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(★992㌻) 御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。 |
御日記の中に「釈迦仏の木像像立した云云」とある。 仏の開眼のことは、普賢経に「この大乗経典は諸仏の宝像である。十方三世の諸仏の眼目である」と説かれている。また普賢経に「是の法等経は、是れ諸仏の眼である。諸仏は、この経によって、五眼を具することを得られたのである」とある。 この経の中に「五眼を具することが得られた」とあるが、その五眼とは一には肉眼・二には天眼・三には慧眼・四には法眼・五には仏眼をいうのである。法華経を持つ者には、この五眼が自然に相わってくるのである。たとえば王位につく人には、自然にその国民が従うごとく、また大海の主となる者には、自然に魚が従ってくるようなものである。 華厳経・阿含経・方等経・般若経・大日経等には、五眼という名はあってもその義すなわち実体はない。今の法華経には五眼という名もあり、その義も備わっているのである。たとえ名がないとしても必ず其の義は備わっているのである。 |
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三身の事、普賢経に云はく「仏三種の身は方等より生ず。是の大法印は涅槃海を印す。此くの如き海中より能く三種の仏の |
三身の事について普賢経には「仏の三身は大乗経から生ずる。この大法印は、仏の涅槃という大海を証明したものである。この大涅槃海の中から、よく仏の三身の清浄の身を生ずるのである。この三種の身は、人天の衆生が縁して善根を生ずる福田であり、また人天から供養を受ける資格をもつものの中で最高のものである」と説かれている。 三身というのは一には法身如来であり、二には報身如来、三には応身如来である。この三身如来を一切の諸仏は必ず具えている。たとえば月の体は法身にあたり、月の光は報身であり、月の影は応身にたとえられる。一つの月にも三つの側面があるように、一仏には三身如来の徳が具わっているのである。 |
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其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には |
そのうえ、一念三千の法門というのは、三種の世間から起こっている。三種の世間というのは、一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間である。衆生世間・五陰世間の二つはしばらく置く、第三国土世間というのは、草木世間のことである。 草木世間というのは、五色の絵具は草木からできている。画像はこの絵具によって作られるのである。木というのは、木像がこれから造られるのである。この画像・木像に魂魄、すなわち神を入れることは、法華経の力である。またこれは天台大師の悟りである。この法門は衆生の立ち場からいえば、即身成仏とわれ、画像・木像の辺からは草木成仏というのである。 |
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止観の |
章安大師が「天台大師の止観の法門は、まことに明瞭に説かれており、これほどのものは、前代に聞いたことがない」と讃嘆し、また妙楽大師が「無情界にも仏性があることを明かしたことは、まさに、耳を惑わし、心を驚かすことである」と述べているのはこのことである。この一念三千の法門は前代になかったのみならず、後代にもあろうはずがない。もし、あったとすれば、それはこの天台の法門を盗みとったものにちがいない。 | |
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ところが、天台大師から二百余年の後、善無畏・金剛智・不空等は、大日経によって真言宗という宗をかまえた。そして本来の大日経等には一念三千の法門など説かれていないのに、法華経の義・天台の釈を盗み入れて、真言宗の肝心としたのである。しかもその事を、インドから伝わったかのように言いふらし、中国・日本の後世の人たちをまどわしたのである。こうした事情を人々は誰も知らず、みな一同に信じきって、今に至るまで五百余年を経ている。それゆえ、真言宗以前の木像・画像は、天台宗の法華経で開眼したから、利生もことさらあったが、真言で開眼するようになって以後の寺塔は、利生がなくなってきた。このような事情については多くあり、わずらわしいので詳しくは書かない。 | |
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此の仏こそ |
殿の造立されたこの仏像こそ、生身の仏であられるのである。優填大王のつくられた木像、また影顕王のつくられた木像とも、少しもことなることがない。梵天・帝釈・日天・月天・四天等は必ず影に身に従うように、殿につき従って守られるであろう。是れが一である。 |
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御日記に云はく、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕ヘさせ給ふ事、大日天子と申すは宮殿 (★994㌻) 争でか此の天の御恩をば報ずべきともとめ候に、仏法以前の人々も心ある人は、皆或は |
