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(★918㌻) |
天の異変は多くの人を驚かし、大地の災厄はもろもろの人を動揺させる。仏は法華経を説こうとされたときに、五瑞六瑞をあらわされた。その六瑞の中の地動瑞というのは、大地が六種に震動することである。この六種の震動というのは、天台大師の法華文句の第三に「東方が高く盛り上がり西方が没んだというのは、東方とは青色で肝蔵をつかさどり、肝蔵は、また眼をつかさどる。西方は白色で肺蔵をつかさどり、肺蔵は、また鼻をつかさどろ。それゆえ東湧西没とは、眼根の功徳が生じて、それに応じて鼻根の煩悩が滅することを表わしている。鼻根の功徳が生じ、これに応じて眼の中の煩悩が滅する。その他の方角の涌没によって、それに関係する余根の功徳、煩悩の生滅を表わすのもこれと同じである」と説いている。 |
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妙楽大師 |
妙楽大師はこれを受けて「各方角が六根を表すというのは眼と鼻が已に東西を表わしているのであるから、耳と舌は道理として南北に対応する。中央は心である。四方は身である。身は四根を具し、心は徧く四根に縁している。ゆえに身に対して湧没を起こさせるのである」と解している。 | |
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夫十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報を (★919㌻) 心は中央等、これをもって |
十方は依報である。衆生は正報である。依報は、たとえば影であり、正報は体である。身がなければ影はない。と同じく正報がなければ依報もないのである。またその正報は依報をもってその体を作られる。眼根は東方によって作られる。と同じく舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央に対応することは、これによって知ることができよう。 それ故、衆生の五根が破れようとするときは、四方や中央の地が動くのである。 したがって国土がまさに崩壊しようとする前兆として、まず山が崩れ、草木が枯れ、河川の水が涸れ尽きてしまう。また、人の眼や耳等が驚き騒げば、天変が起こり、衆生の心を動かせば大地が震動するのである。 |
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一体どの経に六種が動かなかったという例があろうか。一切経を仏が説かれた時に、みな六種動はあった。しかし仏が法華経を説かれようとしたときの六種震動には、衆生もことに驚き、弥勒菩薩も疑問を発し、文殊師利菩薩がそのことに答えたのは諸経よりも瑞が大きく長かったので、疑いも大きく晴らしたかったからである。 | |
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故に妙楽の云はく「何れの大乗経にか |
故に妙楽は「何れの大乗経にも集衆・放光・雨花・動地等の瑞相がない例はないが、ただし人々がこのような大なる疑いを起したことはなかった」といっている。この釈は、いかなる経々にも序として瑞相というものがあるが、この法華経のような大きな瑞相を伴ったものはないという意である。 | |
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されば天台大師の云はく「世人 |
故に天台大師も「世間の人は『蜘蛛が巣をかければ近く喜びごとが訪れ、鳱鵲が鳴けば客人が来る』という。このように世間の小事ですら前兆があるから、まして仏法の大事にどうして瑞相のないわけがあろうか。瑞相という近くに見えるものをもって、仏法の深遠の道理を表わすものである」と説いている。 | |
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釈尊は一代四十余年の間、かってなかった大瑞相を現わして法華経の迹門を説かれたのである。 |
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其の上本門と申すは又爾前の経々の瑞に迹門を対するよりも大いなる大瑞なり。 |
更にその上、法華経本門が説かれたときの瑞相は、爾前の経々の瑞相に迹門の瑞相をくらべたよりはるかに大きい瑞相であった。宝塔品において説かれた大宝塔が大地から湧現したり、次の涌出品になって地涌千界の大菩薩が大地から多数涌出したときの大震動はちょうど大風が大海に吹きつけて大山のような波を起こし、その波が蘆の葉のような小船を襲い、帆まで浸すような大きな震動だったのである。 | |
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されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問ひ、 |
ゆえに序品の瑞相については弥勒菩薩が文殊師子菩薩に質問したのに対し、涌出品の大瑞については弥勒が仏に質問したのである。これを妙楽大師は法華文句記の三に釈して「迹門の事は浅近の法なるがゆえに文殊師利菩薩に委ねた。久遠の本地は解し難いゆえにただ仏に託したのである」と述べている。迹門の瑞相については仏は説かなかったが、文殊はだいたいこの意義を知っていた。ところが本門のことは、文殊は少しでも推量できなかったのである。ただし、この大瑞は釈迦在世のことである。 | |
