瑞相御書 建治元年 五四歳

 

第一章 依正不二の原理を説く 

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 (それ)天変は衆人をおど()ろかし、地夭(ちよう)は諸人をうご()かす。仏、法華経を()かんとし給ふ時、五瑞六瑞をげん()じ給ふ。其の中に()動瑞(どうずい)と申すは大地六種に震動す。六種と申すは天台大師文句の三に釈して云はく「東涌西没とは、東方は青、肝を(つかさど)る、肝は眼を主る。西方は白、肺を主る、肺は鼻を主る。此眼根の功徳生じて鼻根の煩悩互ひに滅するを表すなり。鼻根の功徳生じて眼の中の煩悩互ひに滅す。余方の涌没して余根の生滅を表するも亦復」云云。
 
 天の異変は多くの人を驚かし、大地の災厄はもろもろの人を動揺させる。仏は法華経を説こうとされたときに、五瑞六瑞をあらわされた。その六瑞の中の地動瑞というのは、大地が六種に震動することである。この六種の震動というのは、天台大師の法華文句の第三に「東方が高く盛り上がり西方が没んだというのは、東方とは青色で肝蔵をつかさどり、肝蔵は、また眼をつかさどる。西方は白色で肺蔵をつかさどり、肺蔵は、また鼻をつかさどろ。それゆえ東湧西没とは、眼根の功徳が生じて、それに応じて鼻根の煩悩が滅することを表わしている。鼻根の功徳が生じ、これに応じて眼の中の煩悩が滅する。その他の方角の涌没によって、それに関係する余根の功徳、煩悩の生滅を表わすのもこれと同じである」と説いている。
 妙楽大師(これ)()けて云はく「表根と言ふは、眼鼻已に東西を表す。耳舌理として南北に対す。中央は心なり。四方は身なり。身四根を具す。心遍く四を縁す。故に心を以て身に対して涌没を為す」云云。    妙楽大師はこれを受けて「各方角が六根を表すというのは眼と鼻が已に東西を表わしているのであるから、耳と舌は道理として南北に対応する。中央は心である。四方は身である。身は四根を具し、心は徧く四根に縁している。ゆえに身に対して湧没を起こさせるのである」と解している。
 夫十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報を()て此をつくる。眼根をば東方をもってこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、
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心は中央等、これをもって()んぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をど()ろう()べし。されば国土やぶれんとするしるし()には、まづ山くづ()れ、草木()れ、江河()くるしるしあり。人の眼耳等驚そう()すれば天変あり。人の心をうご()かせば地動す。
   十方は依報である。衆生は正報である。依報は、たとえば影であり、正報は体である。身がなければ影はない。と同じく正報がなければ依報もないのである。またその正報は依報をもってその体を作られる。眼根は東方によって作られる。と同じく舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央に対応することは、これによって知ることができよう。
 それ故、衆生の五根が破れようとするときは、四方や中央の地が動くのである。
 したがって国土がまさに崩壊しようとする前兆として、まず山が崩れ、草木が枯れ、河川の水が涸れ尽きてしまう。また、人の眼や耳等が驚き騒げば、天変が起こり、衆生の心を動かせば大地が震動するのである。

 

