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(★1074㌻) 良観・道隆・悲願聖人等が極楽寺・建長寺・寿福寺・普門寺等を立てゝ、叡山の円頓大戒を蔑如するがごとし。此は第一には破僧罪なり。二には仏の御身より血を出だす。今の念仏者等が教主釈尊の御入滅の二月十五日ををさへとり阿弥陀仏の日とさだめ、仏生日の八日をば薬師仏の日といゐ、一切の真言師が大日如来をたのみて、教主釈尊は無明に迷へる仏、我等が履とりにも及ばず、結句は灌頂して釈迦仏の頭をふむ。禅宗の法師等は教外別伝とのゝしりて、一切経をばほんぐにはをとり、我等は仏に超過せりと云云。此は南印度の大慢ばら門がながれ、出仏身血の一分なり。第三に蓮華比丘尼を打ちころす。これ仏の養母にして阿羅漢なり。此は阿闍世王の提婆達多をすてゝ仏につき給ひし時、いかりをなして大火胸をやきしかば、はらをすへかねて此の尼のゆきあひ候ひたりしを、打ち殺せしなり。今の念仏者等が念仏と禅と律と真言とをせめられて、のぶるかたはなし、結句は檀那等をあひかたらひて日蓮が弟子を殺させ、予が頭等にきずをつけ、ざんそうをなして二度まで流罪、あはせて頚をきらせんとくはだて、弟子等数十人をろうに申し入るるのみならず、かまくら内に火をつけて、日蓮が弟子の所為なりとふれまわして、一人もなく失はんとせしが如し。 |
良観・道隆・悲願聖人等がそれどれ極楽寺・建長寺・寿福寺.普門寺等を立て、比叡山の円頓大戒を蔑如するようなものである。これは提婆達多の三逆罪でいうならば第一の破僧罪にあたるといえる。 三逆罪の第二は仏の御身より血を出すことである。これは今の念仏者等が教主釈尊の御入滅になられた二月十五日を勝手に阿弥陀仏の日と定め、仏の誕生された日の八日を薬師仏の日いっていることにあたる。また、一切の真言の法師等が大日如来を崇めて教主釈尊は無明に迷う仏であるとして、我等が履取りにも及ばないと言い、あげくは潅頂のとくには敷曼荼羅の上で釈迦仏の頭を踏んでいるのがそれである。禅宗の法師等は教外別伝と主張し、一切経は使い古しの紙にも劣り、我等は仏に超過していると言っている。これは南インドの大慢婆羅門の末流であり、出仏身血の一分なのである。 三逆罪の第三は提婆達多が蓮花比丘尼を拳で殴殺したことである。蓮花比丘尼は釈尊の養母であり、また阿羅漢である。これは阿闍世王が提婆達多を捨てて釈尊に帰依したので、提婆達多は怒りの炎が胸を焼き焦がすほど腹にすえかね、ちょうどこの比丘尼に行き遭ったので、怒りにまかせて拳で打ち殺してしまったのである。今の念仏者等が念仏と禅と律と真言等の自分達の法義を日蓮から責められて返答しようもないので、結句は檀那等に言い含めて、日蓮が弟子を殺させ、日蓮の頭等に刀で疵をつけ、讒奏によって伊豆・佐渡と二度までも流罪にあわせ、頚まで斬ろうと策謀し、弟子等数十人を牢に入れただけではなく、鎌倉の町に火を付けて、それを日蓮の弟子の仕業だと触れ回って弟子を一人もなく始末してしまおうとしたようなものである。 |
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而るに提婆達多が三逆罪は仏の御身より血をいだせども爾前の仏、久遠実成の釈迦にはあらず。殺羅漢も爾前の羅漢、法華経の行者にはあらず。破和合僧も爾前小乗の戒なり、法華円頓の大戒の僧にもあらず。大地われて無間地獄に入りしかども、法華経の三逆ならざれば、いたうも深くあらざりけるかのゆへに、提婆は法華経にして天王如来とならせ給ふ。今の真言師・念仏者・禅・律等の人々並びに此を御帰依ある天子並びに将軍家、 (★1075㌻) 日本国の上下万人は、法華経の強敵となる上、一乗の行者の大怨敵となりぬ。されば設ひ一切経を覚り、十方の仏に帰依し、一国の堂塔を建立し、一切衆生に慈悲ををこすとも、衆流大海に入りてかんみとなり、衆鳥須弥山に近づきて同色となるがごとく、一切の大善変じて大悪となり、七福かへりて七難をこり、現在眼前には他国のせめきびしく、自身は兵にやぶられ、妻子は敵にとられて後生には無間大城に堕つべし。 |
