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(★1112㌻) 青鳧一結送り給び候ひ了んぬ。 |
銅銭一結をお送りいただきました。 |
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近来の学者一同の御存知に云はく「在世滅後異なりと雖も、法華を修行するには必ず三学を具す。一を欠いても成ぜず」云云。 |
この頃の学者たちはみな同じく次のように考え述べている。「釈尊が御存命中なのか、お亡くなりになった後なのかという違いはあっても、法華経にもとづいて修行するには、必ず戒・定・慧の三学が必要である。一つでもかけていれば成仏しない」と。 |
| 余又年来此の義を存する処に、一代聖教は且く之を置く。法華経に入って此の義を見聞するに、序正の二段は且く之を置く。流通の一段は末法の明鏡、尤も依用と為すべし。而るに流通に於て二有り。一には所謂迹門の中の法師等の五品、二には所謂本門の中の分別功徳の半品より経を終はるまでの十一品半なり。 | 私も長年にわたり、同様にこの考えを持っていたが、釈尊が一生のうちに説いた経典の全体はひとまず置くとしよう。法華経に限って、このことについて人から聞いたり経文を見たりすると、序分と正宗分はひとまず置いておいて、流通分は末法の時代の規範となるもので、最も頼みとしなければならない。ところが、流通分については、二つのものがある。第一は、迹門の中で法師品などの五品である。第二は、本門のなかで分別功徳品の後半から経典の終わりまでの十一品半である。 | |
| 此の十一品半と五品と合はせて十六品半、此の中に末法に入って法華を修行する相貎分明なり。是に尚事行かざれば普賢経・涅槃経等を引き来たりて之を糺明せんに其の隠れ無きか。 | この十一品半と五品を合わせると十六品半となるが、この中に末法の時代に入ってから法華経にもとづいて修行する在り方がはっきりと説かれている。それでも納得できないなら観普賢経や涅槃経などを参考にして検討を加えれば不明なことはないだろう。 |
| 其の中の分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要、在世滅後の亀鏡なり。 | その中でも、分別功徳品に説かれている四信と五品は、法華経にもとづいて修行する上で根本であり、釈尊のご存命中ならびにお亡くなりになった後の規範となるものである。 | |
| 荊渓云はく「一念信解とは即ち是本門立行の首めなり」云云。其の中に現在の四信の初めの一念信解と滅後の五品の第一の初随喜と、此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋、十方三世の諸仏の出門なり。 | 妙楽大師湛然は次のように述べている。「一念信解は、本門で修行について述べる最初である」と。これらのうち、現在の四信の初めの一念信解と、滅後の五品の第一の初随喜という、この二つの段階は、いずれも同じく百界千如・一念三千を収めた宝箱であり、十方・三世の様々な仏が出現する門である。 | |
| 天台・妙楽の二の聖賢此の二処の位を定むるに三つの釈有り。 | 天台大師・妙楽大師という二人の聖人・賢人が、この二つの段階がどの修行段階に当たるのかを定めているが、それには、三つの解釈がある。 | |
| 所謂或は相似十信鉄輪の位、或は観行五品の初品の位、未断見思、或は名字即の位なり。 | すなわち、あるところでは、相似即・十信・鉄輪の段階であると言っている。また、あるところでは、観行即である五品の中の初品の段階であり、また見惑・思惑を根絶しないと言っている。さらに、あるところでは、名字即の位であると言っている。 | |
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止観に其の不定を会して云はく「仏意知り難し機に赴きて異説す、此を借りて開解せば何ぞ労はしく苦ろに諍はん」云云等。 |
『摩訶止観』では、解釈が一定しないという問題を解消して「仏の意図は理解しがたい。聴衆の能力に応じて、違ったことを説く。それによって理解が広がればよいのであって、どれが本当に正しいかなどと、わざわざ論争するに及ばない」などと述べている。 |
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予が意に云はく、三釈の中に名字即は経文に叶ふか。滅後の五品の初めの一品を説いて云はく「而も毀呰せずして随喜の心を起こす」と。若し此の文相似と五品とに渡らば、而不毀呰の言は便ならざるか。 (★1112㌻) 就中寿量品の失心・不失心等は皆名字即なり。 |
