南条殿御返事 建治二年閏三月二四日 五五歳
第一章 供養の品々の徳用を挙げる
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かたびら一、しをいちだ、あぶら五そう給び候ひ了んぬ。
ころもはかんをふせぎ、又ねつをふせぐ。みをかくし、みをかざる。法華経の第七やくわうほんに云はく「如裸者得衣」等云云。心ははだかなるものゝころもをへたるがごとし。もんの心はうれしき事をとかれて候。ふほうざうの人のなかに商那和衆と申す人あり。衣をきてむまれさせ給ふ。これは先生に仏法にころもをくやうせし人なり。されば法華経に云はく「柔和忍辱衣」等云云。こんろん山には石なし。みのぶのたけにはしをなし。石なきところには、たまよりもいしすぐれたり。しをなきところには、しをこめにもすぐれて候。国王のたからは左右の大臣なり、左右の大臣をば塩梅と申す。みそ・しをなければ、よわたりがたし。左右の臣なければ国をさまらず。あぶらと申すは涅槃経に云はく「風のなかにあぶらなし。あぶらのなかにかぜなし」と。風をぢする第一のくすりなり。
かたがたのものをくり給びて候。御心ざしのあらわれて候事申すばかりなし。せんずるところは、こなんでうどのゝ法華経の御しんようのふかゝりし事のあらわるゝか。王の心ざしをば臣のべ、をやの心ざしをば子の申しのぶるとはこれなり、あわれことのゝうれしとをぼすらん。
第二章 大橋の太郎と子息の故事を引く
つくしにをゝはしの太郎と申しける大名ありけり。大将どのの御かんきをかほりて、かまくらゆいのはま、つちのろうにこめられて十二年。めしはじめられしとき、つくしをうちいでしに、ごぜんにむかひて申せしは、ゆみやとるみとなりて、きみの御かんきをかほらんことはなげきならず。又ごぜんにをさなくよりなれしが、いまはな
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れん事いうばかりなし。これはさてをきぬ。なんしにてもにょしにても、一人なき事なげきなり。たゞしくわいにんのよしかたらせ給ふ。をうなごにてやあらんずらん、をのこゞにてや候はんずらん。ゆくへをみざらん事くちをし、又かれが人となりて、ちゝというものもなからんなげき、いかゞせんとをもへども力及ばずとていでにき。
かくて月ひすぐれば、ことゆへなく生まれにき。をのこゞにてありけり。七才のとしやまでらにのぼせてありければ、ともだちなりけるちごども、をやなしとわらひけり。いへにかへりてはゝにちゝをたづねけり。はゝのぶるかたなくして、なくより外のことなし。此のちご申す、天なくしては雨ふらず、地なくしてはくさをいず。たとい母ありとも、ちゝなくばひとゝなるべからず。いかに父のありどころをばかくし給ふぞとせめしかば、母せめられて云はく、わちごをさなければ申さぬなり。ありやうはかうなり。此のちごなくなく申すやう、さてちゝのかたみはなきかと申せしかば、これありとて、をゝはしのせんぞの日記、ならびにはらの内なる子にゆづれる自筆の状なり。いよいよをやこひしくて、なくより外の事なし。さていかゞせんといゐしかば、これより郎従あまたともせしかども、御かんきをかほりければみなちりうせぬ。そののちはいきてや、又しにてや、をとづるゝ人なしとかたりければ、ふしころびなきて、いさむるをももちゐざりけり。はゝいわく、をのれをやまでらにのぼする事は、をやのけうやうのためなり。仏に花をもまいらせよ、経をも一巻よみて孝養とすべしと申せしかば、いそぎ寺にのぼりていええかへる心なし。昼夜に法華経をよみしかば、よみわたりけるのみならず、そらにをぼへてありけり。はゝいわく、をのれをやまでらにのぼする事は、をやのけうやうのためなり。仏に花をもまいらせよ、経をも一巻よみて孝養とすべしと申せしかば、いそぎ寺にのぼりていええかへる心なし。昼夜に法華経をよみしかば、よみわたりけるのみならず、そらにをぼへてありけり。
さて十二のとし、出家もせずしてかみをつゝみ、とかくしてつくしをにげいでて、かまくらと申すところへたづねいりぬ。八幡の御前にまいりてふしをがみ申しけるは、八幡大菩薩は日本第十六の王、本地は霊山浄土、法華経をとかせ給ひし教主釈尊なり。衆生のねがいをみて給はんがために神とあらわれさせ給ふ。今わがねがいみ
