大白法・令和4年7月1日刊(第1080より転載)御書解説(255)―背景と大意

種々御振舞御書(1055頁)

 

 一、御述作の由来

 本抄は、建治二年(1276)年、日蓮大聖人様が御年五十五歳の時、身延において(したた)められた御書です。
 対告衆(たいごうしゅ)は不詳ですが、「安房国(あわのくに)の東西の人々は此の事を信ずべき事なり」とあることから、安房国(千葉県南部)の信徒、もしくはその関係者に与えられたと考えられます。
 本抄は、かつて身延に存した『種々御振舞御書』『佐渡御勘気抄」『阿弥陀堂加賀法印祈雨事』『光日房御書』の四篇を一書にまとめたもので、御真蹟(ごしんせき)は現存しません。ただし、総本山第四世日道上人の『御伝土代』に引用があり、真書であることは間違いありません。
 系年については、本抄に「()ぬる文永十一年二月十四日御赦免の状」との記述があり、昨年の事であれは、通常「去年」と表記されることから、文永十一年の二年後、建治二年以降と考えられ、安房国に関するその他の記述からも、建治二年に比定(比較して推定)されています。

 

 二、本抄の大意

 まず初めに、文永五(1268)年に蒙古国の牒状(ちょうじょう)が到来したことは『立正安国論』と符合(ふごう)しており、十一カ所に()てた書状(十一通御書)に、末法適時(ちゃくじ)の法である南無妙法蓮華経の正法に帰依(きえ)すべきことを認めましたが、かえって念仏者等が讒言(ざんげん)したことを述べられます。
 次に、文永八年九月十二日の松葉ケ谷(まつばがやつ)の草庵からの連行と竜口(たつのくち)法難、佐渡配流(はいる)に至る経緯が述べられます。文永八年、平頼綱(たいらのよりつな)平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)頼綱)が数百人の兵を引き連れて松葉ケ谷の草庵に来た折、連行に際して第一の郎従(ろうじゅう)である少輔房(しょうぼう)の悪行等があり、この時に大聖人様が「あらをもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ、とのばら(殿原)、但今ぞ日本国の柱をたを()す」と第二の国諌(こっかん)をされたこと。また、竜口法難の起因の一つである良寛(りょうかん)の祈雨について、雨は降らず、かえって大風が吹いたと述べられます。
 続いて、十二日の夜、斬首のために鎌倉を出発され、若宮小路(わかみやこうじ)で八幡大菩薩に諫言(かんげん)なさったこと。四条金吾の兄弟が竜ロの刑場までお供したこと。処刑の瞬間に光り物が現われ、兵士たちが恐れて斬首できなかったことを述べられます。そしてその後、 依智(えち)の本間邸に入り、十三日の星(くだ)り、執権(しっけん)北条時宗邸での騒動、依智の本間邸でのことなどを述べられます。
 次に、十月十日に依智を出発され、同月二十八日に佐渡に着かれたと。塚原三昧堂(つかはらさんまいどう)の様子、翌年一月十六日の塚原問答とその経緯等を記され、さらに本間重連(しげつら)に急いで鎌倉に上るよう助言されたことを述べられます。
 続いて、『開目抄』の述作と自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)の的中について述べられます。そして、正法を用いなければ、国が必ず亡びること。また、武蔵前司(むさしのぜんじ)(北条宣時(のぶとき))が三度にわたって虚御教書(そらみぎょうしょ)を下して佐渡の信徒を強圧したこと。そして、文水十一年二月十四日に幕府の赦免状(しゃめんじょう)が出され、三月八日に佐渡に届いたことを述べられます。
 次に赦免となり鎌倉へ戻られて以降のことを述べられます。まず、四月八日に平左衛門尉頼綱に見参し、蒙古襲来について問われ、「今年は一定(いちじょう)なり」と答えられたこと。また、真言師の祈祷では「還著於本人(げんじゃくおほんにん)」の現証が現われると破折されます(第三の国諌)。
 そして、阿弥陀法印の祈祷について、かつての善無畏(ぜんむい)不空(ふくう)の例と同じように雨は降ったが、その後、季節外れの台風が吹き、たいへんな被害が出たことを述べられます。
 次いで、三度国を諌めて用いられなければ国を去るとの故事にならい、身延山に入られたこと。同年十月に蒙古の襲来があり、諸経に悪人・悪比丘を尊重し、善人を治罰するならば、必ず難が起きると説かれるように、壱岐(いき)対馬(つしま)、そして大宰府(だざいふ)も破られたこと。そして仏法を学ぶ人、後世を願う人は、法華誹謗(ひぼう)を恐るべきであることなどを述べられます。
 次に治罰の例として、安房国の円智(えんち)房等の臨終について挙げられ、成仏したと人々は信じていたが、それは弟子によって臨終の悪相を隠されていたからであることを明かされます。また、蒙古襲来によって、壱岐・対馬・大宰府で多くの人が亡くなったことは、 法華経を誹謗する真言師・念仏者・禅宗等の末弟子が国に充満しているからであると述べられます。そして、法華経を受持する者は必ず成仏する故に第六大の魔王が国主・父母・妻子について、法華経の行者を(そね)むと述べられます。
 最後に、身延の情景とお手紙への返礼を述べられ、本抄を結ばれています。