第二章 法華経の瑞相を明かす

 (そもそも)(いず)れの経々にか六種動これなき。一切経を仏とかせ給ひしにみなこれあり。しかれども、仏、法華経をとかせ給はんとて六種震動ありしかば、衆もことにをどろき、弥勒(みろく)菩薩も疑ひ、文殊(もんじゅ)師利(しり)菩薩もこたへしは、諸経よりも瑞も大いに久しくありしかば、疑ひも大いに決しがたかりしなり。    一体どの経に六種が動かなかったという例があろうか。一切経を仏が説かれた時に、みな六種動はあった。しかし仏が法華経を説かれようとしたときの六種震動には、衆生もことに驚き、弥勒菩薩も疑問を発し、文殊師利菩薩がそのことに答えたのは諸経よりも瑞が大きく長かったので、疑いも大きく晴らしたかったからである。
 故に妙楽の云はく「何れの大乗経にか集衆(しゅうじゅ)放光(ほうこう)雨花(うけ)動地(どうち)あらざらん。但し大疑を生ずること無し」等云云。此の釈の心はいかなる経々にも序は候へども、此ほど大なるは()しとなり。    故に妙楽は「何れの大乗経にも集衆・放光・雨花・動地等の瑞相がない例はないが、ただし人々がこのような大なる疑いを起したことはなかった」といっている。この釈は、いかなる経々にも序として瑞相というものがあるが、この法華経のような大きな瑞相を伴ったものはないという意である。
 されば天台大師の云はく「世人(おも)えらく、蜘蛛(ちちゅう)()かれば則ち喜び来たり、鳱鵲(かんじゃく)鳴けば則ち行人至ると。小すら尚徴有り、大(なん)ぞ瑞無からん。近きを以て遠きを表す」等云云。      故に天台大師も「世間の人は『蜘蛛が巣をかければ近く喜びごとが訪れ、鳱鵲が鳴けば客人が来る』という。このように世間の小事ですら前兆があるから、まして仏法の大事にどうして瑞相のないわけがあろうか。瑞相という近くに見えるものをもって、仏法の深遠の道理を表わすものである」と説いている。
 (それ)一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて、法華経の迹門をとかせ給ひぬ。    釈尊は一代四十余年の間、かってなかった大瑞相を現わして法華経の迹門を説かれたのである。

 

第三章 本門の瑞相を説く

 其の上本門と申すは又爾前の経々の瑞に迹門を対するよりも大いなる大瑞なり。大宝塔(だいほうとう)の地よりをどりいでし、地涌(じゆ)千界(せんがい)大地よりならび出でし大震動は、大風の大海を吹けば、大山のごとくなる大波の、あし()()のごとくなる小船の()()につくがごとくなりしなり。    更にその上、法華経本門が説かれたときの瑞相は、爾前の経々の瑞相に迹門の瑞相をくらべたよりはるかに大きい瑞相であった。宝塔品において説かれた大宝塔が大地から湧現したり、次の涌出品になって地涌千界の大菩薩が大地から多数涌出したときの大震動はちょうど大風が大海に吹きつけて大山のような波を起こし、その波が蘆の葉のような小船を襲い、帆まで浸すような大きな震動だったのである。
 されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問ひ、涌出品(ゆじゅっぽん)の大瑞をば慈氏(じし)は仏に問ひたてまつる。これを妙楽釈して云はく「迹事(しゃくじ)浅近(せんごん)、文殊に寄すべし。本地は(ことわ)り難し故に唯仏に託す」云云。迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほゞこれをしれり。本門の事は妙徳(みょうとく)すこしもはからず。此の大瑞は在世の事にて候。    ゆえに序品の瑞相については弥勒菩薩が文殊師子菩薩に質問したのに対し、涌出品の大瑞については弥勒が仏に質問したのである。これを妙楽大師は法華文句記の三に釈して「迹門の事は浅近の法なるがゆえに文殊師利菩薩に委ねた。久遠の本地は解し難いゆえにただ仏に託したのである」と述べている。迹門の瑞相については仏は説かなかったが、文殊はだいたいこの意義を知っていた。ところが本門のことは、文殊は少しでも推量できなかったのである。ただし、この大瑞は釈迦在世のことである。
 仏、神力品にいた()て十神力を現ず。此は又さきの二瑞には()るべくもなき神力なり。序品の放光は東方万八千土、神力品の大放光は十方世界。序品の地動は但三千界、神力品の大地動は諸仏の世界、地皆六種に震動す。此の瑞も又々かくのごとし。此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入って、
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法華経の肝要のひろまらせ給ふべき大瑞なり。経文に云はく「仏滅度の後に能く是の経を持つを以ての故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云。又云はく「悪世末法の時」等云云。
   仏は、更に神力品にいたって十神力を現じた。これはさきの序品や宝塔・涌出品の二瑞とは比較にならない神力である。序品のときの放光は東方万八千土の国土を照らしたにとどまったが、神力品の大放光は十方の世界にまで及んだ。また序品の地動瑞は、ただ三千世界に限られていたが、神力品の大地動は諸仏の全世界において、大地が六種に震動したのである。この瑞相もまた同様である。
 この神力品の大瑞相は仏滅後、正像二千年が過ぎて、末法に入り法華経の肝要が広まるという大瑞相である。法華経神力品には「仏の滅度に衆生が能くこの経を持つことによって諸仏はみな歓喜して、無量の神力を現すのである」と説かれている。また、分別功徳品には「悪世末法の時に」と説かれている。
 疑って云はく、(それ)瑞は吉凶につけて或は一時二時、或は一日二日、或は一年二年、或は七年十二年か。如何(いかん)ぞ二千余年己後(いご)の瑞あるべきや。答へて云はく、周の昭王(しゅうおう)の瑞は一千十五年に始めて()えり。訖利季(きりき)(おう)の夢は二万二千年に始めてあいぬ。(あに)二千余年の事の前にあら()はるゝかを疑ふべきや。    疑つて言う。瑞相は吉瑞・凶瑞いずれにしても、一時・二時、あるいは一日・二日後、または一年・二年後、七年・十二年後のことを示すものはあるが、どうして二千余年も後世のことを知らす瑞相があるのであろうか。
 答えて言う。昔、中国の周の昭王の瑞相は一千十五年後に始めて符合し、太古インドの訖利季王の夢は二万二千年後に始めて合致した。二千余年後のことが、前瑞としてあらわれたことを疑うにはあたらない。