たしかに提婆達多が三逆罪は、仏といってもの爾前経の仏であり、本門に説かれる久遠実成の釈尊ではない。殺阿羅漢といっても爾前経の阿羅漢であって、法華経の行者ではない。破和合僧といっても爾前経の小乗戒を持つ僧団であって、法華経による円頓止観の和合僧団ではない。提婆達多は大地がわれて無間地獄に入ったが、法華経の三逆罪ではないので、それほどには深くなかったのであろう。だから提婆達多は法華経によって天王如来となったのである。 今の真言師・念仏者・禅宗・律宗等の人々、及びこれらの僧に帰依している天子、ならびに将軍家、そして日本国の上下万人は法華経の強敵となったうえ、さらに法華一乗の行者の日蓮の大怨敵となったのである。それゆえ、一切経を覚り、十方の仏に帰依し、国中の寺院を建立し、一切衆生に慈悲を施したとしても、衆流が大海に入に入って鹹味となり、衆鳥が須弥山に近づいて金色となるように、一切の大善根が変じて七難が起こっているのである。 今、眼前には蒙古国からの責めが厳しく、自身は兵に破られて、妻子を敵に捕えられ、後生には無間大城に堕ちるのである。 |
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此をもってをもうに、故弥四郎殿は設ひ大罪なりとも提婆が逆にはすぐべからず。何に況んや小罪なり。法華経を信ぜし人なれば無一不成仏疑ひなきものなり。 |
このことから思うに、故弥四郎殿はたとえ大罪はあっても、提婆達多の三逆罪には勝ることはない。提婆達多に比べベるならば小罪であり、まして法華経を信ずる人であるから、無一不成仏は疑いないのである。 |
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疑って云はく、今の真言師等を無間地獄と候は心へられぬことなり。今の真言は源弘法大師・伝教大師・慈覚大師・智証大師此の四大師のながれなり。此の人々地獄に堕ち給はずば、今の真言師いかで堕ち候べき。答へて云はく、地獄は一百三十六あり、一百三十五の地獄へは堕つる人雨のごとし。其の因やすきゆへなり。一の無間大城へは堕つる人かたし。五逆罪を造る人まれなるゆへなり。又仏前には五逆なし。但殺父・殺母の二逆計りあり。又二逆の中にも仏前の殺父・殺母は決定として無間地獄へは堕ちがたし。畜生の二逆のごとし。而るに今日本国の人々は又一百三十五の地獄へはゆきがたし。日本国の人々形はことなれども同じく法華経誹謗の輩なり。日本国異なれども同じく法華誹謗の者となる事は、源伝教より外の三大師の義より事をこれり。 |
疑って言う。現在の真言師等を無間地獄とは納得のいかないことである。今の真言宗はその源をたどれば弘法大師・伝教大師・慈覚大師・智証大師この四大師門流である。この人々が地獄に堕ちていないのなら今の真言師がどうして地獄に堕ちることがあろうか。 答えて言う。地獄には一百三十六の地獄がある。一百三十五の地獄に堕ちる人は雨が大地に落ちるように多い。それは堕獄の因を犯しやすいからである。残りの一つの無間地獄に堕ちる人は少ないのである。それは五逆罪を造る人はまれだからである。また釈尊以前には五逆罪はなく、ただ殺父・殺母の二逆あっただけである。しかも釈尊以前の殺父・殺母の二逆では無間地獄に堕ちるようなことはなかった。それは畜生の二逆のようなものだからである。 ところが今、日本国の人々は一百三十五の地獄へ行くこたはありえない。日本国の人々は形は異なってはいても、みな一様に法華経誹謗の輩である。日本の人々が各人異なっていても同じく法華誹謗の者となるということは、源をたどれば伝教大師を除いた他の弘法・慈覚・智証の三大師の邪義から起こったことである。 |
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問うて云はく、三大師の義如何。答へて云はく、弘法等の三大師は其の義ことなれども、同じく法華経誹謗は一同なり。所謂善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の法華経誹謗の邪義なり。 |
