誰ぞと候へば、経論に背く人師逹をいだし候ひし。憚りありかなふまじと仰せ候にこそ、進退きはまりて覚え候へ。
   そこで、竜象房上人は、「人師に誤りが多いというのは、どの人師を指していうのか」と問われたので、三位公は「前にいったところの弘法大師や法然上人等の義ではありませんか」と答えられました。竜象房上人は「ああ、それは容易ならぬことである。わが国の人師のことは、恐れ多くて、問答を差し控えたい。この満座の聴衆は皆、弘法大師や法然上人の流れの人々である。抑えきれない怒りや、不満が出て、きっと乱れるようなことになるであろう。実に恐れある」といわれたので、三位房は「人師の誤りは誰のことかといわれたので、経論に背く人師達を出したのです。それなのに、聴衆を憚り、問答ができないといわれることこそ進退きわまったとしか思えません。
 法門と申すは、人を憚り世を恐れて、仏の説き給ふが如く経文の実義を申さざらんは愚者の至極なり。智者上人とは覚え給はず。悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべしと見へ候はむに、法師の身として争でかいさめず候べき。然れば則ち法華経には「我身命を愛せず」と、涅槃経には「寧ろ身命を喪ふとも」等云云。実の聖人にてをはせば、何が身命を惜みて世にも人にも恐れ給ふべき。外典の中にも、竜蓬と云ひし者、比干と申せし賢人は頚をはねられ、胸をさかれしかども夏の桀、殷の紂をばいさめてこそ賢人の名をば流し候ひしか。内典には不軽菩薩は杖木をかほり、師子尊者は頭をはねられ、竺の道生は蘇山にながされ、法道三蔵は面に火印をさゝれて江南にはなたれしかども、正法を弘めてこそ聖人の名をば得候ひしかと難ぜられ候ひしかば、    法門というのは、人を憚り世を恐れて、仏の説いた通りに経文の実義をいわないのは、愚者の至極です。智者上人とは思われません。悪法が世に弘まり、人々が悪道に堕ち、国土が滅びようとしているのに、法師の身として、どうして諫めずにいられましょうか。それゆえ法華経には『我れ身命を愛まず』と説かれ涅槃経には『寧ろ身命を喪うとも法を弘める』と説かれています。真実の聖人であるならば、どうして身命を惜しんで世間や人を恐れることがありましょうか。外典の中にも竜蓬という者、比干という賢人はそれぞれ頚をはねられ、胸をさかれたけれども、主君である夏の国の桀王や殷の紂王を諌めて、賢人の名を末代まで伝えました。仏典には、不軽菩薩は杖木の責めを蒙り、師子尊者は頭をはねられ、竺の道生は蘇山に流され、法道三蔵は面に火印をさされて江南に追放されましたが、正法を弘めた故に、聖人の名を得たのではないですか」と非難したのでした。
 竜聖人の云はく、さる人は末代にはありがたし。我々は世をはゞかり人を恐るゝ者にて候、さやうに仰せらる人とても、ことばの如くにはよもをはしまし候はじと候ひしかば、此の御房は争でか人の心をば知り給ふべき。某こそ当時日本国に聞こへ給ふ日蓮聖人の弟子として候へ。某が師匠の聖人は末代の僧にて御座候へども、当世の大名僧の如く望んで請用もせず、人をも諂はず、聊異なる悪名もたゝず、只此の国に真言・禅宗・浄土宗等の悪法並びに謗法の諸僧満ち満ちて、上一人をはじめ奉りて下万民に至るまで御帰依ある故に、法華経教主釈尊の大怨敵と成りて、現世には天神地祇にすてられ、他国のせめにあひ、後生には阿鼻大城に堕ち給ふべき由、経文にまかせて立て給ひし程に、此の事申さば大なるあだあるべし、申さずんば仏のせめのがれがたし。いはゆる涅槃経に「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」等云云。    竜象房上人はそれに答えて「そのような賢人・聖人は末世にはありえない。我々は世を憚り、人を恐れる者である。そういわれる貴僧も、いわれた言葉どおりにはまさかなさっていないでしょう」といわれたのです。
 それに対して、三位公は「あなたにどうして人の心がわかるのでしょうか。私こそ現在、日本国にその名の聞えた日蓮聖人の弟子として身を置く者です。私の師匠の聖人は末代の僧でありますが、当世の大名僧のように自分から望んで人に招かれもしません。人にも諂わず、いささかの世間的な悪名も立ちません。ただ、この国に真言・禅宗・浄土宗等の悪法、ならびに謗法の諸僧が充満して、上一人を始めとして、下万民に至るまでそれらの宗に帰依しているために、法華経・教主釈尊の大怨敵となって、現世には天神・地祇に捨てられ、他国の攻めにあい、後生には阿鼻地獄に堕ちることを、経文に従って申し立てられているのです。だがこの事を言うならば大きな難がある。しかし、言わなければ仏の責めをのがれがたい。いわゆる涅槃経には『若し善比丘がいて、法を壊る者を見て置いて、その者を呵責せず、追い出しもせず、その罪を責めないならば、まさしくその比丘は仏法の中の怨敵である』と説かれている。
 世に恐れて申さずんば、我が身悪道に堕つべきと御覧じて、身命をすてゝ、去ぬる建長年中より今年建治三年に至るまで、二十余年が間あえてをこたる事なし。然れば私の難は数を知らず、
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国王の勘気は両度に及びき。三位も文永八年九月十二日の勘気の時は供奉の一行にて有りしかば、同罪に行なはれて頚をはねらるべきにてありしは、身命を惜しむものにて候かと申されしかば、
   世間を恐れて言わなければ、我が身が悪道に堕ちることを御覧になって、身命を捨てて、去る建長年間から今年建治三年に至るまでの二十余年が間、怠ったことはないのです。
 そうであるから私的な難は数えきれないし、国王の御勘気は両度に及びました。この三位も文永八年九月十二日の勘気の時は、お供の一人であったので、同罪に問われ、頚をなねられるところでした。それでも、身命を惜しむ者であるといわれるのか」と反詰したのでした。

