松野殿御消息 建治二年二月一七日 五五歳

 

第一章 法華経を持つ男女の位を明かす

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 (こう)()()・種々の物送り()び候。
 法華経第七の巻薬王品に云はく「衆星の中に月天(がってん)()最も為れ第一なり。此の法華経も亦復(またまた)()くの如し。千万(のく)種の諸の経法の中に於て最も為れ照明なり」云云。文の意は()(くう)の星は或は半里、或は一里、或は八里、或は十六里なり。天の満月輪は八百里にてをはします。華厳経六十巻或は八十巻、般若経六百巻、方等(ほうどう)経六十巻、涅槃経四十巻・三十六巻、大日経、金剛(こんごう)(ちょう)()(しっ)()経、(かん)(ぎょう)、阿弥陀経等の無量無辺の諸経は星の如し、法華経は月の如しと説かれて候経文なり。此は竜樹菩薩・()(じゃく)菩薩・天台大師・(ぜん)無畏(むい)三蔵等の論師人師の(ことば)にもあらず、教主釈尊の金言なり。譬へば天子の一言の如し。又法華経の薬王品に云はく「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。文の意は法華経を持つ人は男ならば(いか)なる(でん)()にても候へ、三界の主たる大梵天王・(しゃく)提桓因(だいかんにん)・四大天王・転輪(てんりん)(じょう)(おう)・乃至漢土日本の国主等にも勝れたり。(いか)(いわ)んや日本国の大臣・()(ぎょう)・源平の(さむらい)・百姓等に勝れたる事申すに及ばず。女人ならば(きょう)尸迦(しか)(にょ)(きち)(じょう)天女(てんにょ)・漢の()夫人・(よう)貴妃(きひ)等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候。

 今此を案ずるに経文の如く申さんとすればをびたゞしき様なり。人もちゐん事もかたし。此を信ぜじと思へば如来の金言を疑ふ失は経文明らかに阿鼻地獄の業と見へぬ。進退わづらひ有り、何がせん。此の法門を教主釈尊は四十余年が間は胸の内にかくさせ給ふ。さりとてはとて御年七十二と申せしに、南閻浮提の中天竺、王舎城の丑寅耆闍崛山にして説かせ給ひき。今日本国には仏御入滅一千四百余年と申せしに来たりぬ。
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夫より今に七百余年なり。先一千四百余年が間は日本国の人、国王・大臣乃至万民一人も此の事を知らず。今此の法華経わたらせ給へども、或は念仏を申し、或は真言にいとまを入れ、禅宗・持斉なんど申し、或は法華経を読む人は有りしかども、南無妙法蓮華経と唱ふる人は日本国に一人も無し。日蓮始めて建長五年夏の始めより二十余年が間、唯一人当時の人の念仏を申すやうに唱ふれば、人ごとに是を笑ひ、結句はのり、うち、切り、流し、頚をはねんとせらるゝこと一日二日・一月二月・一年二年ならざれば、こらふべしともをぼえ候はねども、此の経の文を見候へば、檀王と申せし王は千歳が間、阿私仙人に責めつかはれ身を床となし給ふ。不軽菩薩と申せし僧は多年が間悪口罵詈せられ刀杖瓦礫を蒙り、薬王菩薩と申せし菩薩は千二百年が間身をやき、七万二千歳ひぢを焼き給ふ。此を見はんべるに、何なる責め有りとも、いかでかさておき留むべきと思ふ心に、今まで退転候はず。

第二章 法華経を持つ者の功徳を説く

 然るに在家の御身として皆人にくみ候に、而もいまだ見参に入り候はぬに、何と思し食して御信用あるやらん。是偏に過去の宿植なるべし。来生に必ず仏に成らせ給ふべき期の来たりてもよをすこゝろなるべし。其の上経文には鬼神の身に入る者は此の経を信ぜず、釈迦仏の御魂の入りかはれる人は此の経を信ずと見へて候へば、水に月の影の入りぬれば水の清むがごとく、御心の水に教主釈尊の月の影の入り給ふかとたのもしく覚へ候。
 法華経の第四法師品に云はく「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して、我が前に在って無数の偈を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等云云。文の意は一劫が間教主釈尊を供養し奉るよりも、末代の浅智なる法華経の行者の、上下万人にあだまれて餓死すべき比丘等を供養せん功徳は勝るべしとの経文なり。

第三章 法華経の行者への供養の功徳

 一劫と申すは八万里なんど候はん青めの石を、やすり()を以て無量劫が間()るともつきまじきを、梵天三銖(ぼんてんさんしゅ)の衣と申して、きはめてほそくうつくしきあま()()(ごろも)を以て、三年に一度(くだ)りてなづるに、()()くしたるを一劫と申す。此の間無量の(たから)を以て供養しまいらせんよりも、(じょく)()の法華経
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の行者を供養したらん功徳はまさるべきと申す文なり。此の事、信じがたき事なれども、法華経はこれていに、をびたゞしく、まことしからぬ事どもあまたはんべり。又信ぜじとをもえば多宝仏は証明を加へ、教主釈尊は正直の金言となのらせ給ふ。諸仏は(こう)(ちょう)(ぜつ)を梵天につけ給ひぬ。父のゆづりに母の状をそえて賢王の(せん)()を下し給ふがごとし。三つこれ一同なり、誰かこれを疑はん。

 されば是を疑ひし無垢(むく)(ろん)()は舌五つに()れ、(すう)法師は舌たゞれ、三階禅(さんがいぜん)()は現身に大蛇となる。徳一(とくいち)は舌八つにさけにき。其れのみならず、此の法華経並びに行者を用ひずして、身をそんじ、家をうしない、国をほろぼす人々、月支・震旦(しんだん)に其の数をしらず。第一には日天(あした)に東に出で給ふに、大光明を放ち天眼(てんげん)を開いて南閻(なんえん)()(だい)を見給ふに、法華経の行者あれば心に歓喜し、行者をにくむ国あれば天眼をいからして其の国をにらみ給ふ。始終用ひずして国の人にくめば、其の故と無くいくさ()をこり、他国より其の国を破るべしと見えて候。

 昔(とく)(しょう)(どう)()と申せしをさな()き者は、土の餅を釈迦仏に供養し奉りて、阿育大王と生まれて閻浮提の主と成りて結句は仏になる。今の施主の菓子等を以て法華経を供養しまします、(いか)(じゅう)()刹女(せつにょ)等も悦び給ふらん。(ことごと)く尽くしがたく候。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
  二月十七日    日蓮 花押
 松野殿御返事