問うて言う。弘法・慈覚・智証の三大師の義はどうか。、 答えて言う。弘法等の三大師は、そのたてている義は異なっていても、法華経を誹謗していることは同じであり、それらの源は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の法華経誹謗の邪義なのである。 |
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問うて云はく、三大師の地獄へ堕つる証拠如何。答へて云はく、善無畏三蔵は漢土・日本国の真言宗の元祖なり。彼の人すでに頓死して閻魔のせめにあへり。其のせめに値ふ事は他の失ならず、法華経は大日経に劣ると立てしゆへなり。而るを此の失を知らずして、其の義をひろめたる慈覚・智証、地獄をまぬがるべしや。 (★1076㌻) 但し善無畏三蔵の閻魔のせめにあづかりし故をだにもたづねあきらめば、此の事自然に顕はれぬべし。善無畏三蔵の鉄の縄七すぢつきたる事は、大日経の疏に我とかゝれて候上、日本醍醐の閻魔堂、相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり。此をもって慈覚・智証等の失をば知るべし。 |
問うて言う。弘法等の三大師が地獄に堕ちているという証拠はあるのか。 答えて言う。善無畏三蔵は中国・日本国の真言宗の元祖であるが、彼は頓死した時に地獄で閻魔王の責めにあったのである。善無畏が責められたのは、他の罪ではなく、法華経は大日経に劣るとの義を立てたからである。 そうであるのに、この失を知らないでその義を弘めた慈覚・智証も、地獄を免れるわけがない。善無畏三蔵が閻魔王の責めにあった理由を少しでも明らかにしていくなら、三大師が地獄に堕ちたことは自然に明らかになる。善無畏三蔵が閻魔王の責めにあって鉄縄七筋で縛られたことは大日経の疏に自分で書いているうえ、日本の山城醍醐の閻魔堂、相州鎌倉の閻魔堂に懸かっている画に明らかである。このことによって、その流れをくむ慈覚・智証等の失をしるべきである。 |
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問うて云はく、法華経と大日の三部経の勝劣は経文如何。答へて曰く、法華経には諸経の中に於て最も其の上に在りと説かれて、此の法華経は一切経の頂上の法なりと云云。大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻以上十三巻の内、法華経に勝ると申す経文は一句一偈もこれなし。但蘇悉地経計りにぞ三部の中に於て此の経を王と為すと申す文候。此は大日の三部経の中の王なり。全く一代の諸経の中の大王にはあらず。例せば本朝の王を大王といふ。此は日本国の内の大王なり。全く漢土・月支の諸王に勝れたる大王にはあらず。法華経は一代の一切経の中の王たるのみならず、三世十方の一切の諸仏の諸説の中の大王なり。例せば大梵天王のごときんば諸の小王・転輪王・四天王・釈王・魔王等の一切の王に勝れたる大王なり。金剛頂経と申すは真言教の頂王、最勝王経と申すは外道・天・仙等の経の中の大王、全く一切経の中の頂王にはあらず。法華経は一切経の頂上の宝珠なり。論師人師をすてゝ専ら経文をくらべばかくのごとし。 |
問うて言う。法華経と大日経等の真言三部経との勝劣は、どのようなものか。 答えて言う。法華経には安楽行品第十四に「諸経の中に於いて、最も其の上に在り」と説かれて、この法華経が一切経のなかで頂上の法であると述べられている。大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻の以上十三巻のなかに、法華経に勝るという経文は一句一偈もないのである。 ただ蘇悉地経だけに、三部経の中に於いて此の経を王とするという経文がある。これは大日経の三部経のなかでの王ということであって、釈尊一代の諸経のなかでの大王ということではない。例えば、日本国の王を大王という。