 

第四章 桑ヶ谷問答(3)問答の終結

 竜象房口を閉じて色を変へ候ひしかば、此の御房申されしは、是程の御智慧にては人の不審をはらすべき由の仰せ無用に候ひけり。苦岸比丘・勝意比丘等は我れ正法を知りて人をたすくべき由存ぜられて候ひしかども、我が身も弟子檀那等も無間地獄に堕ち候ひき。御法門の分斉にて、そこばくの人を救はむと説き給ふが如くならば、師檀共に無間地獄にや堕ち給はんずらむ。今日より後は此の如き御説法は御はからひあるべし。加様には申すまじく候へども、悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返りて仏法の中の怨なるべしと、仏の御いましめのがれがたき上、聴聞の上下皆悪道にをち給はん事不便に覚へ候へば此の如く申し候ひしなり。智者と申すは国のあやうきをいさめ、人の邪見を申しとゞむるこそ智者にては候なれ。是はいかなるひが事ありとも、世の恐しければいさめじと申されむ上は力及ばず。某は文殊の智慧も富樓那の弁説も詮候はずとて立たれ候ひしかば、諸人歓喜をなし、掌を合はせ今暫く御法門候へかしと留め申されしかども、やがて帰り給ひ了んぬ。此の外は別の子細候はず。且つは御推察あるべし。     竜象房上人はこれに口を閉じ、顔色を変えてしまいました。そこで三位房がいったことは「この程度の智慧では人の不審を晴らそうなどとの高言は無用でしょう。苦岸比丘や勝意比丘らは、自分は正法を知ったから人を救ってやろうと思ってたのですが、我が身も弟子・檀那らも共に無間地獄に堕ちました。
 あなたの法門の程度で多くの人を救おうなどと説法するようであれば、師檀共に無間地獄に堕ちるのではないでしょうか。今日よりのちは、このような説法は考え直されるがよい。このようなことはいうまいと思ったけれどもいわなければ『悪法をもって人を地獄に堕とそうとする邪師を見ながら責め顕わさないならば、返ってそれは仏法の中の怨である』との仏の戒めが免れがたく、その上、説法を聴聞している全ての人々が悪道に堕ちることが不便に思われたので、このようにいうのです。智者というものは、国の危機を諫め、人の邪見を止めることこそ智者ではないでしょうか。あなたは、どのような誤りがあろうとも世間が恐ろしいので諫めないといわれる以上はどうしようもございません。もはや文殊の智慧も富楼那の弁説も役に立ちません」といって席を立たれると、諸人は歓喜して、掌を合わせ「いましばらく法門をお聞かせ下さい」と引き止めました。だが三位房は、そのまま帰られてしまいました。
 以上のほかには別のことは何もありません。どうか御推察ください。
 法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はむ者の、争でか法門の時悪行を企て、悪口を宗とし候べき。しかしながら御きゃうざく有るべく候。其の上日蓮聖人の弟子となのりぬる上、罷り帰りても御前に参りて法門問答の様かたり申し候ひき。又其の辺に頼基しらぬもの候はず、只頼基をそねみ候人のつくり事にて候にや。早々召し合はせられん時、其の隠れ有るべからず候。    法華経を信じて仏道を願うほどの者が、どうして法門の問答の時に悪行を企てたり、悪口を旨とするでしょうか。すべて、その事情の経過についてご推察下さい。
 そのうえ日蓮聖人の弟子と名乗った上、帰りましても御前に参りまして法門問答の様子を申し上げました。
 また、問答をした付近には、頼基の知らない者はいませんでした。おそらく頼基を妬む人の作りごとでありましょう。早く、その者と召し合わせられれば、事の真相がわからずにいられることはないでしょう。

 