私の考えでは、三つの解釈の中では名字即とするのが経文と合致しているのではないだろうか。滅後の五品の初めの一品を説いて「誹謗することなく、随喜の心を起こす」と述べている。もしこの文が、五品の相似即に至っているという趣旨なら「誹謗することなく」という言葉は、不都合ではなかろうか。特に、寿量品で説かれる「正気を失った者」も「正気を失っていない者」もみな名字即である。 | |
| 涅槃経に「若信若不信、乃至煕連」とあり、之を勘へよ。 | 涅槃経に「信じる者も信じない者も、不動国に生じるとか、熈連河の砂の数ほどの多くの仏のもとで覚りを求める心を起こした者は、悪い時代に生まれて、経典を記憶しなさい」とあるのを、考え合わせてみなさい。 | |
| 又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに居し、解の一字は後に奪はるゝ故なり。 | また、「一念信解」という四字の中の「信」という一字は四信の初めに位置し、「解」という一字はそれよりも後の段階に属するからである。 | |
| 若し爾らば無解有信は四信の初位に当たる。経に第二信を説いて云はく「略解言趣」云云。 | もしそうであるなら、理解がなく信だけがあるのが四信の最初の段階に当たるのである。経では第二信を説いて「言葉の内容がおおまかに理解できる」とのべている。 | |
| 記の九に云はく「唯初信を除く、解無きが故に」と。随って次下の随喜品に至って上の初随喜を重ねて之を分明にす。五十人是皆展転劣なり。 | 『法華文句記』巻九には「四信のうち、初心だけを除く、初心には理解がないからである」と述べている。したがって、その後の随喜功徳品に至って、先に説かれた初随喜を再度詳細に説いている。随喜功徳品で説かれる五十展転の教えの五十人は、最初の一人から最後の五十人になるにつれて、段々と程度が下がっていく。 | |
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第五十人に至って二の釈有り。一には謂はく、第五十人は初随喜の内なり。二には謂はく、第五十人は初随喜の外なりと云ふは名字即なり。 |
最後である第五十人の人に至って、この人の修行の段階について二つの解釈がある。一つには、第五十人は初随喜の範囲内であるというものである。一つには、初随喜の範囲外であるというもので、これは名字即のことである。 |
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| 「教弥実なれば位弥下し」と云ふ釈は此の意なり。四味三教より円教は機を摂し、爾前の円教より法華経は機を摂し、迹門より本門は機を尽くすなり。「教弥実位弥下」の六字に心を留めて案ずべし。 | 「教えが真実に近づくほど、それを行じる修行の段階は低くなっていく」いう注釈は、この意味である。四味の三教よりも円教は多様な能力の者を包容し、爾前の円教よりも法華経はさらに多様な能力の者を包容し、迹門よりも本門はあらゆる能力の者を包容するのである。「教弥実位弥下」の六字を心に留め、よく思案すべきである。 |
| 問ふ、末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや不や。答へて曰く、此の義大事たり。故に経文を勘へ出だして貴辺に送付す。 | 質問する。末法時代に入って、初めて覚りを求める心を起こした修行者は、例外なく円教の戒・定・慧の三学を全て実践する必要があるのか。答える、このことは、重要なことであるので、経文と考え合わせ、必要な個所を取り出して、あなたに送る。 | |
| 所謂五品の初・二・三品には、仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり。 | すなわち、五品のうち初品・第二品・第三品では、仏は紛れもなく戒と成という二つのものを制止して、修行の内容をひたすら慧も実践できなければ、信を慧の代わりとし、信という一字を究極としている。不信は一闡堤や謗法の原因であるのに対し、信は慧の原因であり、名字即の位である。 | |
| 天台云はく「若し相似の益は隔生すれども忘れず、名字観行の益は隔生すれば即ち忘る。或は忘れざるも有り、忘るゝ者も若し知識に値へば宿善還って生ず。若し悪友に値へば則ち本心を失ふ」云云。 | 天台大師は次のように述べている。「相似即の利益を得た場合、一度死んで次に生まれても忘れることはない。名字即や観行即の利益では、次に生まれた時に、忘れてしまうが、忘れない場合もある。忘れた者も、正しく導いてくれる者に遭遇すれば、過去世の善い行いが再び効力を発揮する。もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心を失ってしまう」と。 | |
