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(★921㌻) 三世の諸仏の世に出でさせ給ひても、皆々四恩を報ぜよと説き、三皇・五帝・孔子・老子・ |
三世の諸仏が世にご出現になっても、皆々四恩を報ずるようにと説かれ、三皇・五帝・孔子・老子・顔回等の古の賢人は四徳を修めるようにと教えている。四徳とは、一には父母に孝行であれ、二には主君に忠義であれ、三には友に合っては礼儀を尽すこと、四には劣れる(目下の)者に合ったら慈悲深くあれ、ということである。 |
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一に父母に孝あれとは、たとひ親はものに覚えずとも、悪しざまなる事を云ふとも、聊も腹も立てず、誤る顔を見せず、親の云ふ事に一分も違へず、親によき物を与へんと思ひて、せめてやる事なくば一日に二三度えみて向かへとなり。二に主に合ふて忠あるべしとは、いさゝかも主にうしろめたなき心あるべからず。たとひ我が身は失なはるとも、主にはかまへてよかれと思ふべし。かくれての信あれば、あらはれての徳あるなりと云云。 (★922㌻) |
一に父母に孝行であれということは、たとえ親が物の道理をわきまえていなくとも、また悪意をもって言うような事があっても、少しも腹を立てたり、気分を悪くした顔を見せてはいけない。親の言う事に一分も逆らうことなく、親によい物を与えようと思うことであり、せめて何もできないときは、一日に二三度は笑顔を見せて向かうようにせよ、ということである。二に主君に会って忠義であれというのは、主君に対して少しも後ろめたい心があってはならない。たとえ我が身を失うようなことがあっても、主君のためになればよいようにと心がけなければならない。今は知られなくとも誠意があれば、いつか外にあらわれての徳があるといわれるとおりである。 | |
| 三には友にあふて礼あれとは、友達の一日に十度二十度来たれる人なりとも、千里二千里来たれる人の如く思ふて、礼儀いさゝかをろかに思ふべからず。四に劣れる者に慈悲あれとは、我より劣りたらん人をば我が子の如く思ひて一切あはれみ慈悲あるべし。此を四徳と云ふなり。是くの如く振る舞ふを賢人とも聖人とも云ふべし。此の四の事あれば余の事にはよからねどもよき者なり。是くの如く四の徳を振る舞ふ人は、外典三千巻をよまねども、読みたる人となれり。 | 三に友に会ったら礼儀正しくあれとは、友達で一日に十度二十度訪ねてくる人であっても、千里二千里から訪ねて来る人のように思って、少しも礼儀を欠くようなことがあってはならない。四に劣れる者に慈悲深くあれというのは、自分より弱い人には我が子のように思って、すべてを愛おしみ慈しむべきである。これを四徳というのである。このように振る舞う人を賢人とも聖人ともいう。この四徳があれば、余の事はよくなくても良き人なのである。このように四徳を修め行なう人は、外典三千巻を読まなくても読んだ人となるのである。 |
| 仏教の四恩とは、一には父母の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ。一に父母の恩を報ぜよとは、父母の赤白二渧和合して我が身となる。母の胎内に宿る事、二百七十日九月の間、三十七度死ぬるほどの苦みあり。生み落とす時、たへがたしと思ひ念ずる息、頂より出づる煙梵天に至る。さて生み落とされて乳をのむ事一百八十余石。三年が間は父母の膝に遊び、人となりて仏教を信ずれば、先づ此の父と母との恩を報ずべし。父の恩の高き事須弥山も猶ひきし。母の恩の深き事大海還って浅し。相構へて父母の恩を報ずべし。二に国主の恩を報ぜよとは、生まれて已来衣食のたぐひより始めて皆是国主の恩を得てある者なれば、現世安穏後生善処と祈り奉るべし。三に一切衆生の恩を報ぜよとは、されば昔は一切の男は父なり女は母なり。然る間生々世々に皆恩ある衆生なれば皆仏になれと思ふべきなり。 |
仏教の四恩とは、一には父母の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ、ということである。一に父母の恩を報ぜよとは、父母の赤白二滞が和合して我が身となる。母の胎内に宿る事、二百七十日、九月の間、三十七度、死ぬほどの苦みがある。生み落とす時(の苦痛)は、とても堪え難いと思うほどで、息は荒く、頂から出る湯気は梵天にまでとどくほどである。そして生み落とされて飲む乳は百八十余石、三年が間は父母の膝下に遊ぶのである。成人して仏教を信ずるようになれば、まずこの父と母との恩を報ずべきである。父の恩の高き事は須弥山さえもなお低いほどであり、母の恩の深き事は大海もかえって浅いほどである。心して父母の恩を報ずべきである。二に国主の恩を報ぜよとは、生まれてから以来、衣食の類をはじめとしてすべて国主の恩を受けてあるものであるから、現世安穏、後生善処と祈念し奉るべきである。三に一切衆生の恩を報ぜよとは、三世の生命からみれば、すべての男は過去世には父であり、すべての女は母である。こうして、生々世々に皆恩ある衆生であるから、一切衆生が成仏するようにと願うべきである。 |
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然る間釈迦・多宝等の十方無量の仏、上行地涌等の菩薩も、普賢・文殊等の迹化の大士も、舎利弗等の諸大声聞も、大梵天王・日月等の明主諸天も、八部王も、十羅刹女等も、日本国中の大小の諸神も、総じて此の法華経を強く信じまいらせて、余念なく一筋に信仰する者をば、影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり。相構へて相構へて、心を翻へさず一筋に信じ給ふならば、現世安穏後生善処なるべし。恐々謹言。 日 蓮 花押 上野殿 |
それゆえに、釈迦・多宝等の十方無量の仏、上行菩薩等の地涌の菩薩、普賢・文殊等の迹化の大士、舎利弗等の諸大声聞も、大梵天王・日月等の明主諸天も、八部王も、十羅刹女等も、日本国中の大小の諸神も、すべて、この法華経を強盛に信じて、余念なく一筋に信仰する者を、影が身にそうように守護されるのである。相構へて相構へて、心を翻へさず一筋に信じられるならば、現世安穏、後生善処は間違いない。恐々謹言。 | |