第五章 良観房を破す

 又仰せ下さるゝ状に云はく、極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると。    また、仰せ下された状には「極楽寺の長老は釈尊の再来であると仰いでいる」とありますが、この条はどうしても賛同しがたく思われます。
 此の条難かむの次第に覚え候。其の故は、日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使ひ、
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上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御坐候聖人を、頚をはねらるべき由の申し状を書きて、殺罪に申し行なはれ候ひしが、いかゞ候ひけむ、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候ひしは、良観上人の所行に候はずや。
   その理由は、日蓮聖人は経文に説かれているとおりであるならば、久成実成の釈尊の御使・上行菩薩の垂迹・法華経本門の行者・五五百歳の大導師であります。その聖人の頚をはねよとの申し状を書いて殺罪にしようとしたのですが、どうしたわけでしょうか、死罪を止めて佐渡の島まで遠流にされたのは、良観上人の仕業ではないでしょうか。その訴状は別紙にあります。
 其の訴状は別紙にこれ有り。抑生草をだに伐るべからずと六斎日夜の説法に給はれながら、法華の正法を弘むる僧を断罪に行なはるべき旨申し立てらるゝは、自語相違に候はずや如何。此の僧豈天魔の入れる僧に候はずや。    そもそも良観上人は生き草でさえも切ってはならないと六斎の日夜に説法されながら、法華経・正法を弘める僧を断罪せよと申し立てられたのは自語相違ではないでしょうか。この僧こそ天魔の入った僧ではありまさんか。
 但此の事の起こりは良観房常の説法に云はく、日本国の一切衆生を皆持斎になして八斎戒を持たせて、国中の殺生、天下の酒を止めむとする処に、日蓮房が謗法に障へられて此の願叶ひ難き由歎き給ひ候間、日蓮聖人此の由を聞き給ひて、いかゞして彼が誑惑の大慢心をたをして無間地獄の大苦をたすけむと仰せありしかば、頼基等は、此の仰せ法華経の御方人、大慈悲の仰せにては候へども、当時日本国別して武家鎌倉の世きらざる人にてをはしますを、たやすく仰せある事いかゞと弟子共同口に恐れ申し候ひし程に、    但し、この事の起こりは、良観房が平素の説法で「私は、日本国の一切衆生を皆、律宗の人となし、八斎戒を持たせて、日本国中の殺生と天下の飲酒を止めようと苦心しているのに、日蓮房の謗法に妨げられて、この願いが叶いがたい」と歎いていたのでした。日蓮聖人がこのいきさつを聞かれて「なんとかして良観房の誑惑の大慢心を倒して、無間地獄の大苦を救ってあげよう」と仰せがあったので、頼基らは「この仰せは法華経の御方人の大慈大悲の仰せではありますが、良観房は現在、日本の国、とりわけ、武家鎌倉の世では人々に尊敬されている人であるから、軽々しく仰せになることはどうでしょうか」と弟子共が異口同音に気づかって、申し上げておりました。

 