| 恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教の善知識に違背して、心、無畏・不空等の悪友に遷れり。 | はばかりながら、少し前の天台宗の慈覚大師円仁・智証大師円珍のお二人も、天台大師・伝教大師という正しく導いてくれる人に背いて、善無畏や不空などといった悪へと導く者に心が移ったのであろう。 | |
| 末代の学者、慧心の往生要集の序に誑惑せられて法華の本心を失ひ、弥陀の権門に入る。退大取小の者なり。 |
釈尊の時代から遠く離れた現代の学者は、慧心僧都源信の『往生要集』の序分にたぶらかされて、元々あった法華経を信じる心を失い、阿弥陀仏を信じる一時的な教えへと入っていく。「大乗から退き、小乗を取る」と言われる者たちであった。 |
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| 過去を以て之を推ふに、未来無数劫を経て三悪道に処せん。若し悪友に値へば則ち本心を失ふとは是なり。 | 過去世のことから推しはかると、未来には無量劫にわたって、三悪道に生まれることになるだろう。「もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心をうしなってしまう」とは、このことである。 |
| 問うて曰く、其の証如何。答へて曰く、止観第六に云はく「前教に其の位を高うする所以は方便の説なればなり、円教の位下きは真実の説なればなり」と。 | 質問する。その証拠はどのようなものか。答える。『摩訶止観』第六巻には、法華経より前の教えで、それを行ずる者の修行の段階が高い理由は、真実に導く手だてとしての教説だからである。完全な教えで行ずる者の修行の段階が低いのは、真実の教説だからである」とある。 | |
| 弘決に云はく「前教といふより下は正しく権実を判ず。教弥実なれば位弥下く、教弥権なれば位弥高き故に」と。 | 『止観輔行伝弘決』では、これを注釈して「『前の教えで』以下は、一時的な教えと真実な教えを判別するものである。教えが真実に近づけば近づくほど、それを行ずる者の修行段階は低くなり、教えが一時的なものになればなるほど、修行段階は高くなるからである」としている。 | |
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又記の九に云はく「位を判ずることをいはゞ観境弥深く実位弥下きを顕はす」云云。 (★1113㌻) 他宗は且く之を置く、天台一門の学者等何ぞ実位弥下の釈を閣いて慧心僧都の筆を用ふるや。 |
また、『法華文句記』第九巻には「修行段階を判定するという箇所では、観察する対象が深くなればなるほど、真実の教えにおける修行段階ではそれだけ低くなることを明らかにしている」とある。 他の宗派はともかくとして、天台宗に属する学者たちは、どうして「真実の教えにおける修行段階はそれだけ低くなる」という解釈を放置して、慧心僧都の書いたものを用いるのか。 |
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| 畏・智・空と覚・証との事は追って之を習へ。大事なり大事なり、一閻浮提第一の大事なり。心有らん人は聞いて後に我を外め。 | 善無畏・金剛智・不空・慈覚大師・智証大師のことは後で学びなさい。先に述べたことこそ実に重要なことである。一閻浮提で第一の重要なことである。思慮分別のある人であるなら、初めから耳を塞ぐのではなく、聞いた後で、私から遠ざかりなさい。 |
| 問うて云はく、末代初心の行者に何物をか制止するや。答へて曰く、檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜の気分と為すなり。是則ち此の経の本意なり。 | 質問する。釈尊の時代から遠く離れた今の時代に、初めて覚りを求める心を起こした修行者に対して、何を制止するのか。答える。布施や持戒などの五つの波羅蜜を制止し、ひたすら南無妙法蓮華経と唱えさせるのを、一念信解・初随喜品の初歩の段階とするのである。これが、この経が本来意図するところである。 | |
| 疑って云はく、此の義未だ見聞せず。心を驚かし耳を迷はす。明らかに証文を引いて請ふ苦ろに之を示せ。 | 疑問を述べる。この説は、これまで聞いたことも見たこともない。心は驚き、耳は迷っている。はっきりとした証拠となる文を引用して、丁寧に示していただきたい。 | |
