王舎城事 建治二年四月一二日 五五歳

 

第一章 火災の本因を説く

(★974㌻)
 銭一貫五百文()び候ひ了んぬ。
 焼亡の事委しく承り候事悦び入って候。大火の事は仁王経の七難の中の第三の火難、法華経の七難の中には第一の火難なり。(それ)虚空をば剣にてきることなし、水をば火焼くことなし、聖人・賢人・福人・智者をば火()くことなし。例せば月氏に王舎城と申す大城は在家九億万家なり。七度まで大火をこりて()ほろ()びき。万民なげ()きて逃亡せんとせしに、大王なげ()かせ給ふ事かぎ()りなし。其の時賢人ありて云はく、七難の大火と申す事は聖人の()り、王の福の尽くる時をこり候なり。(しか)るに此の大火万民をば()くといえども、内裏(だいり)には火ちか()づくことなし。知んぬ、王のとが()にはあらず、万民の失なり。されば万民の家を王舎と号せば、火神、
(★975㌻)
名にをそ()れてやくべからずと申せしかば、さるへんもとて王舎城とぞ()づけられしかば、それより火災とゞ()まりぬ。されば大果報の人をば大火は()かざるなり。
 
 銭一貫五百文いただきました。
 鎌倉極楽寺の火災のこと委しく承り悦んであります。大火のことについては仁王経には七難の中の第三、法華経には七難の中の第一にあげられている。
 虚空を剣で切ることはできない。また水を火は焼くことはできない。同じように聖人・賢人・福人・智者を火は焼くことはできないのである。たとえをあげるならば、インドに王舎城という、九十戸を擁する大城があった。この大城は七度も大火が起こって焼け亡びた。万民は度重なる大火を嘆いて、この国から逃亡しようとした時、大王は限りなく嘆かれた。
 そのとき賢人があって次のようにいった。「七難の一つにあげられている大火ということは、聖人が去って国王の福運が尽きるときに起こるのである。ところが、今起きている大火は、万民の家は焼いても、王宮には火は近づいていない。これは王の過失ではなく万民の過失によるものであることがわかる。
 したがってこれらは、万民の家を王舎と名づければ、火神はその名に恐れて焼くことはできないであろう」と。王はそのようなことがあるかもしれないと思い、王舎城と名づけてみると、それ以来、火災は止んだ。この例でもわかるように、大果報の人を大火は焼かないのである。

 

第二章 両火房(良観)について述べる

 これは国王已に()けぬ。知んぬ、日本国の果報の()くるしるし()なり。然るに此の国は大謗法の僧等が強盛にいの()りをなして日蓮を降伏(ごうぶく)せんとする故に、弥々(いよいよ)わざは()ひ来たるにや。其の上名と申す事は体を顕はし候に、両火房(りょうかぼう)と申す謗法の聖人鎌倉中の上下の師なり。一火は身に留まりて極楽寺焼けて地獄寺となりぬ。又一火は鎌倉にはな()ちて御所()け候ひぬ。又一火は現世の国を()きぬる上に、日本国の師弟ともに無間地獄に()ちて、阿鼻の炎に()え候べき先表(せんぴょう)なり。愚癡の法師等が智慧ある者の申す事を用ひ候はぬは是(てい)に候なり。不便不便。先々御文まいらせ候ひしなり。    ところが今度の火災では王の御所だけが焼けた。これは日本国の果報が尽きる前兆である。国の福運が尽きようとしているのに、日本国においては大謗法の僧等が日蓮を降伏させようと強盛に祈るが故に、ますます災いが起こるのであろう。そのうえ、名というものは本体を顕すものであるが、良観という謗法の聖人が鎌倉中の上下万人の師である。両火のうち一火は自身に留って極楽寺が焼けて地獄寺となった。また一火は鎌倉に飛んで御所を焼いた。また別の見方をすれは、一火は現世の国を焼くうえに、未来には日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて、阿鼻の炎にもえる先表である。愚癡の法師たちが智慧ある者の言を用いない結果は、このようなありさまである。まことに不便なことでる、不便まことである。このことについては先々お手紙を差し上げてあります。

 

第三章 馬の事を話される

 御馬()がい()て候へば、又ともびきしてくり()毛なる馬をこそまう()けて候へ。あはれあはれ見せまいらせ候はゞや。
   ところで馬を野飼いしておいたら、友引として栗毛の馬を儲けました。ぜひぜひあなたにお見せしたいものである。

 

第四章 名越尼について述べる

 名越の事は是にこそ多くの子細どもをば聞いて候へ。ある人のゆきあひて、理具の法門自讃しけるをさむざむにせめて候ひけると承り候。    名越の尼のことについてはこちらでも多くの子細を聞いている。ある人が尼にたまたま出会って、天台の理具の法門を自讃しているのを、散々に責めたと聞きました。