 

第四章 末法の大瑞の本質を明かす

 問うて云はく、在世よりも滅後の瑞大なる如何。答へて云はく、大地の動ずる事は人の六根の動くによる。人の六根の動きの大小に()て大地の六種も高下あり。爾前の経々には一切衆生煩悩をやぶるやうなれども実にはやぶらず。今法華経は元品(がんぽん)無明(むみょう)をやぶるゆへに大動あり。末代は又在世よりも悪人多々なり。かるがゆへに在世の瑞にもすぐれてあるべきよしを示現(じげん)し給ふ。    問うて言うには、釈尊在世の瑞相よりも滅後の瑞相のほうが大きいのはなぜか。答えて言うには、大地が動くのは人の六根が動くからである。したがって人の六根の動きの大小によって大地の六種の震動も高低がある。爾前の諸経は一切衆生の煩悩を破っているようであるが、実際には、破っていない。今、法華経は、煩悩の最も根本である元品の無明を破るから大震動があるのである。しかも、末法は在世よりも悪人が多い。その無明を破るのであるから、末法のための瑞相は、在世の瑞相よりも大きいということを仏は示し現わしているのである。
 疑って云はく、証文如何。答へて云はく「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉(おんしつ)多し。況んや滅度の後をや」等云云。去ぬる正嘉(しょうか)・文永の大地震・大天変は天神七代・地神五代はさておきぬ。人王九十代、二千余年が間、日本国にいまだなき天変地夭なり。人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈(たいしゃく)の動あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚(しんに)の大小に随ひて天変の大小あり。地夭も又かくのごとし。今日本国、(かみ)一人より(しも)万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり。此の悪心の根本は日蓮によりて起これるところなり。    疑って言うには、末法には特に悪人が多いという証文はどこにあるのか。答えて言うには、それは法華経の法師品に「この経を弘通しようとすれば、如来の現在にあっても怨嫉が多い。ましてや滅度の後においてはなおさらである」と説かれている。去る正嘉の大地震、文永の大天変は、天神七代・地神五代といった神代の時代は別として、人王九十代・二千余年の間というもの、日本国にいままでなかった天変地夭である。 
 人の悦びが多ければ天には吉瑞が現われ、地には帝釈天の地動瑞が起こる。逆に人々の悪心が盛んになれば、天には不祥の異変が現われ、地には不吉な災厄が起こる。また人間の懐く瞋恚の大小によって、その現われる天変や地夭にも大小がある。現在の日本国には上一人より下万民に至るまで大悪心の衆生が充満している。この悪心の根本は日蓮によって起こったものである。

