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(★958㌻) 去ぬる文永八年太歳辛未九月のころより御勘気をかほりて、北国の海中佐渡の島にはなたれしかば、なにとなく相州鎌倉に住みしには、生国なれば安房国はこひしかりしかども、我が国ながらも、人の心もいかにとや、むつびにくゝありしかば、常には行きかよふ事もなくしてすぎしに、御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、しばらく国の外にはなたれし上は、をぼろけならではかまくらへはかへるべからず。かへらずば又父母のはかをみる身となりがたしとおもひつゞけしかば、いまさらとびたつばかりくやしくて、などかかヽる身とならざりし時、日にも月にも海をもわたり、山をもこえて父母のはかをもみ、師匠のありやうをもとひ、をとづれざりけんとなげかしくて、彼の蘇武が胡国に入りて十九年、かりの南へとびけるをうらやみ、仲丸が日本国の朝使としてもろこしにわたりてありしが、かへされずしてとしを経しかば、月の東に出でたるをみて、我が国みかさの山にも此の月は出でさせ給ひて、故里の人も只今月に向かひてながむらんと、心をすましてけり。 |
去る文永八(1271)年九月のころから御勘気を蒙って北国の佐渡ヵ島へ放逐されてしまった。なんとなく相州・鎌倉に住んでいたときは、故郷であるから安房の国は恋しかったけれども、安房の国は自分の国でありながら人の心も、どういうわけか親しみにくかったので、平素は往き来することもなく過ごしてしまった。だが、このように御勘気の身となって、死罪となるべきであったのが、減刑になって、さしあたり国外へ追放されてしまった以上は、特別なことでもなければ鎌倉に帰れそうにもない。帰れなければ再び父母の墓に参る身となり難い、と思い続けていたので、今更のように飛び立つばかりに悔しく、どんなに苦労しても父母の墓へも参り、師匠の様子をも、問い訪ねなかったのかと、嘆かわしく思っていた。かの蘇武が皇帝の命を受けて胡国に使いをしたまま捕られて、十九年の間、不自由な生活を送り、そのとき、雁が南へ飛ぶのを見ては、うらやましく思い、また仲丸が日本国の朝廷の使いとして唐へ渡ったが、そのまま帰国が許されずに、年を経、月が東に出たのを見ては、日本のみかさの山にもこの月は出て、ふるさとの人々も今、おなじこの月をながめているだろうと思った。そのような心境で日蓮は佐渡の地で心を澄ましていた。 |
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(★959㌻) 此もかくをもひやりし時、我が国より或人のびんにつけて衣をたびたりし時、彼の蘇武がかりのあし、此は現に衣あり。にるべくもなく心なぐさみて候ひしに、日蓮はさせる失あるべしとはをもはねども、此の国のならひ、念仏者と禅宗と律宗と真言宗にすかされぬるゆへに、法華経をば上にはたうとむよしをふるまひ、心には入らざるゆへに、日蓮が法華経のいみじきよし申せば、威音王仏の末の末法に、不軽菩薩をにくみしごとく、上一人より下万人にいたるまで、名をもきかじ、まして形をみる事はをもひよらず。さればたとひ失なくとも、かくなさるヽ上はゆるしがたし。ましていわうや日本国の人の父母よりもをもく、日月よりもたかくたのみたまへる念仏を無間の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頚をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給ひたりと申すほどの大禍ある身なり。此等程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は、設ひそらごとなりとも此の世にはうかびがたし。いかにいわうやこれはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかにとがに行なはるとも申しやむまじきよし、したゝかにいゐきかせぬ。されば大海のそこのちびきの石はうかぶとも、天よりふる雨は地にをちずとも、日蓮はかまくらへは還るべからず。 |