第五章 夫人の信心を説く

 又女房の御いの()りの事、法華経をば疑ひまいらせ候はねども、御信心やよは()くわたらせ給はんずらん。如法(にょほう)に信じたる様なる人々も、実にはさもなき事とも是にて見て候。それにも知ろしめされて候。まして女人の御心、風をばつな()ぐともとりがたし。御いのりの叶ひ候はざらんは、弓のつよ()くしてつる()よは()く、太刀つるぎ()にてつか(使)う人の臆病なるやうにて候べし。あへて法華経の御とが()にては候べからず。よくよく念仏と持斎とを我も()て、人をも力のあらん程はせかせ給へ。譬へば左衛門殿の人ににく()まるゝがごとしと、こまごま(細々)と御物語り候へ。いかに法華経を御信用ありとも、法華経のかたきをとわり(遊女)ほどにはよもおぼ()さじとなり。    また女房のお祈りの事は、法華経を疑ってはいないが、ご信心が弱くいらっしゃるのであろう。法の如くに信じている人のたちでも、実際はそれほどでもないと私は見ている。貴殿もそのことはご存知であろう。まして女人の心は、たとえ空を吹く風をつかまえることはできたとしても、それ以上にとらえにくいものである。祈りがかなわないというのは、ちょうど弓が強いのに弦が弱く、太刀や剣があっても使う人が臆病であるようなものである。決して法華経の失によるものではない。よくよく念仏と律宗を自分も捨て、力のあるかぎり他人をも念仏や律宗から離れさせてあげなさい。例えば左衛門殿が人に憎まれながらもその信仰をもっているように実践していきなさい。こまごまと話してあげなさい。いかに法華経を信じているとはいっても、法華経に敵対するものに対して、とわりほどには憎く思われていないだろうと思います。

 

第六章 「仏法流布の前後」を明かす

 一切の事は父母にそむ()き、国王にした()がはざれば、不孝の者にして天の()めをかうふ()る。
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たゞし法華経のかたき()になりぬれば、父母・国主の事をも用ひざるが孝養ともなり、国の恩を報ずるにて候。
   一切のことについて、父母に背き、国王に従わなければ、不孝不忠の者として天の責めを受けなければならない。
 ただし父母・主君が法華経の敵になった場合には、父母や国主の言葉を用いないことが孝養ともなり、国の恩を報ずることにもなるのである。
 されば日蓮は此の経文を見候ひしかば、父母手を()りてせい()せしかども、師にて候ひし人かんだう(勘当)せしかども、鎌倉殿の御勘気を二度までかほり、すでに頚となりしかども、ついにをそ()れずして候へば、今は日本国の人々も道理かと申すへんもあるやらん。日本国に国主・父母・師匠の申す事を用ひずして、ついに天のたす()けをかほる人は、日蓮より外は出だしがたくや候はんずらん。是より後も御覧あれ。日蓮をそし()法師原(ほっしばら)が、日本国を祈らば弥々(いよいよ)国亡ぶべし。結句()めの重からん時、上一人より下万民までも()ゞりを()かつやっこ()となり、ほぞ()をくうため()しあるべし。    故に日蓮は法華経の経文を見てからは、父母が手を合わせて止めたけれども、師匠であった人が勘当したけれども、また、鎌倉殿の御勘気を二度まで蒙り、すでに頸の座についたけれども、少しも恐れず信仰を貫いたので、いまでは日本国の人々も日蓮の言うことを道理かもしれないという人もあることであろう。日本国で国主・父母・師匠のいうことを用いないで、ついに天の助けを受けた人の例は日蓮よりほか出すことはできないであろう。これから後も見ていなさい。日蓮を謗る法師等が日本国の安泰を祈るなら、いよいよ国は亡ぶであろう。結局、重い責めにあった時には上一人より下万民にいたるまで弁髪の蒙古の奴隷となって、臍をかむ時がくるであろう。
 後生はさてをきぬ、今生に法華経の(かたき)となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天罰し給ひて皆人に()()りさせ給へと申しつけて候。日蓮法華経の行者にてあるなしは是にて御覧あるべし。    後生のことはさておいて、今生に法華経の敵となった人を罰して皆の人の見せしめとするようにと梵天・帝釈・日月・四天等に申しつけてある。日蓮が法華経の行者であるか否かはこの一事をもってごらんなさい。

 

第七章 御本仏の大慈悲を示す

 かう申せば国主等は此の法師のをど()すと思へるか。あへてにく()みては申さず。大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に()さしめんとなり。章安大師云はく「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。かう申すは国主の父母、一切衆生の師匠なり。事々多く候へども留め候ひぬ。又麦の白米一()はじかみ()送り給び候ひ了んぬ。
  卯月十二日    日蓮 花押
 四条金吾殿御返事
   このようにいえば国主等は日蓮が威すと思うであろうが大慈大悲の力で、未来に受けるであろう無間地獄の大苦を今生において消させたいためなのである。章安大師は「彼の為に悪を除くものは彼の親である」と。このように国主ならびに一切衆生の師匠である。ほかにも、申し上げたいことは多くあるが、ここで筆を留める。また麦の白米一駄、生姜を頂戴しました。
  建治元年乙亥卯月十二日    日蓮花押
 四条金吾殿御返事