これは、日本国の中の大王ということであって、中国・インドの諸王に勝った大王ということでは全くない。 法華経は釈尊一代の一切経のなかの王であるのみならず、三世十方の一切の諸仏のなかの大王であるようなものである。たとえば大梵天王が、あらゆる小王・転輪聖王・四天王・帝釈天王・魔王等の一切の王の中で最も勝れたる大王であるようなものである。 金剛頂経というのは真言教のなかの頂王であり、最勝王経というのは外道・天仙等の経の中の大王であり、一切経のなかでの頂王ではない。法華経は一切経の頂上の宝珠である。論師・人師の説を捨てもっぱら経文を比べるならばこのように明白なのである。 |
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而るを天台宗出来の後、月氏よりわたれる経論並びに天竺・漢土にして立てたる宗々の元祖等、修羅心をさしはさめるかのゆへに、或は経論にわたくしの言をまじへて事を仏説によせ、或は事を月氏の経によせなんどして、私の筆をそへ仏説のよしを称す。善無畏三蔵等は法華経と大日経との勝劣を定むるに理同事勝と云云。此は仏意にはあらず。仏説のごとくならば大日経等は四十余年の内、四十余年の内にも華厳・般若等には及ぶべくもなし。但阿含小乗経にすこしいさてたる経なり。而るを慈覚大師等は此の義を弁へずして、善無畏三蔵を重くをもうゆへに、理同事勝の義を実義とをもえり。弘法大師は又此等にはにるべくもなき僻人なり。 (★1077) 所謂法華経は大日経に劣るのみならず、華厳経等にもをとれり等云云。而るを此の邪義を人に信ぜさせんために、或は大日如来より写瓶せりといゐ、或は我まのあたり霊山にしてきけりといゐ、或は師の恵果和尚の我をほめし、或は三鈷をなげたりなんど申す種々の誑言をかまへたり。愚かな者は今信をとる。又天台の真言師は慈覚大師を本とせり。叡山の三千人もこれを信ずる上、随って代々の賢王の御世に勅宣を下す。其の勅宣のせんは法華経と大日経とは同醍醐、譬へば鳥の両翼、人の左右の眼等云云。今の世の一切の真言師は此の義をすぎず。此等は蛍火を日月に越ゆとをもひ、蚯蚓を華山より高しという義なり。 其の上、一切の真言師は灌頂となずけて釈迦仏を直ちにかきてしきまんだらとなづけて弟子の足にふませ、或は法華経の仏は無明に迷へる仏、人の中のえぞのごとし、真言師が履とりにも及ばずなんどふみにつくれり。今の真言師は此の文を本疏となづけて、日々夜々に談義して、公家武家のいのりとがうして、をゝくの所領を知行し、檀那をたぼらかす。 |
しかるに、中国に天台宗が成立した後に、インドから渡ってきた経論ならびに、インド・中国で開かれた諸宗の元祖等は、 修羅心をさしはさんだのであろう。あるいは経論に自らの言葉を加えながら、事を仏説に寄せ、あるいは事をインドの経に寄せなどして、自分の説を付け加えて仏説にあるなどと称したのである。善無畏三蔵等は法華経と大日経との勝劣を定めるのに理同事勝と言った。しかし、これは仏意ではない。仏説のとおりに従えば大日経等は四十余年の内の経教であり、四十余年の経教のなかでも、華厳経・般若経等にも及ばない教えなのである。ただ阿含経の小乗経には少し勝れている程度の経である。それを慈覚大師等はこのことをわきまえずに、善無畏三蔵を重んじて理同事勝を実義と思い込んだのである。 弘法大師はまた慈覚等とは全く比べることもできないほどの僻人である。弘法は「法華経は大日経に劣るのみならず、華厳経等にも劣る」と言っている。そのうえこの邪義を人々に信じさせるために、あるいは大日如来から相承した法門であるとか、あるいは霊鷲山でまのあたりに聴いた法門であるとか、あるいは慧果和尚が自分を褒めたとか、あるいは唐から日本に投げた三鈷の金剛杵が高野山にあった等のさまざまな嘘の話をつくったのである。それを愚かな人々は今でも真実であると思っているのである。 日本の天台宗のなかの真言師等は慈覚大師を源としている。比叡山の三千人の大衆が慈覚を信じたのみならず、代々の天皇もその治世に勅宣を下した。