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てさせ給へ。をやは生きて候か、しにて候かと申して、いぬの時より法華経をはじめて、とらの時までによみければ、なにとなくをさなきこへほうでんにひゞきわたり、こゝろすごかりければ、まいりてありける人々も、かへらん事をわすれにき。皆人いちのやうにあつまりてみければ、をさなき人にて法師ともをぼえず、をうなにてもなかりけり。をりしもきやうのにゐどの御さんけいありけり。人めをしのばせ給ひてまいり給ひたりけれども、御経のたうとき事つねにもすぐれたりければ、はつるまで御聴聞ありけり。さてかへらせ給ひてをはしけるが、あまりなごりのをしさに人をつけてをきて、大将殿へかゝる事ありと申させ給ひければ、めして持仏堂にして御経よませまいらせ給ひけり。
さて次の日、又御聴聞ありければ、西のみかど人さわぎけり。いかなる事ぞときゝしかば、今日はめしうどのくびきらるゝとのゝしりけり。あわれ、わがをやはいままで有るべしとはをもわねども、さすが人のくびをきらるゝと申せば、我が身のなげきとをもひてなみだぐみたりけり。大将殿あやしとごらんじて、わちごはいかなるものぞ、ありのまゝに申せとありしかば、上くだんの事一々に申しけり。をさぶらひにありける大名小名、みすの内、みなそでをしぼりけり。大将殿かぢわらをめしてをほせありけるは、大はしの太郎というめしうどまいらせよとありしかば、只今くびきらんとて、ゆいのはまへつかわし候ひぬ。いまはきりてや候らんと申せしかば、このちご御まへなりけれども、ふしころびなきあげり。をゝせのありけるは、かぢわらわれとはしりて、いまだ切らずばぐしてまいれとありしかば、いそぎいそぎ、ゆいのはまへはせゆく。いまだいたらぬによばわりければ、すでに頚切らんとて、刀をぬきたりけるときなりけり。
さてかぢわらをゝはしの太郎を、なわつけながらぐしまいりて、をゝにはにひきすへたりければ、大将殿このちごにとらせよとありしかば、ちごはしりをりて、なわをときけり。大はしの太郎はわが子ともしらず、いかな
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る事ゆへにたすかるともしらざりけり。さて大将殿又めして、このちごにやうやうの御ふせたびて、をゝはしの太郎をたぶのみならず、本領をも安堵ありけり。大将殿をほせありけるは、法華経の御事は、昔よりさる事とわきゝつたへたれども、丸は身にあたりて二つのゆへあり。一つには故親父の御くびを、大上入道に切られてあさましともいうばかりなかりしに、いかなる神仏にか申すべきとをもいしに、走湯山の妙法尼より法華経をよみつたへ、千部と申せし時、たかをのもんがく房、をやのくびをもて来てみせたりし上、かたきを打つのみならず、日本国の武士の大将を給ひてあり。これひとへに法華経の御利生なり。二つにはこのちごがをやをたすけぬる事不思議なり。大橋の太郎というやつは、頼朝きくわいなりとをもう。たとい勅宣なりともかへし申して、くびをきりてん。あまりのにくさにこそ、十二年まで土のろうには入れてありつるに、かゝる不思議あり。されば法華経と申す事はありがたき事なり。頼朝は武士の大将にて、多くのつみつもりてあれども、法華経を信じまいらせて候へば、さりともとこそをもへとなみだぐみ給ひけり。
第三章 時光の孝養の志を称える
今の御心ざしみ候へば、故なんでうどのはたゞ子なれば、いとをしとわをぼしめしけるらめども、かく法華経をもて我がけうやうをすべしとはよもをぼしたらじ。たとひつみありて、いかなるところにをはすとも、この御けうやうの心ざしをば、えんまほうわう・ぼんてん・たひしゃくまでもしろしめしぬらん。釈迦仏・法華経もいかでかすてさせ給ふべき。かのちごのちゝのをなわをときしと、この御心ざしかれにたがわず。これはなみだをもちてかきて候なり。
第四章 蒙古襲来の必至を示し信心を勧む
又むくりのをこれるよし、これにはいまだうけ給はらず。これを申せば、日蓮房はむくり国のわたるといへばよろこぶと申す。これゆわれなき事なり。かゝる事あるべしと申せしかば、あだかたきと人ごとにせめしが、経文かぎりあれば来たるなり。いかにいうともかなうまじき事なり。失もなくして国をたすけんと申せし者を用ひ
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てこそあらざらめ。又法華経の第五の巻をもて日蓮がおもてをうちしなり。梵天・帝釈是を御覧ありき。鎌倉の八幡大菩薩も見させ給ひき。いかにも今は叶ふまじき世にて候へば、かゝる山中にも入りぬるなり。各々も不便とは思へども、助けがたくやあらんずらん。よるひる法華経に申し候なり。御信用の上にも力もをしまず申させ給へ。あえてこれよりの心ざしのゆわきにはあらず。各々の御信心のあつくうすきにて候べし。たいしは日本国のよき人々は一定いけどりにぞなり候はんずらん。あらあさましや、あらあさましや。恐々謹言。
後三月廿四日 日蓮 花押
南条殿御返事