今、日蓮も流罪の地・佐渡の国で彼等のように故郷のことを思い遣っていたとき、故郷からある人の便宜に託して衣服を贈られたとき、かの蘇武が得たのはわずか雁の足に巻きつけた帛書のみであったのに、日蓮は現に衣を贈られて、蘇武の喜びには比較にならないほどうれしく思った。日蓮はこれという失があるとは思わないが、日本の国の人々の常として念仏者と禅宗と律宗と真言宗に騙されてしまったがゆえに、法華経を表面上は尊んでいるように振舞いながら、心では信じていないから日蓮が、法華経が勝れた教えであるといえば、ちょうど威音王仏の像法の末の末法に、いっさいの四衆が不軽菩薩を憎んだように、上一人より下万人にいたるまで、日蓮の名を聞くまいとして、まして姿を見ることなどとんでもないと憎む者ばかりである。 であるから、たとえ失はなくても、このように佐渡まで流されてしまったからには、そう簡単に赦されるはずがない。まして日本国の人々が父母よりも重く日月よりも高く信じている念仏者を無間の業といい、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法であるから、念仏者・禅宗・律僧等の寺をば焼き払い、念仏者どもの首を刎ねるべきであると申すうえ、事実無根の讒言ではあるが故最明寺入道時頼・極楽寺入道重時の二人の入道殿は、無間地獄に堕ちたといったほどの大罪ある身である。これほどの大事を上下万人に言明した以上は、たとえそれが虚事であっても、再びこの世にはうかびがたい。 ましてや、これは日蓮が朝となく夕となくいい、昼となく夜となく万民に語り続けたうえ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に説得し、どのような科に処せられようとも、これは止めることはできない旨を、強くいい聞かせた。それ故、大海の底の、千人で引かなければ動かない大石がたとえ浮かび上がることがあろうとも、天から降る雨が地に落ちないことはあろうとも、日蓮は二度と再び鎌倉へ帰ることはできないのである。 |
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但し法華経のまことにおはしまし、日月我をすて給はずば、かへり入りて又父母のはかをもみるへんもありなんと、心づよくをもひて、梵天・帝釈・日月・四天はいかになり給ひぬるやらん。天照大神・正八播宮は此の国にをはせぬか。仏前の御起請はむなしくて、法華経の行者をばすて給ふか。もし此の事叶はずば、日蓮が身のなにともならん事はをしからず。各々現に教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前にして誓状を立て給ひしが、今日蓮を守護せずして捨て給ふならば正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるか。十方三世の諸仏をたぼらかし奉れる御失は提婆達多が大妄語にもこへ、瞿伽利尊者が虚誑罪にもまされり。 |
ただし法華経の教えが真実であり、日天・月天が日蓮を捨てないならば鎌倉へ帰り、再び父母の墓へ参ることもあろうと心強く思って法華経の行者を守護すべき梵天・帝釈・日月・四天はどうしたのであるのか、日本の守護神である天照太神・正八幡宮は日本国にいないのか、仏前の御起請は空言であって、法華経の行者を捨て給うのか、もしこのことが叶わなければ日蓮の身がどうなっても惜しくはないが、現に教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前で、法華経の行者を守護するという誓状を立てたのに、今日蓮を守護しないで捨てられるならば、正直捨方便の法華経に大妄語を加えることになる。それならば十方三世の諸仏を欺いた罪は、提婆達多の大妄語以上であり、瞿伽利尊者が虚誑罪よりも重い。 |
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(★960㌻) 設ひ大梵天として色界の頂に居し、千眼天といはれて須弥の頂におはすとも、日蓮をすて給ふならば、阿鼻の炎にはたきゞとなり、無間大城をばいづるごおはせじ。此の罪をそろしくおぼせば、そのいはれありといそぎいそぎ国にしるしをいだし給へ、本国へかへし給へと高き山にのぼりて大音声をはなちてさけびしかば、九月の十二日に御勘気、十一月に謀反のものいできたり、かへる年の二月十一日に、日本国のかためたるべき大将どもよしなく打ちころされぬ。天のせめという事あらはなり。此にやをどろかれけん、弟子どもゆるされぬ。 |