第六章 良観房を重ねて破す

 去ぬる文永八年太歳辛未六月十八日大旱魃の時、彼の御房祈雨の法を行なひて万民をたすけんと申し付け候由、日蓮聖人聞き給ひて、此体は小事なれども、此の次いでに日蓮が法験を万民に知らせばやと仰せありて、良観房の所へ仰せつかはすに云はく、七日の内にふらし給はゞ日蓮が念仏無間と申す法門すてゝ、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし。上代も雨祈に付いて勝負を決したる例これ多し。所謂護命と伝教大師と、守敏と弘法となり。仍って良観房の所へ周防房・入沢入道と申す念仏者を遣はす。御房と入道は良観が弟子、又念仏者なり、いまに日蓮が法門を用ふる事なし、是を以て勝負とせむ。七日の内に雨降るならば、本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思ふべし、又雨らずば一向に法華経になるべしといはれしかば、是等悦びて極楽寺の良観房に此の由を申し候ひけり。    去る文永八年六月十八日の大旱魃の時、良観房は祈雨の修法を行って万民を助けよと仰せつけられたという事を日蓮聖人が聞かれました。そして「このようなことはささいな事ではあるが、事のついでに日蓮が法験を万人に知らせよう」と仰せになって、良観房の所へ使いを遣わして、もしも七日以内に雨を降らせたならば、日蓮は念仏無間という法門を捨てて、良観上人の弟子となって二百五十戒持とう。だがもし雨が降らなかったなら、彼の良観房が持戒げに見えても大誑惑であることは、はっきりするだろう。上代にも祈雨によって法門の勝負を決めた例は多いのである。いわゆる護命と伝教大師、守敏と弘法の対決がそれである」と仰せになりました。そして良観房のもとへ周防房・入沢の入道という念仏者を遣わしました。この御房と入道とは良観の弟子で、また念仏者であって、いまだに日蓮が法門を信じていません。そこで日蓮聖人は「この祈雨の一件で仏法の勝負をしよう。もし七日以内に、雨が降るならば、従来信ずるところの八斎戒・念仏の教えで往生できると思うがよい。しかしながら、もし雨が降らないなら、ひたすら法華経を信じなさい」と仰せられたので、彼らは悦んで極楽寺の良観房にこの事を申し伝えたのです。
 良観房悦びないて七日の内に雨ふらすべき由にて、弟子百二十余人頭より煙を出だし、声を天にひゞかし、或は念仏、或は請雨経、
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或は法華経、或は八斎戒を説きて種々に祈請す。四五日まで雨の気無ければ、たましゐを失ひて、多宝寺の弟子等数百人呼び集めて力を尽くして祈りたるに、七日の内に露ばかりも雨降らず。
   良観房は泣いて悦び、七日以内内に雨を降らそうと、弟子達百二十余人とともに頭から煙を出すほど必死になり、声を天に響かせ、あるいは念仏を、あるいは請雨経を、あるいは法華経を、あるいは八斎戒を説いてさまざまな祈請をしたのです。だが四・五日たっても雨の降る気配がないので、良観は動転し、更に多宝寺の弟子達数百人を呼び集めて、万法を尽くして祈り続けたが、七日以内には露ほどの雨も降りませんでした。
 其の時日蓮聖人使ひを遣はす事三度に及ぶ。いかに泉式部と云ひし婬女、能因法師と申せし破戒の僧、狂言綺語の三十一文字を以て忽ちにふらせし雨を、持戒持律の良観房は法華・真言の義理を極め、慈悲第一と聞こへ給ふ上人の、数百人の衆徒を率ゐて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ。是を以て思ひ給へ。一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんや。やすき雨をだにふらし給はず、況んやかたき往生成仏をや。然れば今よりは日蓮怨み給ふ邪見をば是を以て翻し給へ。後生をそろしくをぼし給はゞ約束のまゝにいそぎ来たり給へ。雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ。七日の内に雨こそふらし給はざらめ。旱魃弥興盛に八風ますます吹き重なりて民のなげき弥々深し。すみやかに其のいのりやめ給へと、第七日の申の時、使者ありのまゝに申す処に、良観房は涙を流す。弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる。日蓮御勘気を蒙る時、此の事御尋ね有りしかば有りのまゝに申し給ひき。    その間、日蓮聖人は使いを遣わすこと三度に及んでいます。「泉式部という婬女や能因法師という破戒の僧でさえ、狂言綺語をもてあそぶ三十一字で、たちまち降らすことができた雨を、持戒・持律の良観房は、法華・真言の義理をきわめて慈悲第一と評判の上人でありながら、数百人の衆徒を率いて、七日の間祈りながらどうして降らすことができないであろうか。この事実をもって推し量りなさい。一丈の堀を越えられない者が、どうして二丈・三丈の堀を越えることができようか。雨を降らすという簡単なことさえできないのに、どうして難事の往生成仏をさせることができようか。それ故、これからは、日蓮を怨む邪見をこの事実をもって改めなさい。後生をおそろしく思われるならば、約束。雨ふらす法と仏になる道を教えてあげよう。七日以内に雨を降らすことができないではないか。旱魃はいよいよ盛んになり、八風はますます吹き重なり、民衆の嘆きはいよいよ深い。速やかに、その祈りを止めなさい」と、使いを遣わしたのです。第七日目の午後四時頃に、使者は聖人の仰せのままにいったところ、良観房は涙を流し、弟子檀那も同じく声をおしまず悔しがって泣いたのであります。日蓮聖人が御勘気を蒙った時に、この事が尋ねられたので、ありのままに申し上げたのでした。
 然れば良観房身の上の恥を思はゞ、跡をくらまして山林にもまじはり、約束のまゝに日蓮が弟子ともなりたらば、道心の少しにてもあるべきに、さはなくして無尽の讒言を構へて、殺罪に申し行なはむとせしは貴き僧かと、日蓮聖人かたり給ひき。又頼基も見聞き候ひき。他事に於てはかけはくも主君の御事は畏れ入りて候へども、此の事はいかに思ひ候ともいかでかと思はれ候べき。    ですから「良観房は身の上の恥を思うならば、行くえをくらまし山林にでも交わり、または、約束どおりに日蓮の弟子となられたならば、少しは道心もあるのだが、実際には、そうではなく、つきることのない讒言を構え、殺罪しようと企てたのであるが、これを貴い僧であるといえようか」と日蓮聖人は仰せになっておりました。このことは頼基も見聞きしました。他の事においては、口に出していうことも、主君の事は畏れ多いことでありますが、此の事だけはどのよに考えてみても、申し上げないわけにはまいりません。

 

七章 竜象房について延べる

 又仰せ下しの状に云はく、竜象房、極楽寺の長老見参の後は釈迦・弥陀とあをぎ奉ると云云。    また、仰せ下しの状には、「江馬氏が竜象房と極楽寺の長老良観に見参してからは、釈迦仏・阿弥陀仏の如き仰ぎ奉る」と仰せであります。
 此の条又恐れ入って候。彼の竜象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起して、世末代に及びて悪鬼国中に出現せり、山王の御力を以て対治を加へむとて、住所を焼失し其の身を誅罰せむとする処に、自然に逃失し行方を知らざる処に、たまたま鎌倉の中に又人の肉を食らふの間、
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情ある人恐怖せしめて候に、仏菩薩と仰せ給ふ事、所従の身として争でか主君の御あやまりをいさめ申さず候べき。御内のをとなしき人々いかにこそ存じ候へ。
   この条いついてもまた恐縮ながら申し上げます。
 彼の竜象房は京都の市内で人の骨肉を朝夕の食物としていたことが露顕したため、山門の衆徒が蜂起し、「世も末になったので、悪鬼が国中に出現している。山王の御力で、この悪鬼を対治しよう」といって竜象房の住所を焼失し、その身を誅罰しようとしたところが、素早く逃亡して行方がわからなくなっていたのです。ところが、たまたま鎌倉にあれわれ、市内でまた、人の肉を食べているので、心ある人々は恐れおののいているのに、その竜象房を殿は仏・菩薩と仰せになっている。所従の身として、どうして主君の誤りをお諌めしないでいられましょう。御一門の穏当な意見の人々は、どのように思われているでしょうか。

