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むぎひとひつ、かわのり五条、はじかみ六は給び了んぬ。いつもの御事に候へばをどろかれず、めづらしからぬやうにうちをぼへて候は、ぼむぶの心なり。せけんそうそうなる上、をゝみやのつくられさせ給へば、百姓と申し、我が内の者と申し、けかちと申し、ものつくりと申し、いくそばくこそいとまなく御わたりにて候らむに、山のなかのすまいさこそとをもひやらせ給ひて、とりのかいごをやしなうがごとく、ともしびにあぶらをそうるがごとく、かれたるくさにあめのふるがごとく、うへたる子にちをあたうるがごとく、法華経の御いのちをつがせ給ふ事、三世の諸仏を供養し給へるにてあるなり。十方の衆生の眼を開く功徳にて候べし。尊しとも申す計りなし。あなかしこあなかしこ。恐々謹言。
七月十六日 日蓮 花押
進上 上野殿御返事 |
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麦一櫃、川海苔五帖、しょうが六十、たしかに受け取りました。
いつものことなので驚きもせず、珍しいことでもないように思ってしまうのは、凡夫の心のなせるわざである。世間はあわただしいうえ浅間神社が造営されるので、百姓といい屋敷内の者といい、食物の欠乏といい農耕の時といい、どれほどか暇なくすごされているであろうに、身延の山中のすまいはどうであろうかと心配されて、鳥が卵を育むように、灯に油を添えるように、枯れた草に雨が降るように、飢えた子に乳をあたえるように法華経の御命を継がらせたことは三世の諸仏を供養されたことであり、十方の衆生の眼を開く功徳となろう。その尊さは言いようがない。あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。
七月十六日 日 蓮 花押
進上 上野殿御返事
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