| 答へて曰く、経に云はく「我が為に復寺塔を起て及び僧坊を作り四事を以て衆僧を供養することを須ひず」と。此の経文は明らかに初心の行者に檀戒等の五度を制止する文なり。 | 答える。経には「釈尊のために仏塔や寺院を建てたり、僧侶の住居を建てたり、四つのものを僧侶に供養する必要はない」とある。この経文は明らかに、初めて覚りを求める心を起こした行者に、布施や持戒などの五つの波羅蜜を制止している文である。 | |
| 疑って云はく、汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と計りを制止して未だ諸の戒等に及ばざるか。答へて曰く、初を挙げて後を略す。 | 疑問を述べる。あなたが引用した経文は、仏塔や寺院を建てることや僧侶を供養することだけを制止しており、それ以外の持戒の波羅蜜には及んでいないのではないか。答える。初め布施波羅蜜だけを挙げて、後の四波羅蜜は略したのである。 | |
| 問うて曰く、何を以て之を知らん。答へて曰く、次下の第四品の経文に云はく「況んや復人有って能く是の経を持って兼ねて布施・持戒等を行ぜんをや」云云。経文分明に初・二・三品の人には檀戒等の五度を制止し、第四品に至って始めて之を許す。後に許すを以て知んぬ、初めに制することを。 | 質問する。何によって、それが分かるのか。答える。先に引用した文の後にある第四品を説いた経文には「まして、この経典を記憶し、それと同時に布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を行うものがあれば、その功徳が最もすぐれていて、計り知れないことはいうまでもない」とある。経文には明らかに、初品・第二品・第三品の人には般若波羅蜜以外の布施・持戒などの五つの波羅蜜を制止し、第四品に至って許可したことから、初めには制止していたことがわかるのである。 | |
| 問うて曰く、経文一往相似たり、将又疏釈有りや。答へて曰く、汝が尋ぬる所の釈とは月氏の四依の論か、将又漢土日本の人師の書か。 | 質問する。経文上はあなたの言ったとおりのようだ。では、あなたの主張を裏づける注釈書の解釈はあるのか。答える。あなたが求めている解釈というのは、インドの四依の大学者の論か、それとも、中国・日本の学者の書か。 | |
| 本を捨てゝ末を尋ね、体を離れて影を求め、源を忘れて流れを貴び、分明なる経文を閣いて論釈を請ひ尋ぬ。本経に相違する末釈有らば本経を捨てゝ末釈に付くべきか。然りと雖も好みに随って之を示さん。 | あなたは、根本を捨てて末端のものを尋ね本体を離れ影を求め、源泉を忘れて末流を貴んである。明瞭な経文を放置して、論や注釈書を知りたいと求めている。根本である経に対して、末端であるはずの注釈が相違している場合、根本である経を捨てて、末端である注釈を支持するほうがよいのか。しかしながら、あなたの好みにしたがって、注釈を示すことにしよう。 | |
| 文句の九に云はく「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る。直ちに専ら此の経を持つは即ち上供養なり。事を廃して理を存するは所益弘多なり」と。 | 『法華文句』巻九には次のようにある。「初めて覚りを求める心を起こした者は、縁によって動揺させられ、本来の修行が妨げられることを用心する。ただこの経を記憶して保持することだけが、そのまま素晴らしい供養となる。外面に現れる具体的な実践を差し置いて、内面に保持することで、利益が大きいのである」と。 | |
| 此の釈に縁と云ふは五度なり。初心の者が兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり。 | この解釈で「縁」というのは、般若波羅蜜以外の五波羅蜜のことである。初めて覚りを求める心を起こした者が、ついでに五波羅蜜も修行すれば、本来の修行である信心を妨げることになるのである。 | |
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譬へば小船に財を積んで海を渡るに財と倶に没するが如し。「直専持此経」と云ふは一経に亘るに非ず。専ら題目を持ちて余文を雑へず、尚一経の読誦だも許さず、何に況んや五度をや。「廃事存理」と云ふは戒等の事を捨てゝ題目の理を専らにす云云。 |