 

第八章 主君を諫暁する

 同じき下し状に云はく、是非につけて主親の所存には相随はんこそ仏神の冥にも世間の礼にも手本と云云。    また同じ下し状に「是非にかかわらず主君や親の考えには従うことが仏神の精神にも世間の礼にも手本となるのである」と仰せです。
 此の事最第一の大事にて候へば、私の申し状恐れ入り候間、本文を引くべく候。    このことはもっとも大事なことなので、私の意見は差し控えて、聖賢の本文を引きお答えします。 
 孝経に云はく「子以て父に争はずんばあるべからず、臣以て君に争はずんばあるべからず」と。鄭玄曰く「君父不義あらんに、臣子諫めざるは則ち亡国破家の道なり」と。新序に曰く「主の暴を諫めざれば忠臣に非ざるなり。死を畏れて言はざるは勇士に非ざるなり」と。    孝経には「親に不満のある場合、子は父と争い父の誤りを正さなければならない。主君に不義がある場合には臣下は主君と争い誤りを正さなければならない」とあり、鄭玄は「主君や父に不義があるのに、臣下や子が諫めないのは、国を亡ぼし、家を破る道となる」といい、新序では「主君の横暴を諫めないなら、忠臣ではない。また死を畏れて言わないのは忠臣ではない」とございます。
 伝教大師云はく「凡そ不誼に当たっては則ち子以て父に争はずんばあるべからず、臣以て君に争はずんばあるべからず。当に知るべし、君臣・父子・師弟以て師に争はずんばあるべからず」文。    伝教大師は「一般に、道に背いた事柄においては、子と父は争わなければならないし、臣以は主君と争わなければならない師弟の道においても、師に誤りがあれば、弟子は師と争わなくてはならない」と説かれています。
 法華経に云はく「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」文。涅槃経に云はく「譬へば王の使ひ善能談論し方便巧みにして命を他国に奉ぐるに、寧ろ身命を喪ふとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し。智者も亦爾なり」文。    法華経勧持品には「我は身命を愛まず、ただ無上の道を惜しむ」とあり、涅槃経には「譬えば、王の使いが良く談論し、方便に巧みで、他国に使いしたとき、己れの生命を喪っても、最後までわが王の説く言教を主張し続けるように、智者もまたそうなのである」と説かれています。 
 章安大師云はく「寧喪身命匿教者とは、身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」文。又云はく「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親むは則ち是彼が怨なり。能く糾治する者は彼が為に悪を除くは則ち是、彼の親なり」文。    章安大師は「『寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ』とは、身は軽く法は重い。故に、身を死しても法を弘めなければならない」といわれています。また「仏法を壊り乱す者は仏法の中の怨である。慈悲がなく、詐り親しむのは、彼のための怨である。よく罪を糺し治す者は、彼のために悪を除くものであり、これこそ彼がの親の行為である」と説いています。
 頼基をば傍輩こそ無礼なりと思はれ候はらめども、世事にをき候ひては、是非父母主君の仰せに随ひ参らせ候べし。     このように申しますと頼基を同僚の者は主君に対して無礼であると思うでしょう。だが、世間のことであれば、一切、父母・主君の仰せに従いましょう。