 

 三、拝読のポイント

 法華経のために身を捨てる

 大聖人様は本抄において、
 「さいはひなるかな、法華経のために身をすてん事よ。くさきかうべをはなたれば、沙に金をかへ、石に珠をあきなへるがごとし
と仰せられ、また、
 「此の娑婆世界にしてきじとなりし時はたかにつかまれ、ねずみとなりし時はねこにくらはれき。或はめに、こに、かたきに身を失ひし事大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失ふことなし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん。其のあまりは弟子檀那等にはぶくべし
と、法華経のために身を捨てること、身命を賭して破邪顕正の折伏を行ずることを最上の悦びとされ、その功徳を父母に回向し、正法を受持する弟子檀那等に与えると教示されています。
 私たちは、この大聖人様の大慈大悲の御言葉に対し、御報恩のためにも不惜身命の精神で、カの限り折伏を行じていかなければなりません。

 第一の方人(かたうど)

 また、大聖人様は本抄において、
 「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信(かげのぶ)、法師には良観(りょうかん)道隆(どうりゅう)道阿弥陀仏(どうあみだぶつ)、平左衛門尉・守殿(こうどの)ましまさずんば、争でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ
と、御自身を傷つけたり迫害した人々に対し、法華経の行者としての振る舞い、御本仏としての御化導を助けた味方・善知識であると仰せられています。これは御本仏の御化導の上からの御教示ですが、私たちの成仏得道の上から言えば、天台大師の『摩訶止観』に、
 「行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔紛然(ふんぜん)として競い起る」(摩訶止観弘決会本 中185頁)
とあるように、修行・領解が深まるにつれ、それを妨げようとする三障四魔の用きが強くなります。その時こそ強盛な信心をもってそれらを乗り越えていくことが重要です。
 『兄弟抄』に、
 「魔競わずは正法と知るべからず」(御書986頁)
と御教示のように、障魔が競うのは正法であることの証左ですので、確信をもってさらなる折伏弘通に邁進していきましょう。

  謗法の現証と総罰

 本抄には、極楽寺良観や阿弥陀堂法印の祈雨による悪風、自界叛逆難と他国侵逼難(たこくしんぴつなん)、安房国で尊敬されていた僧侶の臨終の悪相など様々な現証が示されています。これらはすべて法華経の行者である大聖人様を迫害し、正法を誹謗したことによる悪果です。
 さらに大聖人様は、蒙古襲来による壱岐・対馬等の惨状は総罰であると御教示です。謗法充満の国土においては、そこに住むすべての人々が罰を受けることになるのです。
 謗法の害毒の恐ろしさと、その罪の重さを知る私たちは、一刻も早く日本乃至全世界の人々を正法に帰依させ、仏国土を建設していくことが肝要です。

  大聖人様を正しく敬うべし

 さらに、大聖人様は本抄において、
 「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやま()はゞ国亡ぶべし
と、大聖人様の仰せを用いたとしても、()しく敬った場合は、国が亡ぶほどの大事となると教示されています。大聖人様を末法の法華経の行者・御本仏と拝することのできない(やから)は、大聖人様が誡められた、悪しく敬う者・国を亡ぼす者に他なりません。
 御本仏大聖人様の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を信じ、大聖人様以来の唯授一人(ゆいじゅいちにん)血脈(けちみゃく)を承継あそばされる御法主上人猊下の御指南に信伏随従して広宣流布に邁進することが、地涌(じゆ)の菩薩の眷属(けんぞく)としての私たちの使命です。

 

 四、結  び

 御法主日如上人猊下は、
 「私どもには一閻浮提第一の本門戒壇の大御本尊様が(ましま)すことを心肝に染め、たとえいかなる障魔が惹起(じゃっき)しようとも恐れることなく、一意専心、折伏に励むところに必ず大御本尊様の御照覧があることを確信し、講中一結・異体同心して折伏に励んでいくことが今、最も大事であります」(大白法 1075号)
と御指南されています。
 「報恩躍進の年」の本年、大聖人様に真の御報恩を尽くすためにも、講中一丸となって折伏弘通に情進してまいりましよう。