御日記によると、毎年四月八日から七月十五日までの九十日間、大日天子を祭られるということである。 大日天子の宮殿は七宝でできていて、その大きさは八百十六里・五十一由旬ある。そのなかに大日天子がおられる。勝・無勝という二人の后があり、また左右には七曜・九曜の星がつらなり、前には摩利支天女がいられる。七宝で造られた車を八匹の駿馬にかけて引かせ、四天下を一日一夜でかけまわり、四州の衆生の眼目となられるのである。他の仏・菩薩・天子等は、利益がすばらしいということは耳にはきくが未だ凡夫の眼には見ることができない。 しかし、日天子に利生のあることは疑うことのできない眼前の事実である。教主釈尊でなければ、どうしてこのように利生があらたかなことがあろうか。また法華経の力でなければ、どうして眼前の奇異を現わすことができようか。不思議に思う。 ではいかにしたらこの日天子の御恩を報ずずることができるかともとめたところ、仏法以前の人々も、心ある人はみな、あるいは礼拝を行い、あるいは供養をして、皆、利益を受けていた。またこれに逆らった人は、みな罰を受けた。今、仏教経典をもって考えてみると、金光明経には「日天子ならびに月天子は、是の経を聞くから、精気が充実するのである」と説かれ、最勝王経には「此の経王の力によって、日天子・月天子は世界をまわるのである」と説かれている。これによって知られるように日月天子が四天下をめぐるのは、仏法の力によるのである。 彼の金光明経・最勝王経は、法華経の方便である。法華経との勝劣を論ずるならば、乳と醍醐、金と宝珠とのごとくである。このように劣った経の力によってでさえ、なお、四天下をめぐるのである。ましていわんや、り法華経の最高の力をもってすれば、どれほどの利生があるかははかりしれない。 ゆえに法華経の序品には、日天子・月天子は普香天子とともに列なり、法師品では日天子は、阿耨多羅三藐三菩提と成仏の記別を与えられた「火持如来」というのがそれである。そのうえ、あなたは、主君の代から日天子を祭って二代目であり、わが身になってから長いことたっている。どうして日天子がみすてられるようなことがあろうか。そのうえ、日蓮もまたこの日天子を恃み奉り、日本国とはりあって数年になるが、すでに日蓮が勝ったという心地がする。このように利生のはっきりしていることは、他にはもとめられない。これより他に、御日記に尊いことと思われるところがたくさんなる。紙上には書きつくしがたい。 |
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なによりも日蓮が心に (★995㌻) 観仏相海経に云はく「 |
なによりも日蓮の心に尊く感じたことがある。父母御孝養の事は、度々の御手紙で拝見していたが、今日の御文には、涙がいっこうにとまらなかった。「我が父母は、もしや地獄にいられるのではなかろうか」と嘆かれている心の尊さよ。 仏の弟子の御中に目犍尊者という者は、父を吉占師子といい、母を青提女といった。その母が死後餓鬼道におちたことを、目犍は、凡夫であったときは知らなかったので、嘆きもしなかったが、仏の御弟子となられて後、阿羅漢となり、天眼をもってごらんになると、母は餓鬼道におられた。これをごらんになって、目犍が食物や飲み物をさしあげたところ、それは炎となってますます苦しみをませてしまったので、いそいで走り帰り、仏にこのわけを話したのである。その時の目犍の心中を思いやってごらんなさい。今、あなたは凡夫である。肉眼であるから、父母のことはごらんになれないが、もしそのようなことがあったならばと嘆かれている。これは孝養の一分である。梵天・帝釈・日月・四天も定めていじらしいと思われるであろう。 華厳経には「恩を知らない者は、多く横死にあう」等と説かれている。また観仏相海経には「恩を知らないということは、阿鼻地獄におちる因である」と説かれている。今、あなたはすでに孝養の志が厚い。必ず諸天も聞き入れて下さるにちがいない。是れが二である。 |
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お手紙の中につけ加えられたことについてであるが、詳しく物事の道理を考えてみると、あってはならないことである。日蓮を日本国の人々がにくんでいる。これあはひとえに相模守殿が日蓮を憎まれていたからである。道理にかなわない政道であるが、いまだこのようなことにあわぬときから、こういうことがあるだろうと知っていたから、今更、どんなことがあっても人を恨むような心は全くないと思っていたので、この心が祈りとなったのであろうか。数々の難をのがれてきた。そして今は、何事もないようになった。 日蓮が佐渡の国にでも餓え死にせず、また、これまで身延の山中げ法華経を読誦できたのは、だれのたすけによるのであろうか。ただひとえに四条金吾殿の御たすけによるのである。また殿の御たすけは何によるかとたずねると、主君江間入道殿のおかげによるのである。 入道殿はこうして日蓮を助けていることははっきりと御存知なくても、必ずそれは祈りとなって天に通じているであろう。またあなたが父母に孝養できるのも、主君の御恩である。このように恩ある主君の御内を如何なることがあったとしても、捨て去るべきではない。もし、主君より度度捨てられるならば、やむを得ないことではあるが、どのような命におよぶようなことがあっても、主君を捨てるようなことはしてはならない。 先に引用した華厳経の中には「恩を知らない者は横死する」と説かれている。孝養の者はまた横死することはない。鵜という鳥は鉄を食べるが、鉄はとけても腹の中の子はとけない。石を食べる魚はいるが、腹の中の子は死なない。栴檀の木は火に焼けることがない。また浄居の火は水に消えない。仏の御身は三十二人の力士が火をつけたが焼くことはできなかった。また仏の御身から出た火は、三界の竜神が雨をふらして消したけれどもきえなかった。あなたは日蓮が妙法を流布する功徳を助けた人であるから、悪人に害されることはまずないだろう。 もしこのようなことがあるならば、それは過去世に法華経の行者を憎んだ罪が今生の報いとして出ているのである。このことは、どんな山の中、海の上にのがれても、のがれることはできない。不軽菩薩の杖木瓦石の責めにあっても目犍尊者が竹杖に殺されたのもこれによるのである。どうして嘆くことがあろうか。 |