第九章 仏法の上から諫暁する

 其れにとて重恩の主の悪法の者にたぼらかされましまして、悪道に堕ち給はむをなげくばかりなり。阿闍世王は提婆・六師を師として教主釈尊を敵とせしかば、摩竭提国皆仏教の敵となりて、闍王の眷属五十八万人、仏弟子を敵とする中に、耆婆大臣計り仏の弟子なり。大王は上の頼基を思し食すが如く、仏弟子たる事を御心よからず思し食ししかども、最後には六大臣の邪義をすてゝ耆婆が正法にこそつかせ給ひしか。其の如く御最後をば頼基や救ひ参らせ候はんずらむ。    それにつけても、重恩の主君が悪法の者にたぼらかされて、悪道に堕られるのを嘆くばかりです。
 阿闍世王は、提婆達多や六師外道を師匠として、教主釈尊を敵としたので、摩竭提国が皆、仏教の敵となって闍王の眷属五十八万人仏弟子を敵とするそのなかで、耆婆大臣だけが仏の弟子でありました。大王は、あたかも主君が頼基に対して思われているように、耆婆大臣が仏弟子であることを快く思われていなかったけれども、最後には六大臣の邪義をすてて耆婆が正法につかれたのです。そのように、主君を最後には頼基がお救いしてまいります。
 此くの如く申さしめ候へば、阿闍世王は五逆罪の者なり、
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彼に対するかと思し食しぬべし。恐れにては候へども、彼には百千万倍の重罪にて御坐すべしと、御経の文には顕然に見えさせ給ひて候。
   このように申し上げますと、阿闍世王は五逆罪の者であり、その阿闍世王に対抗させるのかと思われるでありましょう。しかし、恐れ多いことですが、殿は阿闍世王より百千万倍も重罪であると経文には明らかに説かれております。
 所謂「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり」文。文の如くば教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり、師匠なり、主君なり。阿弥陀仏は此の三の義ましまさず。而るに三徳の仏を閣いて他仏を昼夜朝夕に称名し、六万八万の名号を唱へまします。あに不孝の御所作にわたらせ給はずや。弥陀の願も、釈迦如来の説かせ給ひしかども終にくひ返し給ひて、唯我一人と定め給ひぬ。其の後は全く二人三人と見え候はず。随って人にも父母二人なし。何れの経に弥陀は此の国の父、何れの論に母たる旨見へて候。    いわゆる法華経譬喩品には「今、此の三界は皆是れ我が有である。其の中の衆生は悉く是れ吾が子である」と、経文の通りであるならば、教主釈尊は、日本国の一切衆生の父母であり、師匠であり、主君であります。阿弥陀仏にはこの主・師・親の三つの義は具わっていません。そうでありますのに、三徳の仏を閣いて、他仏を昼夜朝夕にその名を称え、六万・八万の名号を唱えておいでになる。どうして不孝の行ないではないでしょうか。阿弥陀の本願も本来、釈迦如来が説かれたものでありますが、最後には仏自から悔い改めて「唯、我れ一人のみ、能く衆生を救うものである」と定められた。その後は、全く二人・三人とは説かれていません。したがって、人にも父母は二人いないように、一体、いずれの経文に阿弥陀仏はこの国の父、いずれの論に母と、説かれているでしょうか。
 観経等の念仏の法門は、法華経を説かせ給はむ為のしばらくのしつらひなり。塔くまむ為の足代の如し。而るを仏法なれば始終あるべしと思ふ人大僻案なり。塔立てゝ後足代を貴ぶほどのはかなき者なり。又日よりも星は明らかと申す者なるべし。此の人を経に説いて云はく「復教詔すと雖も而も信受せず、其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。    観経等の念仏の法門は、法華経を説かれるためのしばらくの準備なのです。あたかも塔を組むための足場のようなものです。それと、同じく仏法なのだから始めと終わりの違いだけであると思う人があれば、それは大変誤った考えといえましょう。その人は、・塔を立てた後まで足場を尊ぶようなはかない人であります。また、その人は太陽よりも星の光のほうが明かるいというような人であります。こういった人を経文では「また仏の教えを聞いても、なお信受しない人は、命終して阿鼻地獄に堕ちる」と説かれています。
 当世日本国の一切衆生の釈迦仏を抛って阿弥陀仏を念じ、法華経を抛って観経等を信ずる人、或は此くの如き謗法の者を供養せむ俗男俗女等、存外に五逆・七逆・八虐の罪ををかせる者を智者と渇仰する諸の大名僧並びに国主等なり。「如是展転至無数劫」とは是なり。此くの如き僻事をなまじゐに承りて候間、次いでを以て申さしめ候。
 宮仕へをつかまつる者上下ありと申せども、分々に随って主君を重んぜざるは候はず。上の御ため現世後生あしくわたらせ給ふべき事を秘かにも承りて候はむに、傍輩、世に憚りて申し上げざらむは、与同罪にこそ候まじきか。
   今の世の日本国の一切衆生は、釈迦仏を抛って阿弥陀仏を念ずる人、法華経を抛って観経等を信ずる人、あるいは、このような謗法の僧を供養する俗男・俗女等、またおもいのほか、五逆・七逆・八逆の罪を犯している僧を智者と竭仰する多くの大名僧、並びに、国主等であります。法華経譬喩品に「謗法の者はこのように展転して無数劫に至る」とあるのはこのことをいうのです。このような誤りをなまじっかうけたまわっているので、ついでながら申し上げました。
 宮仕えをする者は、身分の上下はあるといっても、おのれの身分にしたがって主君を重んじない者はございません。主君のために、現世と後生が悪くていらっしゃるであろうということを密かにうけたまわりながら、同僚や世間をはばかって申し上げないのは与同罪になるのではないでしょうか。