その勅宣の所詮の意は「法華経と大日経とは同じ醍醐味の教えであって、たとえば鳥の二つの翼、人の左右の眼のようなものである」ということである。現在の世の中の一切の真言師はこの義を出ないのである。これはあたかも螢を日月より明るいと思ったりミミズの作る山が華山より高いと思うのと同じ義である。そのうえ一切の真言師は潅頂と名づけて、釈迦仏を描き、敷曼荼羅と名づけて弟子の足で踏ませるのである。あるいは「法華経の仏は無明に迷う仏にすぎず、人のなかでいえば夷のようなものであり、真言師の履取りにも及ばない」と書いたのである。現在の真言師はこの文を本疏と名づけて日夜に談義し、公家・武家のために祈禱するといって多くの領地をもらい檀那をたぶらかしているのである。 |
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事の心を案ずるに、彼の大慢ばら門がごとく、無垢論師にことならず。此等は現身に阿鼻の大火を招くべき人々なれども、強敵のなければさてすぐるか。而りといへども、其のしるし眼前にみへたり。慈覚と智証との門家等闘諍ひまなく、弘法と聖覚が末孫が本寺と伝法院、叡山と園城との相論は修羅と修羅と猿と犬とのごとし。此等は慈覚の夢想に日をいるとみ、弘法の現身妄語のすへか。仏、末代を記して云はく、謗法の者は大地微塵よりも多く、正法の者は爪上の土よりすくなかるべし。仏語まことなるかなや。今日本国かの記にあたれり。 |
このことを考えてみると、真言師の姿は、外道の三神と釈迦像とを高座の足に作って我が徳は四聖よりも勝れていると言った大慢婆羅門や、世親菩薩を誹謗した無垢論師と同じである。真言師等は生きながら阿鼻地獄の大火に焼かれるべき人々であるが、強敵がいないのでその謗法の罪があらわれずに無事にいるであろうか。しかし、彼らが阿鼻地獄に堕ちる証拠は眼前にある。 慈覚と智証との門家等・闘諍がたえず、弘法が開いた高野山金剛峯寺と聖覚房覚鎫の開いた根来伝法院、比叡山と薗城寺との争いは、ちょうど修羅と修羅、猿と犬の闘争のようなものである。これらのことは慈覚が夢に日輪を射たことや、弘法が在世中に妄語を続けたからであろうか。 仏はこうした末代悪世を予言して「謗法の者は大地微塵より多く、正法を信ずる者は爪上の土よりも少ないだろう」と説いている。仏語まことなるかな、今、日本国はまさしくこの仏記に合致している。 |
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予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ。其の所願に子細あり。今くはしくのせがたし。其の後、先づ浄土宗・禅宗をきく。其の後、叡山・園城・高野・京中・田舎等処々に修行して自他宗の法門をならひしかども、 (★1078㌻) 我が身の不審はれがたき上、本よりの願に、諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず、いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ふべし、論師・訳者・人師等にはよるべからず、専ら経文を詮とせん。又法門によりては、設ひ王のせめなりともはゞかるべからず、何に況んや其の已下の人をや、父母師兄等の教訓なりとも用ふべからず、人の信不信はしらず、ありのまゝに申すべしと誓状を立てしゆへに、三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩等をば、天台・妙楽・伝教等は無間地獄とせめたれども、真言宗の善無畏三蔵・弘法大師・慈覚・智証等の僻見はいまだせむる人なし。善無畏・不空等の真言宗をすてゝ天台による事は、妙楽大師の記の十の後序並びに伝教大師の依憑集にのせられたれども、いまだくはしからざればにや、慈覚・智証の謬誤は出来せるかと強盛にせむるなり。 |