たとえ大梵天として色界の頂上に住み、千眼天といわれ須弥山の頂上に居ても、日蓮を捨てるならば、阿鼻地獄の炎を増す薪となり、永久に無間大城を出るときはない。この罪が恐ろしいと思うならば、急いで日本の国に現証を顕わして、日蓮を本国に帰しなさいと高い山に登って大音声を叫んだので、九月の十二日に御勘気を蒙って、まもないその年の十一月にはすでに謀反のものが現われ、翌年の二月十一日に日本国を守護すべき大将達が、いわれもなく討ち殺された。これは諸天の責めであることが明らかである。幕府はこれに驚いたのであろう。鎌倉の牢獄につながれていた日蓮の弟子達は釈放されたのである。 |
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而れどもいまだゆりざりしかば、いよいよ強盛に天に申せしかば、頭の白き烏とび来たりぬ。彼の燕のたむ太子の馬、烏のれい、日蔵上人の「山がらすかしらもしろくなりにけり、我がかへるべき時や来ぬらん」とながめし此なりと申しもあへず。文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日に国を立ちてまうらというつにをりて、十四日はかのつにとゞまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつにつくべきが、大風にはなたれ、さいわひにふつかぢをすぎて、かしはざきにつきて、次の日はこうにつき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入り、同じき四月八日に平左衛門尉に見参す。本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。 |
しかしながら、弟子は許されても日蓮はまだ許されなかったので、いよいよ強盛に諸天に申し聞かせたところが、頭の白い烏が飛んで来た。昔、燕の国の丹太子が秦の国の人質となったとき、馬に角がはえ、烏の頭が白くなったことから秦王は丹を帰した例もあり、また日蔵上人が白頭の烏が飛来するのを見て「山がらす・かしらもしろく・なりにけり、我がかへるべき・時やきぬらん」と詠んだことなどを思い合わせて、日蓮の帰るべきも来たのだと話しているところに文永十一年二月十四日の御赦免状が同三月八日に佐渡の国に到着した。同十三日に佐渡の一の谷を出発して真浦の港に出て、十四日はそこに泊って、同じく十五日に越後の寺泊に着く予定であったが、大風のために、それを背にうけて運よくわずか二日の舟旅で柏崎に着いて、次の日は国府に着き、中十二日かかつて三月二十六日に鎌倉に入った。同じく四月八日に平左衛門尉に対面した。本より深く心に期していたことなので、日本の国の亡びるのを助けんがために、三度目の国家諌暁をした。だが、もしこれが用いられなかったならば、「三度諌めても用いずば国を出て山林に交わる」との古賢の例を心得ていたので、それにならい、同五月十二日に鎌倉を出発したのである。 |
| 但し本国にいたりて今一度、父母のはかをもみんとをもへども、にしきをきて故郷へはかへれという事は内外のをきてなり。させる面目もなくして本国へいたりなば、不孝の者にてやあらんずらん。これほどのかたかりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入る身なれば、又にしきをきるへんもやあらんずらん。其の時、父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹く風・立つくもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立ちてみるなり。 | ただし、本国に帰って、今一度故郷の父母の墓へ参りたいと思うけれども、錦をきて故郷へ帰れということは、内道・外道のしきたりである。これという面目もないまま帰るならば、それは不孝の者ではなかろうか。だが、これほど困難におもわれた佐渡赦免さえもその壁が破れ鎌倉へ入った身であるから、また錦をきる時もあることであろう。そのときは父母の墓も参ろうと、深く思うゆえに、いまだに故郷には帰らないけれども、さすがに故郷が恋しく、吹く風・立つ雲までも、東の方からというと庵を出でてその風に身を触れ、また庭に立ってその雲を見ていたのである。 | |
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(961㌻) かゝる事なれば、故郷の人は設ひ心よせにおもはぬ物なれども、我が国の人といへばなつかしくてはんべるところに、此の御ふみを給びて、心もあらずしていそぎいそぎひらきてみ候へば、をとヽしの六月の八日に、いや四郎にをくれてとかゝれたり。御ふみもひろげつるまではうれしくて有りつるが、今、此のことばをよみてこそ、なにしにかいそぎひらきけん。うらしまが子のはこなれや、あけてくやしきものかな。 |