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仏、神力品に (★920㌻) 法華経の肝要のひろまらせ給ふべき大瑞なり。経文に云はく「仏滅度の後に能く是の経を持つを以ての故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云。又云はく「悪世末法の時」等云云。 |
仏は、更に神力品にいたって十神力を現じた。これはさきの序品や宝塔・涌出品の二瑞とは比較にならない神力である。序品のときの放光は東方万八千土の国土を照らしたにとどまったが、神力品の大放光は十方の世界にまで及んだ。また序品の地動瑞は、ただ三千世界に限られていたが、神力品の大地動は諸仏の全世界において、大地が六種に震動したのである。この瑞相もまた同様である。 この神力品の大瑞相は仏滅後、正像二千年が過ぎて、末法に入り法華経の肝要が広まるという大瑞相である。法華経神力品には「仏の滅度に衆生が能くこの経を持つことによって諸仏はみな歓喜して、無量の神力を現すのである」と説かれている。また、分別功徳品には「悪世末法の時に」と説かれている。 |
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疑って云はく、 |
疑つて言う。瑞相は吉瑞・凶瑞いずれにしても、一時・二時、あるいは一日・二日後、または一年・二年後、七年・十二年後のことを示すものはあるが、どうして二千余年も後世のことを知らす瑞相があるのであろうか。 答えて言う。昔、中国の周の昭王の瑞相は一千十五年後に始めて符合し、太古インドの訖利季王の夢は二万二千年後に始めて合致した。二千余年後のことが、前瑞としてあらわれたことを疑うにはあたらない。 |
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問うて云はく、在世よりも滅後の瑞大なる如何。答へて云はく、大地の動ずる事は人の六根の動くによる。人の六根の動きの大小に |
問うて言うには、釈尊在世の瑞相よりも滅後の瑞相のほうが大きいのはなぜか。答えて言うには、大地が動くのは人の六根が動くからである。したがって人の六根の動きの大小によって大地の六種の震動も高低がある。爾前の諸経は一切衆生の煩悩を破っているようであるが、実際には、破っていない。今、法華経は、煩悩の最も根本である元品の無明を破るから大震動があるのである。しかも、末法は在世よりも悪人が多い。その無明を破るのであるから、末法のための瑞相は、在世の瑞相よりも大きいということを仏は示し現わしているのである。 | |
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疑って云はく、証文如何。答へて云はく「而も此の経は如来の現在すら猶 |
疑って言うには、末法には特に悪人が多いという証文はどこにあるのか。答えて言うには、それは法華経の法師品に「この経を弘通しようとすれば、如来の現在にあっても怨嫉が多い。ましてや滅度の後においてはなおさらである」と説かれている。去る正嘉の大地震、文永の大天変は、天神七代・地神五代といった神代の時代は別として、人王九十代・二千余年の間というもの、日本国にいままでなかった天変地夭である。 人の悦びが多ければ天には吉瑞が現われ、地には帝釈天の地動瑞が起こる。逆に人々の悪心が盛んになれば、天には不祥の異変が現われ、地には不吉な災厄が起こる。また人間の懐く瞋恚の大小によって、その現われる天変や地夭にも大小がある。現在の日本国には上一人より下万民に至るまで大悪心の衆生が充満している。この悪心の根本は日蓮によって起こったものである。 |
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(★921㌻) 其の中に我が滅後に末法に入って、提婆がやうなる僧国中に充満せば、正法の僧一人あるべし。彼の悪僧等正法の人を流罪死罪に行なひて、王の |
守護国界経という経がある。これは法華経以後に説かれた経である。その中に「阿闍世王が釈迦の所へ参上していうには『わが国に大早魃・大風・大水・飢饉・疫病が毎年起る上に、他国よりわが国を攻めている。しかるに、わが国は仏の出現された国である。これはどういうことでしょうか』とたずねた。釈迦が答えていうには『すばらしいことだ。大王よ、よくそのことを質問した。あなたには多くの逆罪がある。その中で、父を殺し、提婆達多を師として私を迫害した。この二罪は重大であるために、このようなな大難がこのように無量に起こるのである』と答え、更に『わが滅後、末法に入って提婆達多のような僧が、国中に充満するとき、正法を持つ僧が一人出現する。彼等悪僧たちは、この正法の僧を流罪・死罪に行なった上、王の后をはじめ、一般庶民の女性までも犯して謗法者の種子が国中に充満するであろう。そしてそのために国中に種々の大難が起こり、やがて他国から攻められる』」と説かれている。 | |
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今の世の念仏者かくのごとく候上、真言師等が大慢、 |
いま、日本の念仏者は、この経文に説かれているのと同じであり、その上、真言師たちの大慢心は提婆達多よりも百千万億倍もすぎている。その真言宗の奇怪な点についてあらあら述べると、胎蔵界の八葉九尊を絵に画いて、その上にのぼって諸仏の御面を踏んで潅頂という儀式を行なうのである。これは父母の面を踏み、天子の頂を踏むような者が国中に充満して、しかも上下万民の師となっているということである。どうして国が亡びないことがあろうか。 このことは、日蓮のもっとも大事な法門であるから、またの機会に申し上げましょう。このことは以前にも少し書きましたが、みだりに人に言ってはいけません。お便りのあるごとに、日蓮に寄せられる志は、一度・二度でなく、何とも…。 |