日蓮はこのことを、よくご存知のとおり、幼少のころから学問に心がけて、そのうえ十二歳の時から大虚空蔵菩薩の御宝前で「日本第一の智者とならし給え」と願をかけてきたのである。その願いはさまざまな理由があるが、今は詳しく書くことができない。その後まず浄土宗・禅宗の法門を聴聞し、さらに比叡山延暦寺・薗城寺・高野山で研鑚し、京の都や田舎などを巡って修行して自宗・他宗の法門を修学したが、我が身の不審は晴れなかった。 もともとの願いに「諸宗のいずれの宗にたいしても偏った心や執着はもつまい。いづれの宗であっても仏説に証拠があって、道理が分明であるものを用いよう。論師・訳者・人師によってはならない。ひたすら仏の経文を第一としよう。また法門の上では、たとえ国王の責めを受けてもはばかることはない。まして、それより以下の人々をや、父母・師兄等の教訓であっても用いることはない。人の信ずるか信じないとかにかかわらず、ただ経文のままに言い通していこう」と誓状を立てたのである。 そして三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩等については天台大師・妙楽大師・伝教大師等が無間地獄と責めたけれども、真言宗の善無畏三蔵・弘法大師・慈覚・智証等の僻見については、いまだに責める人がいない。善無畏・不空等が真言宗を捨てて、天台大師の法門によったことは、妙楽大師の法華文句記の巻十の後序ならびに伝教大師の依憑集に載せられているが、いまだ詳しくはないので伝教大師の末流から慈覚・智証の誤りがでてきたのであろうかと、日蓮は強盛に責めているのである。 |
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かく申す程に、年三十二建長五年の春の比より念仏宗と禅宗等とをせめはじめて、後に真言宗等をせむるほどに、念仏者等始めにはあなづる。日蓮いかにかしこくとも明円房・公胤僧上・顕真座主等にはすぐべからず。彼の人々だにもはじめは法然上人をなんぜしが、後にみな堕ちて或は上人の弟子となり、或は門家となる。日蓮はかれがごとし。我つめん、我つめんとはやりし程に、いにしへの人々は但法然をなんじて、善導・道綽等をせめず。又経の権実をいはざりしかばこそ、念仏者はをごりけれ。今日蓮は善導・法然等をば無間地獄につきをとして、専ら浄土の三部経を法華経にをしあはせてせむるゆへに、蛍火に日月、江河に大海のやうなる上、念仏は仏のしばらくの戯論の法、実にこれをもって生死をはなれんとをもはゞ、大石を船に造りて大海をわたり、大山をになて険難を越ゆるがごとしと難ぜしかば、面をむかうる念仏者なし。 |
このようにして日蓮は三十二歳の時、建長五年の春のころから、念仏宗と禅宗を責め始めて、後に真言宗等を攻めたてたのである。念仏者等ははじめは侮って「日蓮がいかに賢くとも、明円房・公胤僧上・顕真座主等には及ぶはずがない。彼の人々さえも初めは法然上人を非難したが、後にはみな法然上人の弟子となり、あるいは門家となったのである。日蓮もそうなるであろう」といって、我も我もと日蓮を難じ詰めようとしたのである。しかし、昔の人々はただ法然を非難して、その源である善導・道綽等を責めず、また経の権実を言わなかったので、かえって念仏者が驕り高ぶったのである。そこで、日蓮は善導・法然等をば無間地獄に突き落とし、浄土三部経を法華経に引き合わせて責めたので、あたかも螢火に日月、江河に大海をつき合せたようなものであった。そのうえ、念仏は仏の方便の教えである。この教えで生死を離れようとするのは、大石で造った船で大海を渡り、大山を背負って嶮しい坂を越えるようなものである、と論難したところ、日蓮に面を向けてくる念仏者は一人もなかったのである。 |