譬えを挙げると、小さな船に財宝を積んで海を渡るなら、財宝と一緒に水没するようなものである。「ただこの経を記憶して保持することだけ」というのは、経典全体のことではない。ただ題目だけを記憶し保持し、他の経文を混入させることはしない。経文全体の読誦さえ許していないのであるから、まして五波羅蜜を許すはずがない。「外面に現れる具体的な実践を差し置いて、内面に真理を保持する」というのは、持戒などの外面に現れる具体的な実践を差し置いて、題目という心理だけを保持するなどといったことである。 | |
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(★1114㌻) 「所益弘多」とは初心の者が諸行と題目と並べ行ずれば所益全く失ふと云云。 |
「利益が大きいのである」とは、初めて覚りを求める心を起こした者が、様々な修行と題目とを同時に実践すれば、利益を全て失うということである。 |
| 文句に云はく「問ふ、若し爾らば経を持つは即ち是第一義の戒なり。何が故ぞ復能く戒を持つ者と言ふや。答ふ、此は初品を明かす、後を以て難を作すべからず」等云云。当世の学者此の釈を見ずして、末代の愚人を以て南岳・天台の二聖に同ず。誤りの中の誤りなり。 | 『法華文句』には、次のようにある。「質問する。もしそうであるなら、経を記憶することが、最も根本的な意味での戒である。どうしてさらに『戒を保持する者』というのか。答える。これは初品の意を明かしたものである。後の方の記述によって、論難をしてはいけない。今の時代の学者は、この解釈を見ないで、釈尊の時代から遠く離れた時代の愚かな者を南岳大師・天台大師という二人の聖人と同一視している誤りのなかの誤りである。 | |
| 妙楽重ねて之を明かして云はく「問ふ、若し爾らば、若し事の塔及び色身の骨を須ひずば亦事の戒を持つことを須ひざるべし。乃至事の僧を供養することを須ひざるや」等云云。 | 妙楽大師はさらにこのことを明らかにして、次のように述べている。「『質問する。もしそうであるなら』というのは、もし事物とくて存在する仏塔や仏の遺骨を必要としないのであれば、同様に、目に見える具体的な戒を保持する必要もなく、それをはじめとして、ついには現実に存在する僧侶に対して供養する必要もないということにならないか、という意味である」等と。 | |
| 伝教大師云はく「二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ」と。唯教大師一人に限るに非ず、鑑真の弟子如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ。又教大師未来を誡めて云はく「末法の中に持戒の者有らば是怪異なり。市に虎有るが如し。此誰か信ずべき」云云。 | 伝教大師は「二百五十戒をたちまちに捨ててしまった」と述べている。伝教大師一人だけではない。鑑真の弟子である如宝や道忠がそれに加えて七つの大寺院などが一斉に捨ててしまったのである。また、伝教大師は、未来の人々に忠告して、次のように述べている。「末法の時代に戒律を保持するものがいれば、奇怪なことである。町中に虎がいるようなものである。誰が信じるだろうか」と。 |
| 問ふ、汝何ぞ一念三千の観門を勧進せずして唯題目許りを唱へしむるや。答へて曰く、日本の二字に六十六国の人畜財を摂尽して一つも残さず。月氏の両字に豈七十箇国無からんや。妙楽云はく「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」と。又云はく「略して界如を挙ぐるに具さに三千を摂す」と。文殊師利菩薩・阿難尊者・三会八年の間の仏語之を挙げて妙法蓮華経と題し、次下に領解して云はく「如是我聞」云云。 | 質問する。あなたはどうして一念三千の観相の修行を勧めないで、ただ題目だけを唱えさせるのか。答える。日本という文字に六十六ヶ国の人間・動物・財宝を収め尽くして一つも残すことがない。月氏という二つの字のなかにどうして七十ヶ国がないだろうか。妙楽大師湛然は「簡略に経の題だけを挙げて、広く経典全体を収めているのである」と述べ、また、「簡略に十界・十如是だけを挙げ、三千の森羅万象を全て収めているのである。文殊師利菩薩と阿難尊者は、三つの会座から成る八年間の仏の言葉を挙げて、「妙法蓮華経」という題をつけ、次にそれに納得して「このように私は聞いた」と述べたのである。 |