このようなありさまであるから、故郷の人といえば、たとえ自分をこころよく思っていない者であっても、安房の国の人であるといえば、懐かしく思われるところに、尼御前からのこの手紙を受け取り、心もうわのそらに、急ぎ急ぎ開いて拝見したところが「一昨年の六月八日に子の弥四郎に先立たれて」と書かれてあった。手紙も開く前まではうれしかったが、今このように急いで、この手紙を開いてしまったのであろうかと、浦島太郎の玉手箱のように開けたのを悔いたのである。 |
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我が国の事は、うくつらくあたりし人のすへまでも、をろかならずをもうに、ことさら此の人は形も常の人にはすぎてみへし上、うちをもひたるけしきかたくなにもなしとみしかども、をりしも法華経のみざなれば、しらぬ人々あまたありしかば、言もかけずありしに、経はてさせ給ひて皆人も立ちかへる。此の人も立ちかへりしが、使ひを入れて申せしは、安房国のあまつと申すところの者にて候が、をさなくより御心ざしをもひまいらせて候上、母にて候人もをろかならず申し、なれなれしき申し事にて候へども、ひそかに申すべき事の候。さきざきまひりて次第になれまいらせてこそ、申し入るべきに候へども、ゆみやとる人にみやづかひてひま候はぬ上、事きうになり候ひぬる上は、をそれをかへりみず申すと、こまごまときこえしかば、なにとなく生国の人なる上、そのあたりの事は、はゞかるべきにあらずとて入れたてまつりて、こまごまとこしかたゆくすへかたりて、のちには世間無常なり、いつと申す事をしらず。其の上、武士に身をまかせたる身なり。又ちかく申しかけられて候事のがれがたし。さるにては後生こそをそろしく候へ、たすけさせ給へときこへしかば、経文をひいて申しきかす。彼のなげき申せしは、父はさてをき候ひぬ、やもめにて候はわをさしをきて、前に立ち候はん事こそ不孝にをぼへ候へ。もしやの事候ならば、御弟子に申しつたへて給び候へと、ねんごろにあつらへ候ひしが、そのたびは事ゆへなく候ひけれども、後にむなしくなる事のいできたりて候ひけるにや。 |
故郷の安房の国のことならば、日蓮に冷たく士打ちをしていた将来のことまでも疎略には思わない。とくにこの人の姿、態度は普通の人よりも勝れてみえ、考え方も頑固でないように見えたけれども、なんといっても法華経を講じている席でのこととて、知らない人々も数多く居たので言葉もかけなかったが、講義が終わって皆人々は立ち帰った。この人も立ち帰ったが、使いを日蓮のもとへ寄こして申すには「自分は安房の国の天津というところに住んでいる者ですが、幼少のときから、大聖人の御志を慕っております上、母もまた大聖人のことを疎略には申しておりません。ずうずうしいお願いではありますが、密かに申し上げたいことがございます。もっと先へいって次第にお見知りいただいてから申し上げるべきですが、弓矢とる人の側近に仕えていて暇がない上、事が急になりましたので、非礼を顧みず申し上げます」とこまごまと申してきたので、なにぶんにも故郷の人であるから、そのくらいのことは遠慮することはないと招き入れました。するとこまごまと今日までの経過と今後のことなどを語ってのち「世間は無常です。いつ死なないとも限りません。その上私は武士として仕えている身です。しかも申しかけられたことは遁れることはできません。それにつけても後生が恐ろしく思われてなりません。どうかお助け下さい」と申したので経文を引いて申し聞かせた。 弥四郎殿が嘆いていうのには「父はすでに亡くなったのでさておいて、未亡人である母をさしおいて先立つことは、不幸に思えてなりません。自分にもしやのことがあったならば、私が大聖人の御指導をいただいて後世の備えをしてから死んだということをお弟子を通して母へお伝え下さい」と丁寧に依頼してきたが、そのときはなに事もなかったけれども、そののち死なねばならぬような事件が起きたのであろうか。 |
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人間に生をうけたる人、上下につけてうれへなき人はなけれども、時にあたり、人々にしたがひて、なげきしなじななり。 (★962㌻) |
人間に生を受けた人は、上より下まで、憂患のない人はいないけれども、時にあたり、その人その人にしたがってそのなげきは区々である。 | |
