上野殿御返事  建治元年七月一六日  五四歳

 

(★892㌻)
 むぎ()ひとひつ(一櫃)、かわのり五条、はじかみ()()給び了んぬ。いつもの御事に候へばを()ろかれず、めづら()しからぬやうにうちをぼへて候は、ぼむ()()の心なり。()けん()そうそう(怱怱)なる上、をゝみや(大宮)つく()られさせ給へば、百姓と申し、我が内の者と申し、()かち()と申し、もの()つく()りと申し、いく()そばくこ()いとま()なく御わたりにて候らむに、山のなかのすま()()さこそとをも()ひやらせ給ひて、とり()かい()()をやしなうがごとく、ともしび()あぶら()をそうるがごとく、()れたるくさ()あめ()のふるがごとく、()へたる子に()をあたうるがごとく、法華経の御いのちをつがせ給ふ事、三世の諸仏を供養し給へるにてあるなり。十方の衆生の眼を開く功徳にて候べし。尊しとも申す計りなし。あなかしこあなかしこ。恐々謹言。
  七月十六日    日蓮 花押
 進上 上野殿御返事
 
 麦一櫃、川海苔五帖、しょうが六十、たしかに受け取りました。
いつものことなので驚きもせず、珍しいことでもないように思ってしまうのは、凡夫の心のなせるわざである。世間はあわただしいうえ浅間神社が造営されるので、百姓といい屋敷内の者といい、食物の欠乏といい農耕の時といい、どれほどか暇なくすごされているであろうに、身延の山中のすまいはどうであろうかと心配されて、鳥が卵を育むように、灯に油を添えるように、枯れた草に雨が降るように、飢えた子に乳をあたえるように法華経の御命を継がらせたことは三世の諸仏を供養されたことであり、十方の衆生の眼を開く功徳となろう。その尊さは言いようがない。あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。

 七月十六日     日 蓮 花押
 進上 上野殿御返事