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後には天台宗の人々をかたらひて、どしうちにせんとせしかども、それもかなはず。天台宗の人々もせめられしかば、在家出家の心ある人々、少々念仏と禅宗とをすつ。念仏者・禅宗・律僧等、我が智力叶はざるゆへに、 (★1079㌻) 諸宗に入りあるきて種々の讒奏をなす。在家の人々は不審あるゆへに、各々の持僧等、或は真言師、或は念仏者、或はふるき天台宗、或は禅宗、或は律僧等をわきにはさみて、或は日蓮が住処に向かひ、或はかしこへよぶ。而れども一言二言にはすぎず。迦旃延が外道をせめしがごとく、徳慧菩薩が摩沓婆をつめしがごとくせめしゆへに、其の力及ばず。人は智かしこき者すくなきかのゆへに、結句は念仏者等をばつめさせて、かなはぬところには大名してものをぼへぬ侍ども、たのしくて先後も弁へぬ在家の徳人等挙って日蓮をあだするほどに、或は私に狼藉をいたして日蓮がかたの者を打ち、或は所ををひ、或は地をたて、或はかんどうをなす事かずをしらず。 |
その後、天台宗の人々を味方にして日蓮と同士打ちをさせようとした者もいたけれども、それもできなかった。天台宗の人々も日蓮に責められたから、在家・出家である人々が少しは念仏宗と禅宗を捨てたのである。 このようにして、念仏者・禅宗・律僧等は自らの智慧では日蓮にかなわないので、諸宗の人々を誘ってさまざまな讒奏をしたのである。 在家の人々は、この不審を晴らそうと、それぞれの帰依する真言師や、あるいは念仏者、あるいは古い天台宗、あるいは禅宗、あるいは律宗の僧をつれて日蓮が住処にきて法論したり、あるいは自分のところへ日蓮を呼んだりした。しかし、彼らは、一言か二言で言葉が詰まってしまうのである。あたかも迦旃延が外道を訶責したように、徳慧菩薩が摩沓婆外道を問い詰めたように破折したので、彼らの力が及ぶことはなかった。 人々のなかに智慧の賢い人が少ないせいか、結局は念仏者等に論議させて日蓮にかなわないときは、名ばかりで道理をも知らない侍等、面白半分で前後を考えない有力者等を誘って、日蓮に怨をしたのである。そうして、あるいはひそかに日蓮の味方を打ったり、あるいは居所を追ったり、あるいは領地を奪ったり、あるいは勘当をしたりすること等が数を知れないのである。 |
| 上に奏すれども、人の主となる人はさすが戒力といゐ、福田と申し、子細あるべきかとをもひて、左右なく失にもなされざりしかば、きりものどもよりあひて、まちうど等をかたらひて、数万人の者をもって、夜中にをしよせ失はんとせしほどに、十羅刹の御計らひにてやありけん、日蓮其の難を脱れしかば、両国の吏心をあはせたる事なれば、殺されぬをとがにして伊豆の国へながされぬ。最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれて、いそぎゆるされぬ。 |
また日蓮を幕府に訴えたけれども、さすがに人々の主君となって政治を執る人は、威徳といい、福徳といい、何か子細あるにちがいないと思われて、軽率に処刑されることがなかったのである。そこで権力を誇る人々が寄り集まり、町人等を集めて、数万人の人々が夜中に草庵に押しかけ、日蓮を殺そうとしたのである。しかし十羅刹の御計らいであろか、日蓮はその難をのがれたのである。そこで、相模と伊豆の両国の役人等が示し合わせ、日蓮が殺されなかったことをとがにして伊豆国に流罪したのである。しかし、最明寺殿だけは、この流罪は何か子細あると思われて、一年九カ月後には赦されたのである。 |
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さりし程に、最明寺入道殿隠れさせ給ひしかば、いかにも此の事あしくなりなんず。いそぎかくるべき世なりとはをもひしかども、これにつけても法華経のかたうどつよくせば、一定事いで来たるならば身命をすつるにてこそあらめと思ひ切りしかば、讒奏の人々いよいよかずをしらず。上下万人皆父母のかたき、とわりをみるがごとし。不軽菩薩の威音王仏のすへにすこしもたがふ事なし。 |
そのうちに最明寺入道殿が死去されたので、日蓮に不利になるであろうから、早く山林に退こうとも考えたが、むしろ、ますます強く法華経の味方ををするならば、必ず大きな難が起こるであろうから、そのときに身命を捨てることにしようと心に決めたのである。すると、讒奏する人はますます増え、上下万人のあらゆる人々が日蓮を父母の敵か、あるいはとわりのように憎むとうになった。そのありさまは不軽菩薩が出現した威音王仏の末世と少しも違うことはなかった。 |