単衣抄 建治元年八月 五四歳

 

第一章 法華経の行者受難の姿を明かす

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 (ひとえ)(ぎぬ)一領送り給び候ひ(おわ)んぬ。
 ()(ろう)国には老者を()て、日本国には今法華経の行者を()つ。(そもそも)此の国(かい)(びゃく)より天神七代・地神五代・人王百代
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あり。神武より已後九十代、欽明より仏法始まりて六十代、七百余年に及べり。其の中に父母を殺す者、朝敵となる者、山賊海賊、数を知らざれども、いまだきかず、法華経の故に日蓮(ほど)人に(にく)まれたる者はなし。
 
 単衣一領お送りくださり、たしかに受けとりました。
 昔、棄老国では老人を捨てたということですが、今日本国では法華経の行者を捨てています。そもそもこの国が開闢してから天神七代・地神五代・人王百代になります。
 今は、神武天皇から以後九十代、欽明天皇の時代に仏法が伝えられてからは六十代・七百余年になります。その間に父母を殺した者、朝敵となった者・山賊・海賊等は数知れないほどいたけれども、日蓮ほど法華経のために人に悪まれた者がいたのは、いまだ聞いたことがありません。
 或は王に悪まれたれども民には悪まれず、或は僧は悪めば俗はもれ、男は悪めば女はもれ、或は愚癡の人は悪めば智人はもれたり。此は王よりは民、男女よりは僧尼、愚人よりは智人悪む、悪人よりは善人悪む。前代未聞の身なり。後代にも有るべしともおぼえず。故に生年三十二より今年五十四に至るまで二十余年の間、或は寺を追ひ出され、或は処をおわれ、或は親類を(わずら)はされ、或は()()ちにあひ、或は合戦にあひ、或は悪口数をしらず。或は打たれ、或は手を負ひ、或は弟子を殺され、或は(くび)を切られんとし、或は流罪両度に及べり。二十余年が間一時片時も心安き事なし。頼朝の七年の合戦もひま()やありけん。頼義が十二年の(とう)(じょう)(いか)でか是にはすぐべき。    あるいは国王に悪まれたけれども人民には悪まれない。あるいは僧侶が悪めば在者は悪まない。男が悪めば女は悪まない。あるいは愚人が悪めば智人は悪まなかったのです。日蓮は国王よりも人民が、男女よりむ僧尼が、愚人よりも智人が悪み、悪人よりも善人が悪むという、前代未聞の身なのです。また後代にも現われるとは思えません。それゆえに三十二の年から今年五十四歳になるまでの二十余年の間、ある時は寺を追い出され、ある時は住所を逐われ、ある時は親類を苦しめられ、ある時は夜打ちに遭い、ある時は合戦に遭い、あるいは悪口を数知れずいわれ、ある時は打たれ、るときは傷を負い、ある時は弟子を殺され、ある時は頚を切られようとし、ある時は二度も流罪に処せられました。この二十余年の間は、一日片時も心安らかなことはありませんでした。源頼朝の平氏との七年の合戦の間にも、暇はあったでありましょう。源頼義が十二年の間闘諍したことも、どうしてこれに過ぎることがりましょう。

 

第二章 経文を挙げ法華経の身読を証す

 法華経の第四に云はく「如来の現在にすら(なお)怨嫉(おんしつ)多し」等云云。第五に云はく「一切世間(あだ)多くして信じ難し」等云云。天台大師も恐らくはいまだ此の経文をばよみ給はず、一切世間皆信受せし故なり。伝教大師も及び給ふべからず、(きょう)(めつ)度後(どご)の経文に符合せざるが故に。日蓮日本国に出現せずば如来の金言も虚しくなり、多宝の証明もなにかせん。十方の諸仏の()(ことば)も妄語となりなん。仏滅後二千二百二十余年、月氏・漢土・日本に、一切世間()(おん)難信(なんしん)の人なし。日蓮なくば仏語既に絶えなん。
   法華経の第四の巻法師品第十一に「仏の在世ですら猶、怨嫉が多い」とあり、第五の巻安楽行品第十四には「一切世間には怨嫉が多くて信じ難い」と説かれています。天台大師もおそらくはいまだ此の経文を身では読まれなかった。一切世間の人が皆信受したからです。伝教大師も及ばないでしょう。「ましてや仏の滅後においてはなおさらである」の経文に符合しなかったからです。日蓮が日本国に出現しなかったならば、仏の金言も虚言となり、多宝如来の証明も何になりましょうか。十方の諸仏の御語も妄語となったでしょう。仏滅後二千二百二十余年の間、インド・中国・日本に「一切世間に怨嫉が多くて信じ難い」の経文を身で読んだ人はいません。日蓮が出現しなかったならば、仏の語もすべてに絶えてしまったでしょう。

 

第三章 単衣供養の大功徳を説く

 かゝる身なれば蘇武(そぶ)が如く雪を食として命を継ぎ、()(りょう)が如く(みの)をきて世をすごす。山林に交はって(このみ)なき時は空しくして両三日を過ぐ。鹿の皮破れぬれば裸にして三・四月に及べり。かゝる者をば何としてか(あわ)れとおぼしけん、未だ見参(げんざん)にも入らぬ人の(はだえ)を隠す衣を送り給び候こそ、(いか)にとも存じがたく候へ。此の(かたびら)をきて仏前に詣でて法華経を読み奉り候ひなば、御経の文字は六万九千三百八十四字、一々の文字は皆金色の仏なり。衣は一つなれども六万九千三百八十四仏に一々にきせまいらせ給へるなり。されば此の衣を給びて候へば、夫妻二人ともに此の仏御尋ね(ましま)して、我が檀那なりと守らせ給ふらん。今生には祈りとなり、
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   このような身ですから、蘇武のように、雪を食として命を継ぎ、李陵のように簑をきて寒さをしのいでいる。山で木の実が採れない時は二、三日を空腹のまま過ごし、着ている鹿皮が破れてしまえば着るものもなく、三、四ケ月を過ごす状態である。このような者を、どうしたわけか、不便におぼしめされ、いまだお会いしたこともないのに、日蓮の膚を隠す衣をお送りくださったことは、何ともいいようがないほどありがたく思っております。この帷を着て仏前に詣で、法華経を読み奉るならば、法華経の文字は六万九千三百八十四字であり、一々の文字は皆金色の仏ですから、衣は一つですけれども六万九千三百八十四の仏に、一々に着せ奉ることになります。それゆえ、この衣を御供養していただいたので、夫妻二人にはこれらの仏が訪れて、我が檀那であるとして、守ってくださるでしょう。今生には祈りとなり、
(たから)となり、御臨終の時は月となり、日となり、道となり、橋となり、父となり、母となり、牛馬となり、輿(こし)となり、車となり、蓮華となり、山となり、二人を霊山浄土へ迎へ取りまいらせ給ふべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
  建治元年乙亥(きのとい)八月 日    日蓮 花押
  此の文は藤四郎殿女房と常により合ひて御覧あるべく候。
   財となり、御臨終の時には月となり、日となり、道となり、橋となり、父となり、母となり、牛馬となり、輿となり、車となり、蓮華となり、山となって二人を霊山浄土へ迎え入れてくださるでしょう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

 建治元年乙亥八月日    日蓮 花押
 此の文は藤四郎殿夫人と、常に寄り合合って御覧なさるがよい。