| 問ふ、其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱へて解義の功徳を具するや不や。答ふ、小児乳を含むに其の味を知らずとも自然に身を益す。耆婆が妙薬誰か弁へて之を服せん。水心無けれども火を消し火物を焼く、豈覚あらんや。竜樹・天台皆此の意なり。重ねて示すべし。 | 質問する。その意味が分からない人がただ南無妙法蓮華経とだけ唱えても、意味を理解したという功徳はそなわるのか。 答える。小さい子供が乳を吸えば、その味が分からなくても、自然と体を成長させる。耆婆の素晴らしい薬を、誰が中身や作り方を理解した上で飲んでいるだろうか。水には心がないが、火を消す。火は物を焼くが、どうして自覚があるだろうか。 竜樹菩薩も天台大師智顗もみなこうした考えである。再度このことを示そう。 |
| 問ふ、何が故ぞ題目に万法を含むるや。答ふ、章安云はく「蓋し序王とは経の玄意を叙す。経の玄意は文の心を述す。文の心は迹本に過ぎたるは莫し」と。 | 質問する。どうして妙法蓮華経という題名が全ての教えをふくんでいるのか。答える。章安大師灌頂は次のように述べている。「思うに巻頭の序というものは、経典の奥深い意味を説く、奥深い意味は、経文の核心を述べる。経文の核心は、迹門と本門以外にはない」と。 | |
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妙楽云はく「法華の文の心を出だして諸経の所以を弁ず」云云。濁水心無けれども月を得て自ら清めり。草木雨を得て豈覚有って花さくならんや。妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ。初心の行者は其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当たるなり。 (★1115㌻) |
妙楽大師は次のように述べている。「この文は法華経の経文の核心を出し、様々な教えの根拠を立て分けている。濁った水には心がないが、月が映れば自然に清らかになる。草木に雨が降った時、どうして自覚があって花が咲くだろうか。「妙法蓮華経」という五字は経文ではない。その文に即した教えでもない。法華経全体の本意に他ならない。初めて覚りを求める心を起こした修行者は、その本意を知らなくとも、それでもこれを実践すれば、自然とその本意に合致するのである。 |
| 問ふ、汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。 | 問う、汝の弟子は智慧がなくただひたすらに南無妙法蓮華経と唱えるだけであるがその位はどのようなものであるのか。 | |
| 答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり。請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずること勿れ。 | 答う、日蓮の弟子の位は法華経以前の教えである四味・三教の最も高い位の者や法華経以前の円教の人に超えるばかりではなく真言宗等の諸宗の元祖である善無畏・智厳・慈恩・吉蔵・道宣・達磨・善導等にも勝ること百千万億倍である。したがって国中の諸人は日蓮が末弟を軽んじてはならない。 | |
| 進んで過去を尋ぬれば八十万億劫供養せし大菩薩なり。豈煕連一恒の者に非ずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓に纏はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ。 |
何故にこのような位を得ることになったのかといえば、過去世において八十万億劫もの長い長い間仏を供養した大菩薩だからである。 未来世を論ずれば、八十年にわたって布施を行った者を超え五十番目に法華経を伝え聞いた者と同じ功徳を備えるに違いない。皇帝に生まれた時は産着に包まれており、巨大な竜も生まれたての時は小さいようなものである。決して蔑んではならない。 |
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| 妙楽の云はく「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と。優陀延王は賓豆盧尊者を蔑如して七年の内に身を喪失し、相州は日蓮を流罪して百日の内に兵乱に遇へり。 | 妙楽大師は「もし、法華経を説く者を悩ますなら、頭が七つに割れ、供養すれば、その福徳は十の称号を持つ仏を供養した場合を超える」と言われている。優陀延王は賓頭盧尊者をないがしろにし、七年の内に身体の自由を失った。北条時宗は日蓮を流罪し百日の内に内乱に遭った。 | |
| 経に云はく「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ不実にもあれ此の人は現世に白癩の病を得ん。乃至諸悪重病あるべし」と。又云はく「当に世々に眼なかるべし」等云云。 |