第十章 諫暁を結す

 随って頼基は父子二代命を君にまいらせたる事顕然なり。故親父中務某故君の御勘気かぶらせ給ひける時、数百人の御内の臣等、心がはりし候ひけるに、中務一人最後の御供奉して伊豆国まで参りて候ひき。    したがって頼基は、父子二代にわたり命を主君に捧げましたことは、明らかなことです。故父中務頼員は、先君が執権より御勘気を受けられたときに、数百人の一族の家臣等が、心変わりした中で、ただ一人、最後まで供奉して伊豆の国までお供しました。
 頼基は去ぬる文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦の時、折節伊豆国に候ひしかば、十日の申時に承りて、唯一人箱根山を一時に馳せ越えて、御前に自害すべき八人の内に候ひき。自然に世しづまり候ひしかば、
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今に君も安穏にこそわたらせ給ひ候へ。爾来大事小事に付けて御心やすき者にこそ思ひ含まれて候。頼基が今更何につけて疎縁に思ひまいらせ候べき。後生までも随従しまいらせて、頼基成仏し候はゞ君をもすくひまいらせ、君成仏しましまさば頼基もたすけられまいらせむとこそ存じ候へ。
   また頼基は、去る文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦の時、折りから、伊豆の国にいましたが、十日の午後四時頃に主君の大事を聞き、ただ一人で箱根山をひとかきで馳せ越えて、殿の御前に自害すべき八人の内に加わりました。その後自然と静まったので、今では主君も安穏に暮しております。それ以来、大事・小事なにごとにつけても、心を許せる者と思われる者の中に含めて下さった。
 その頼基が、いまさらどうして主君を疎縁に思うでしょうか。後生までも随従して、頼基が成仏したなら主君をも救い、主君が成仏されたならば頼基も助けていただこうと思う所存です。
 其れに付ひて諸僧の説法を聴聞仕りて、何れか成仏の法とうかゞひ候処に、日蓮聖人の御房は三界の主、一切衆生の父母、釈迦如来の御使ひ上行菩薩にて御坐候ひける事の法華経に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候。     それについて諸僧の説法を聴聞して、いかなる法が成仏の法かと尋ねたところ、日蓮大聖人は、三界の主であり一切衆生の父母であり、釈迦如来の御使い、上行菩薩であられることが法華経に説かれていたのを信ずるに至った次第であります。

第十一章 天変地夭の原因を明かす

 今こそ真言宗と申す悪法日本国に渡りて四百余年、去ぬる延暦二十四年に伝教大師日本国にわたし給ひたりしかども、此の国にあしかりなむと思し食し候間、宗の字をゆるさず、天台法華宗の方便となし給ひ畢んぬ。其の後伝教大師御入滅の次をうかゞひて、弘法大師、伝教に偏執して宗の字を加へしかども、叡山は用ひる事なかりしほどに、慈覚・智証短才にして、二人の身は当山に居ながら心は東寺の弘法に同意するかの故に、我が大師には背いて、始めて叡山に真言宗を立てぬ。日本亡国の起こり是なり。    今、真言宗という悪法が日本国に渡ってきて四百余年になります。去る延暦二十四年に伝教大師が日本国に渡されたが、この国にとって好ましくないと思われたので、宗の字を許さずに、天台法華宗の方便の教えとなされました。
 その後、伝教大師の御入滅の機会をうかがい、弘法大師は伝教大師に意地を張って宗の字を加えたけれども、叡山では真言宗を用いることがなかった。しかし、慈覚と智証が、短才で、二人の身は比叡山に居ながら、心は東寺の弘法に同意したのであろう。自分の先師の伝教大師に背いて、始めて比叡山に真言宗を立てたのです。日本亡国の起こりはこれによります。 
 爾来三百余年、或は真言勝れ法華勝れ一同なむど諍論事きれざりしかば、王法も左右無く尽きざりき。人王七十七代後白河法皇の御宇に、天台の座主明雲、一向に真言の座主になりしかば明雲は義仲にころされぬ。頭破作七分是なり。    それ以来、三百余年の間、ある者は真言宗が勝れているといい、ある者は、法華経が勝れているといい、ある者は法華も真言も同じであるというなど、諍論が絶えることがなかったので、王法もどちらかに決めかねていて、亡びることはありませんでした。しかし人王七十七代・後白河法皇の時に天台の座主明雲は、全く真言の座主になったために、明雲は木曾義仲に殺されました。法華経の「頭破作七分」とはこのことです。 
 第八十二代隠岐の法皇の御時、禅宗・念仏宗出で来て、真言の大悪法に加へて国土に流布せしかば、天照太神・正八幡の百王百代の御誓ひやぶれて王法すでに尽きぬ。関東の権大夫義時に、天照太神・正八幡の御計らひとして国務をつけ給ひ畢んぬ。    また、第八十二代、隠岐法皇の時に、禅宗・念仏宗が興って、真言の大悪法に加えて、日本の国土に流布したので、天照太神・正八幡の百王、天皇百代までも守護するとの御誓いは破れて、王法すでに尽きてしまいました。その結果、関東の権の大夫・北条義時に天照太神・正八幡の御計いで国務をつけられるにまで至ったのです。 
 爰に彼の三の悪法関東に落ち下りて存外に御帰依あり。故に梵釈二天・日月・四天いかりを成し、先代未有の天変地夭を以ていさむれども、用ひ給はざれば、隣国に仰せ付けて法華経誹謗の人を治罰し給ふ間、天照太神・正八幡も力及び給はず。日蓮聖人一人此くの事を知ろし食せり。    そこで、三の悪法は京都から鎌倉に下ってきたのでさが、思いのほか御一門の御帰依がありました。故に梵天・帝釈の二天・日天・月天・四大天王は怒りをなして、先代未有の天変地夭をもって諫めたけれども、用いられなかったので、隣国に仰せ付けて法華経誹謗の人々を治罰しました。それゆえ天照太神・正八幡の力も及びませんでした。日蓮聖人一人だけがこのことを知っておられたのでした。 
 此くの如き厳重の法華経にてをはして候間、主君をも導きまいらせむと存じ候故に、無量の小事をわすれて、今に仕はれまいらせ候。
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頼基を讒言申す仁は君の御為不忠の者に候はずや。御内を罷り出でて候はゞ、君、たちまちに無間地獄に堕ちさせ給ふべし。さては頼基仏に成り候ひても甲斐なしとなげき存じ候。
   このような厳重な法華経である故に、主君をもお導きしようと思うので、無量の小事を忘れて今日までお仕えしてまいりました。

