南条殿御返事  建治二年一月一九日  五五歳

別名『初春書』

 

第一章 法華経の真実なるを宣べる

(★948㌻)
 はる()のはじめの御つか(使)ひ、自他申し()めまいらせ候。さては給はるところのすず(種々)の物の事、もちゐ()七十まい()さけ()ひとつゝ(一筒)いも()いちだ(一駄)・河のりひと()かみ()ぶくろ()だいこん(大根)ふたつ()・やまのいも七ほん()等なり。ねんごろの御心ざしはしな()じな()のものにあらはれ候ひぬ。
 
 新春早々の御使い(をもってご挨拶を頂いたが)お互いにおめでたい。
 さて、御供養たまわった種々の物のこと、餅七十枚、酒一筒、芋一駄、河のり一紙袋、大根二把、やまのいも七本等である。真心のこもったお志はこれらの品々に表れている。
 法華経の第八の巻に云はく「所願(むな)しからず(また)現世に於て其の福報を得ん」と。又云はく「(まさ)に現世に於て現の果報を得べし」等云云。天台大師云はく「天子の一言虚しからず」と。又云はく「法王虚しからず」等云云。賢王    法華経の第八巻普賢品に「所願虚しからず亦現世に於てその福報を得ん」、「当に現世に於て現の果報を得べし」等と説かれている。天台大師は法華文句の中で「天子の一言虚しからず」、「法王虚しからず」等と仰せになっている。
(★949㌻)
となりぬれば、たとひ身をほろぼせどもそら()事せず。いわ()うや釈迦如来は()(みょう)(おう)とおはせし時は、はん()()く王のたて()へ入らせ給ひき。()(もう)()戒を持たせ給ひしゆへなり。かり(迦梨)王とおはせし時は、(じつ)()(しょう)(にん)(だい)(もう)()(にゅう)()(ごく)とこそおほせありしか。いわ()うや法華経と申すは、仏、我と(よう)当説(とうせつ)真実(しんじつ)となのらせ給ひし上、多宝仏十方の諸仏あつまらせ給ひて、日月衆星のなら()ばせ給ふがごとくに候ひし()せき()なり。法華経にそら()事あるならば、なに()事をか人信ずべき。
 
 賢王となった人は、たとえ身を滅ぼすようなことがあっても虚言はしない。ましてや釈迦如来は(過去世に)普明王としておられた時は、斑足王との約束を守り、(殺されるために)王の館に帰られた。不妄語戒を持っておられたゆえである。迦梨王と出会わされた時は、実語の少ない人と大妄語の入は地獄に堕ちる、と仰せられている。
 まして法華経は仏自ら「要ず当に真実を説く」と宣べられた上、日月、衆星が並ぶように、多宝仏、十方の諸仏が参集された座席で説かれたのである。法華経に虚言があるならば人は何を信じられようか。

 

第二章 法華経の行者供養の功徳を示す

 かゝる御経に一華一香をも供養する人は、過去に十万億の仏を供養する人なり。又釈迦如来の末法に世のみだ()れたらん時、王臣万民心を一にして一人の法華経の行者をあだ()まん時、此の行者かんばち(旱魃)の少水に魚の()み、万人にかこ()まれたる鹿のごとくならん時、一人ありてとぶら()はん人は生身の教主釈尊を一(こう)が間、三業(さんごう)相応して供養しまいらせたらんよりなを()功徳すぐ()るべきよし()如来の金言分明なり。日は赫々(かくかく)たり、月は明々たり。法華経の文字はかくかくめいめいたり。めいめいかくかくたるあき()らかなる鏡にかを()をうかべ、()める水に月のうかべるがごとし。    このよう法華経に一華一香でも供養する人は、過去世に十万億の仏を供養した人であると述べられ、また釈迦如来の末法で、世の乱れている時に、王臣や万民が心を一つにして一人の法華経の行者に迫害を加える時、此の行者が、旱ばつのわずかばかりの水にすむ魚のように、また大勢の人間に囲まれた鹿のようになっている時、一人この行者を助けに訪ねてくる人は、生身の教主釈尊を一劫が間、身・口・意の三業相応して供養し奉るよりも、なお功徳が勝れていると説かれている、如来の金言は分明である。日が赫々と照り、月が明々と輝くように、法華経の御文も赫々明々と照り輝いている。明鏡に顔を映し、澄める水に月の影が浮かべているようなものである。
 しかるに(やく)()(げん)()(とく)()福報(ふくほう)勅宣(ちょくせん)(とう)()(げん)()得現(とくげん)()(ほう)鳳詔(ほうしょう)、南条の七郎次郎殿にかぎりてむな()しかるべしや。日は西よりいづ()る世、月は地よりなる時なりとも、仏の(みこと)むな()しからじとこそ定めさせ給ひしか。これをもて()おも()ふに、慈父過去の聖霊(しょうりょう)は教主釈尊の御前にわたらせ給ひ、だん()()は又現世に大果報をまねかん事疑ひあるべからず。かうじん(幸甚)かうじん。
  正月十九日    日蓮 花押
 南条殿御返事
   そうであるから「現世にその福徳を得る」という如来の勅宣や、「必ず現世に現実の果報を得る」という経文が、南条七郎次郎殿に限って空しいはずがあろうか。日が西より昇ような世になり、月が大地から出るような時であっても、仏の御言葉に虚言はないと定められている。これをもって推し量れば、亡くなられた慈父の聖霊は教主釈尊の御前にお出になり、檀那はまた、現世に大果報を招くことは疑いない。幸甚幸甚。
 正月十九日    日 蓮 花押
南条殿御返事