 

第五章 天変地夭の原因を説く

 守護(しゅご)国界経(こっかいきょう)と申す経あり。法華以後の経なり。阿闍世王(あじゃせおう)仏にまいりて云はく、我が国に大旱魃(かんばつ)・大風・大水・飢饉(ききん)・疫病年々に起こる上、他国より我が国を()む。而るに仏の出現し給へる国なり、いかん、と問ひまいらせ候ひしかば仏答へて云はく、()(かな)善き哉、大王能く此の問ひをなせり。汝には多くの逆罪あり。其の中に父を殺し、提婆(だいば)を師として我を害せしむ。この二罪大なる故、かゝる大難来たることかくのごとく無量なり。
(★921㌻)
其の中に我が滅後に末法に入って、提婆がやうなる僧国中に充満せば、正法の僧一人あるべし。彼の悪僧等正法の人を流罪死罪に行なひて、王の(きさき)乃至萬民の女を犯して謗法者の種子の国に充満せば、国中に種々の大難をこり、後には他国にせめらるべしと()かれて候。
   守護国界経という経がある。これは法華経以後に説かれた経である。その中に「阿闍世王が釈迦の所へ参上していうには『わが国に大早魃・大風・大水・飢饉・疫病が毎年起る上に、他国よりわが国を攻めている。しかるに、わが国は仏の出現された国である。これはどういうことでしょうか』とたずねた。釈迦が答えていうには『すばらしいことだ。大王よ、よくそのことを質問した。あなたには多くの逆罪がある。その中で、父を殺し、提婆達多を師として私を迫害した。この二罪は重大であるために、このようなな大難がこのように無量に起こるのである』と答え、更に『わが滅後、末法に入って提婆達多のような僧が、国中に充満するとき、正法を持つ僧が一人出現する。彼等悪僧たちは、この正法の僧を流罪・死罪に行なった上、王の后をはじめ、一般庶民の女性までも犯して謗法者の種子が国中に充満するであろう。そしてそのために国中に種々の大難が起こり、やがて他国から攻められる』」と説かれている。
 今の世の念仏者かくのごとく候上、真言師等が大慢、提婆(だいば)達多(だった)に百千万億倍すぎて候。真言宗の不思議あらあら申すべし。胎蔵(たいぞう)界の八葉の九尊を()にかきて、其の上にのぼりて諸仏の御面を()みて灌頂(かんじょう)と申す事を行なふなり。父母の面をふみ、天子の頂をふむがごとくなる者国中に充満して上下の師となれり。いかでか国ほろびざるべき。此の事余が一大事の法門なり。又々申すべし。さき()にすこしかきて候。いた()う人におほせあるべからず。びん(便)ごとの心ざし一度二度ならねば、いかにとも    いま、日本の念仏者は、この経文に説かれているのと同じであり、その上、真言師たちの大慢心は提婆達多よりも百千万億倍もすぎている。その真言宗の奇怪な点についてあらあら述べると、胎蔵界の八葉九尊を絵に画いて、その上にのぼって諸仏の御面を踏んで潅頂という儀式を行なうのである。これは父母の面を踏み、天子の頂を踏むような者が国中に充満して、しかも上下万民の師となっているということである。どうして国が亡びないことがあろうか。
 このことは、日蓮のもっとも大事な法門であるから、またの機会に申し上げましょう。このことは以前にも少し書きましたが、みだりに人に言ってはいけません。お便りのあるごとに、日蓮に寄せられる志は、一度・二度でなく、何とも…。