大白法・平成9年3月1日刊(第473号より転載)御書解説(047)―背景と大意
本抄は、建治二(1276)年三月三十日、大聖人様が五十五歳の時、身延の地より富木常忍に対して与えられた御抄です。御真筆は中山の法華経寺にあります。
対告衆
富木殿は、下総国葛飾郡八幡荘若宮に住み、幕府の有力御家人、千葉氏に仕えていた武士と伝えられています。正式には、因幡国富城荘の領主であったことから、富城五郎常忍(つねのぶ)と称していましたが、「富木」とも「土木」とも称し、名も入道して「常忍」(じょうにん)と改称し、更にその後には、「日常」と名乗っていたことが『富士一跡門徒存知事』等から知ることができます。
大聖人様は『富城殿女房尼御前御書』に、
「むかしはことにわびしく候ひし時より、やしなわれまいらせて候へば、ことに
と述懐されていることからも、富木殿とはかなり早い時期からの知り合い、あるいは縁者であったことが拝察できます。そして、大聖人様が立宗宣言あそばされてからも、熱烈なる信者として、伊豆や佐渡への御配流の時にも変わらぬ信仰と外護を貫きました。
また、自邸の法華堂を中心に弘教に励み、弘安元(1278)年には、当時天台宗の寺であった真間の弘法寺を改宗させました。さらにまた、門下を代表して大聖人様より『観心本尊抄』や『四信五品抄』などの重要な御書の数々を賜り、それを後世にまで厳護するよう命じられたのです。
建治二年二月下旬に、富木殿の母が九十歳という長寿を
富木殿は、正安元(1299)年三月二十日に八十四歳で亡くなっていますから、この時は六十一歳でした。
大聖人様の御尊顔を拝し、
はじめに、大聖人様は古今内外の有名な物忘れの例を挙げ、
「今
と
すなわち、三千塵点劫・五百塵点劫の輩は、過去の下種を忘れたがために貧苦に堕したこと、今の邪宗教の人たちは仏の本意を忘失しているが故に、必ず未来に地獄に堕ちることを示され、さらに『法華経』をもととする天台宗の人々が、『法華経』の説の如くに折伏弘教する日蓮を誹謗し、逆に『法華経』の敵である念仏者等を助けるような姿は、一番物忘れの激しい人たちであって、師敵対の大謗法であり、自殺行為であると示されています。
次に富木殿が、国中が
まず第一に、富木殿に忘れ物を届けるにあたって、それに関する様々なエピソードを紹介し、富木殿を「日本第一の好く忘るゝ仁か」という、大変ユーモアあふれる書き出しで始まっているところに、大聖人様と富木殿の間柄を知ることができます。また、富木殿もこの書をご覧になって、思わぬ失態に恥じ入られながらも、大聖人様の温かい心に接し、益々信心に励まれたことでしょう。私たちも、このように相手の心を思いやりながら、心の交流を図っていくことが大切です。
次に、私たちが信仰の上で絶対に忘れてはならない下種ということについて述べられています。すなわち、
「
との御教示は、仏様が私たちに下種されるのは一切衆生を救済するためであり、皆仏様の子であることを示すためです。その仏様の慈悲と本意を忘れ、下種を捨て仏様から離れていくことは不知恩の極みであり、成仏からも遠ざかることになるのです。
末法の今日における下種の教主とは、大聖人様でありますから、大聖人様を主師親三徳有縁の御本仏様と拝してその教えにしたがい、純粋に仏道修行に励むことが時に適った信心であり、これよりほかに私たちが成仏する道はないのです。
次に、元来その本地が等覚・妙覚に位し、
次に、富木殿の日常生活の一端を示された御文があります。
「
この一節は、現在のサラリーマンの姿と少しも変りません。富木殿も私たちと同じく宮仕えをしながら信仰していたのです。私たちも信仰と仕事を両立させながら、立派な信仰者に成長していかなければなりません。その意味では大変に勇気づけられる一節であると言えましょう。
次に、当時の登山の様子や世相を知ることができます。
「国々皆
このような状況であるにもかかわらず、大聖人様にお会いしたい一心で登山された富木殿の求道心は、私たちの信心の鑑です。
続いて、大聖人様は親への孝養として、
「我が
と仰せられています。釈尊が悟りを開かれたときには、すでに母親は死去しており、また目連が餓鬼道に堕ちた母を救ったのは
この御書では、富木殿が大切な持経を忘れられたことから、「忘れてはならないもの」ということが一つのテーマになっています。私たちも、一番大切な大聖人様との約束を忘れることがないよう常に気を引き締め、折伏・再折伏に邁進することが肝要です。
「依法不依人」の御金言と、「よき師・よき法・よき檀那」の三つが