 この頼基を讒言する人は、主君のためには、不忠の者ではないでしょうか。頼基が御内を去ってしまうならば、主君はたちまちのうちに無間地獄に堕ちられるでありましょう。それでは、頼基一人が成仏してもなんの甲斐もないと嘆ばかりでございます。

 

第十二章 起請文の提出を拒む

 抑彼の小乗戒は富樓那と申せし大阿羅漢、諸天の為に二百五十戒を説き候ひしを、浄名居士だんじて云はく、穢食を以て宝器に置くこと無れ等云云。鴦掘摩羅は文殊を呵責し、嗚呼蚊虻の行は大乗空の理を知らずと。又小乗戒をば文殊は十七の失を出だし、如来は八種の譬喩を以て是をそしり給ふに、驢乳と説き、蝦蟇に譬へられたり。    そもそも彼の小乗戒は、富楼那という大阿羅漢が、諸天のために二百五十戒を説いたのを、浄名居士が破折してた「穢れた食物を宝の器に入れてはならない」といい、鴦崛摩羅は文殊を呵責して「ああ、蚊や蚋の修行は大乗の空理を知らない」といっています。また小乗戒について文殊は、大乗戒と比較して十七の失をあげ、釈迦如来は八種の譬喩をもって小乗戒をそしられています。伝教大師は小乗戒を驢馬の乳と説き、蝦蟆に譬えられています。  
 此等をば鑑真の末弟子は伝教大師をば悪口の人とこそ、嵯峨天皇には奏し申し候ひしかども、経文なれば力及び候はず。南都の奏状やぶれて、叡山の大戒壇立ち候ひし上は、すでに捨てられ候ひし小乗に候はずや。    これらについて鑒真の末弟子は、伝教大師を悪口の人であると、嵯峨天皇に訴えましたが、経文に説かれているからどうしようもありませんでした。南都六宗からの奏状は破られ、叡山の大戒壇が建立されたからには、すでに捨てられてしまった小乗戒ではないでしょうか。
 頼基が良観房を蚊・虻・蝦蟇の法師なりと申すとも、経文分明に候はゞ御とがめあるべからず。    したがって頼基が良観上人のことを蚊・蚋・蝦蟆の法師であると悪口しても、経文に明らかなことであるから御咎めを受けるはずはないとおもいます。
 剰へ起請に及ぶべき由仰せを蒙るの条、存外に歎き入りて候。頼基不法時病にて起請を書き候程ならば、君忽ちに法華経の御罰を蒙らせ給ふべし。    そのうえ「起請文を書くように」との仰せを受けたことは思いのほかで残念でなりません。頼基が、仏法に背いている時代の風潮のままに起請文を書いてしまうようであれば、主君はたちまちのうちに法華経の御罰を身に受けるでありましょう。
 良観房が讒訴に依りて釈迦如来の御使ひ日蓮聖人を流罪し奉りしかば、聖人の申し給ひしが如く百日が内に合戦出来して、若干の武者滅亡せし中に、名越の公達横死にあはせ給ひぬ。是偏に良観房が失ひ奉りたるに候はずや。今又竜象・良観が心に用意せさせ給ひて、頼基に起請を書かしめ御坐さば、君又其の罪に当たらせ給はざるべしや。    良観上人の讒訴によって、釈迦如来の御使いである日蓮聖人を佐渡流罪に行ったところ、日蓮聖人のいわれたように百日以内に合戦が起こり、多数の武者が滅亡してしまいました。その中には、名越の公達も横死にあわれているのです。これはひとえに良観上人が武者達を失わせたものではないでしょうか。今、また、竜象房や良観上人の考えに意を用いられて、頼基に起請文を書かせるならば、主君もまたその罪に相当するのではないでしょうか。
 此くの如き道理を知らざる故か、又君をあだし奉らむと思ふ故か、頼基に事を寄せて大事を出ださむとたばかり候人等、御尋ねあて召し合はせらるべく候。恐惶謹言。
 建治三年六月二十五日  四条中務尉頼基 請文
   このような道理を知らない故でありましょうか。それとも主君に害を加えようと思う故でしょうか。いずれとしても、頼基に事寄せて大事を引き起こそうと謀っている人びと等を呼ばれて、私と召し合わせていただきたいのでございます。恐惶謹言。
  建治三年丁丑六月二十五日  四条中務尉頼基 請文