| 譬へば病のならひは何れの病も重くなりぬれば、是にすぎたる病なしとをもうがごとし。主のわかれ、をやのわかれ、夫妻のわかれ、いづれかおろかなるべき。なれども主は又他の主もありぬべし。夫妻は又かはりぬれば、心をやすむる事もありなん。をやこのわかれこそ月日のへだつるまゝにいよいよなげきふかゝりぬべくみへ候へ。をやこのわかれにも、をやはゆきて子はとゞまるは、同じ無常なれどもことはりにもや。をひたるはわはとゞまりて、わかき子のさきにたつはなさけなき事なれば、神も仏もうらめしや。いかなれば、をやに子をかへさせ給ひてさきにはたてさせ給はず、とゞめをかせ給ひて、なげかさせ給ふらんと心うし。心なき畜生すら子のわかれしのびがたし。竹林精舎の金鳥は、かひこのために身をやき、鹿野苑の鹿は、胎内の子ををしみて王の前にまいれり。いかにいわうや心あらん人にをいてをや。されば王陵が母は子のためになづきをくだき、神尭皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ給ひき。此等ををもひつゞけさせ給はんには、火にも入り、頭をもわりて、我が子の形をみるべきならば、をしからずとこそおぼすらめと、をもひやられてなみだもとゞまらず。 |
たとえば病気のならいとして、どんな病気も重くなると、これ以上の重病はない、と思うようなものである。主人との別れ、親との別れ、夫妻の別れ、いずれが劣る嘆きはないけれども主人との別れにはまた他の主人に仕えることもあろう。夫婦の場合はまたかわりのひとを得れば心を安めることもできよう。だが親子の別れだけは月日が経つほどにいよいよ嘆きが深くなっていくのもとみえる。また親子の別れでも、親が先に亡くなって子供が生き残るのは、同じ無常であっても自然の道理であろう。だが年老いた母が生き残って若き子が先だったのは、余りに情けない事なので、神も仏もうらめしい。どうして、親と子をかえて、親の方を先立せずにこの世に留め置いて、嘆かされるのであろうかと実につらいことである。心ない畜生でさえも、子との別れには堪え難いものである。竹林精舎の金鳥は卵を守るために焼け死に、鹿野苑の鹿は胎内の子の命を惜しんで身代りに狩りにきた王の前に出た。ましてや心ある人間においてはなおさらのことである。それゆえ漢の王陵の母は、子のために頭を砕いて死に、唐の神尭皇帝の后は、胎内の太子のために腹を破った。これらのことを思い続けていたならば、たとえ火の中に入ろうとも頭をも割ってわが子の姿を見ることができるならば、惜しくはないと思われることであろうと、その心中が察せられて涙がとまらない。 |
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又御消息に云はく、人をもころしたりし者なれば、いかやうなるところにか生まれて候らん、をほせをかほり候はんと云云。夫、針は水にしずむ。雨は空にとゞまらず。蟻子を殺せる者は地獄に入り、死にかばねを切れる者は悪道をまぬかれず。何に況んや人身をうけたる者をころせる人をや。但し大石も海にうかぶ、船の力なり。大火もきゆる事、水の用にあらずや。小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ。所謂、粟をつみたりし比丘は、五百生が間牛となる。瓜をつみし者は三悪道に堕ちにき。羅摩王・抜提王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝王・毘舎佉王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人の諸王は、皆父を殺して位につく。善知識にあはざれば罪きへずして阿鼻地獄に入りにき。波羅奈城に悪人あり、其の名をば阿逸多という。母をあひせしゆへに父を殺し妻とせり。父が師の阿羅漢ありて教訓せしかば阿らかむを殺す。 (★963㌻) 母又、他の夫にとつぎしかば、又母をも殺しつ。具に三逆罪をつくりしかば、隣里の人うとみしかば一身たもちがたくして、祇洹精舎にゆいて出家をもとめしに、諸僧許さゞりしかば、悪心強盛にして多くの僧坊をやきぬ。然れども釈尊に値ひ奉りて出家をゆるし給ひにき。北天竺に城あり、細石となづく。彼の城に王あり、竜印という。父を殺してありしかども、後に此をおそれて彼の国をすてゝ仏にまいりたりしかば、仏懺悔を許し給ひき。 |