法華経の勧発品に「もしも法華経を持ち信ずる人を見て、その罪や過ちを言い立てるならば、そのことが真実であろうとなかろうとも、この人は現世には白癩の病に罹り、また多くの悪く重い病に罹るであろう」と説かれている。また同じく勧発品に「生まれ変わるたびに盲目となるであろう」とも説かれている。 |
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| 明心と円智とは現に白癩を得、道阿弥は無眼の者と成りぬ、国中の疫病は頭破七分なり。罰を以て徳を推ふに我が門人等は福過十号疑ひ無き者なり。 | 経文の如く、明心と円智は現実に白癩の病に罹り、道阿弥は盲目の者となった。日本全国の疫病は「頭が七つに割れ」という経文通りである。誹謗した者たちが受けた罰によって、法華経を信じる者の功徳を推しはかるなら、私の弟子たちは「十の称号を持つ仏を供養した場合を超える」という経文通りになるのは疑いないことである。 |
| 夫人王三十代欽明の御宇に始めて仏法渡りしより以来、桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間、六宗有りと雖も仏法未だ定まらず。爰に延暦年中に一の聖人あって此の国に出現せり。所謂伝教大師是なり。此の人先より弘通する六宗を糺明し、七寺を弟子と為して終に叡山を建てゝ本寺と為し、諸寺を取りて末寺と為す。 | さて、神武天皇から数えて三十代にあたる欽明天皇の在位中に初めて仏法が渡って来て以来、桓武天皇の在位時代にいたるまで、二十代・二百余年の間、六つの宗派があると言っても、仏法の有り方はまだ定まらなかった。ここに延暦の時代に一人の聖人がこの国に出現した。伝教大師という人である。この人は、以前から広まっていた六つの宗派を問いただして間違いを明らかにして七つの寺院を自分の弟子として、最終的には比叡山延暦寺を立てて根本の寺とし、その他の寺を末寺と位置づけた。 | |
| 日本の仏法唯一門なり。王法も二に非ず。法定まり国清めり。其の功を論ぜば源已今当の文より出でたり。 | 日本の仏法は、ただこの一つの流れだけである。政治の面でも、王が二人いるわけでない。仏法が安定し、国は清浄になった。その功績を論じるなら、根源的には「已今当」の文に発しているのである。 | |
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其の後弘法・慈覚・智証の三大師事を漢土に寄せて大日の三部は法華経に勝ると謂ひ、剰へ教大師の削る所の真言宗の宗の一字之を副へて八宗と云云。三人一同に勅宣を申し下して日本に弘通し、寺毎に法華経の義を破る。是偏に已今当の文を破らんとして釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵と成りぬ。然して後仏法漸く廃れ、王法次第に衰へ、天照大神・正八幡等の久住の守護神は力を失ひ、梵・帝・四天は国を去って已に亡国と成らんとす。 (★1116㌻) |
その後、弘法大師・慈覚大師・智証大師の三人は、中国の学者の説に寄りかかって、大日経などの三部経は法華経より勝れていると言い、それに止まらず、伝教大師が削除した真言宗の「宗」の一字を付け加えて、八宗があると言っている。三人は同じように申請して天皇のお言葉をいただき、日本中に広めて、どの寺でも法華経の教えを否定している。これは、ひたすら「已今当」の経文を否定しようとして、釈尊・多宝如来・十方の仏たちの大変な怨敵となってしまったのである。その後、仏法は段々と衰退し、天皇の政治権力も次第に脆弱になり、天照太神や正八幡大菩薩など昔から日本にいた守護神は力を失い、梵天王や帝釈天・四天王は既に国を去ってもはや国は滅びようとしている。 | |
| 情有らん人誰か傷差ざらんや。所詮三大師の邪法の興る所は所謂東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり。禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と疑ひ無き者か。予粗此の旨を勘へ、国主に示すと雖も敢へて叙用無し。悲しむべし悲しむべし。 | 心ある人で、苦悩を感じ嘆かない者がいるだろうか。結局、三人の大師の誤った教えが盛んなところは、具体的には、東寺・比叡山の総持院・園城寺という三ヶ所である。これを禁止しなければ、国土が滅亡し、衆生が死後に三悪道に堕ちるのは、疑いないのではなかろうか。私は、このようなことを一通り調べ、国主に示したが、全く採用することはなかった。何と悲しいことではないか。 |