また御手紙には「弥四郎は人を殺した者であるから、後生はどのようなところに生まれるのでしょうか。どうかお教え願います」等と書かれていた。 針は必ず水に沈み、雨は空にとどまっていることがないように、また、蟻子を殺した者は地獄に堕ち、屍を切った者でさえ、悪道に堕ちることを免れない。ましてや人身を受けた者を殺した人はなおさらのことである。ただし大石も海に浮かぶ、それは船の力による。大火も消えるのは水の働きではないか。同じ道理で小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える。 いわゆる過去世に粟を盗んだ比丘は五百生の間・牛に生まれ、菰を摘んだ者は三悪道に堕ちた。また羅摩王・抜提王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝王・毘舎怯王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人のインド古代の諸王は皆その父を殺して位についたが、善知識にあわなかったため懺悔することがなかったので罪が消えず阿鼻地獄に堕ちたのである。 波羅奈城に悪人がいた。その名を阿逸多といった。母を愛したために、父を殺して妻とした。父の師の阿羅漢がいて、誡めたところがその阿羅漢を殺した。母がまた他の男と関係したので母をも殺してしまった。つぶさに三逆罪を犯したので近隣の人にいみきらわれ、身の置きところがなくなって、祇洹精舎に行き、出家を願ったが、諸僧が許さなかったのでさらに悪心強盛にになって多くの僧坊を焼いてしまった。しかしながら、釈尊に値って出家を許されたのである。 また北インドに城があって細石といい、その城に竜印という王がいた。かつて父を殺したのであったが、のちにこのことを恐れて国を捨てて仏のもとに行ったので、仏は懺悔を許されたのである。 |
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| 阿闍世王はひとゝなり三毒熾盛なり、十悪ひまなし。其の上父をころし、母を害せんとし、提婆達多を師として無量の仏弟子を殺しぬ。悪逆のつもりに、二月十五日仏の御入滅の日にあたりて無間地獄の先相に、七処に悪瘡出生して玉体しづかならず。大火の身をやくがごとく、熱湯をくみかくるがごとくなりしに、六大臣まいりて六師外道を召されて、悪瘡を治すべきやう申しき。今の日本国の人々の、禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのみて蒙古国を調伏し、後生をたすからんとをもうがごとし。其の上、提婆達多は阿闍世王の本師なり。外道の六万蔵、仏法の八万蔵をそらにして、世間・出世のあきらかなる事、日月と明鏡とに向かふがごとし。今の世の天台宗の碩学の顕密二道を胸にうかべ、一切経をそらんぜしがごとし。此等の人々諸の大臣並びに、阿闍世王を教訓せしかば、仏に帰依し奉る事なかりし程に、摩竭提国に天変度々かさなり、地夭しきりなる上、大風・大旱ばつ・飢饉・疫癘ひまなき上、他国よりせめられて、すでにかうとみえしに、悪瘡すら身に出でしかば、国土一時にほろびぬとみえし程に、俄かに仏前にまいり、懺悔して罪きえしなり。 |
阿闍世王は生まれつき貪瞋癡の三毒が熾盛で、十悪を犯しつづけた。そのうえ、父を殺し母をも殺そうとし、提婆達多を師として無量の仏弟子を殺した。こうした悪逆が積もった果に二月十五日、ちょうど仏の御入滅の日にあたって無間地獄に堕ちる先相として七箇所に悪瘡ができ、身体はもはや安穏ではなかった。その苦しみは大火に身を焼かれるようであり、熱湯を汲み浴びるようであったので、六大臣が参上して六師外道を召されて悪瘡を治されるように言上したのである。ちょうど今の日本国の人々が禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのんで蒙古国を調伏し後生を助かろうと思うのとおなじである。またそのうえ、提婆達多は阿闍世王の本師である。提婆達多は外道の六万蔵、仏法の八万蔵を諳んじて、世間の学問と、出世間の仏法の事については、明るいこと日月と明鏡とに向かうようであった。それはあたかも今の世の天台宗の大学者といわれる徒輩が顕密二道を胸にうかべ一切経を諳んじたのと同じである。 これらの提婆達多や邪見の六師外道や諸の大臣達が阿闍世王を指導していたので阿闍世王は仏に帰依しなかったのである。ところが摩竭提国に天変・度々起こり、地夭しきりであるうえ、大風・大旱魃・飢饉・疫癘が絶え間なく発生したうえに他国から攻められて、事態が悪化してゆくばかりか、悪瘡すら王の身に出て、国土は一時に亡びるかにみえたとき、王もにわかに改心し、仏の前にきて、懺悔したのでその罪は消えたのである。 |