南条殿御返事  建治元年七月二日  五四歳

 

第一章 阿那律等の例を引き供養の功徳を述ぶ

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 白麦(しらむぎ)一俵・()白麦(しらむぎ)一俵・河のり五でふ()送り()び候ひ(おわ)んぬ。
 仏の御弟子に阿那(あな)(りつ)尊者と申せし人は、をさ()なくしての御名をば(にょ)()と申す。如意と申すは心のおもひのたから()をふらしゝゆへなり。このよしを仏にとひまいらせ給ひしかば、昔()えたる()に、縁覚と申す聖人を、ひえ()はん()をもて、供養しまいらせしゆへと答へさせ給ふ。迦葉尊者と申せし人は、仏についでも(えん)()(だい)第一の僧なり。俗にてをはせし時は長者にて、くら()を六十、そのくら()(こがね)を百四十こく()づつ入れさせ給ふ。それより外のたから申すばかりなし。
 
 白麦一俵と小白麦一俵、河海苔五帖を送っていただいた。
 仏の御弟子に阿那律尊者という人は、幼い時の御名を如意といった。如意と云うのは、心の思いのままに宝を降らしたがゆえである。この由縁を仏にお伺いすると、昔、飢饉の世に縁覚という聖人に稗の飯を供養したからであると答えられた。迦葉尊者という人は、世界第一の僧であり、在俗の身であった時は長者で、蔵を六十もち、その蔵に金を百四十石ずつ入れておかれた。それ以外の財宝は数えきれないほどであった。
 この人のせん()じゃう()の御事を、仏にとひまいらせさせ給ひしかば、むかし()えたる()に、むぎ()はん()を一ぱひ()供養したりしゆへに、(とう)()(てん)に千反生まれて今釈迦仏に()ひまいらせ僧の中の第一とならせ給ひ、
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法華経にて光明如来と名をさづけられさせ給ふと、天台大師文句の第一にしるされて候。
   この人の前世の御事績を仏にお伺い申しあげると、昔、飢饉の世に辟支仏に麦の飯一杯を供養したがゆえに忉利天に千遍生まれ、今、釈迦仏に値って僧の中の第一人者となられ、法華経において光明如来という未来成仏の時の名を授けられたのである。天台大師は法華文句の第一に記されている。

 

第二章 法華経供養の大功徳を示す

 かれをもって此をあん()ずるに、迦葉尊者の麦のはん()はいみじくて光明如来とならせ給ふ。今のだん()()の白麦はいやしくて仏にならず候べきか。
 在世の月は今も月、在世の花は今も花、むかしの功徳は今の功徳なり。その上、上一人より下万民(ばんみん)までににくまれて、山中にうえ()()にゆべき法華経の行者なり。これをふびんとをぼして山河をこえわたり、をくりたびて候御心ざしは、麦にはあらず(こがね)なり、金にはあらず法華経の文字なり。我等が眼にはむぎ()なり。十()せつ()には此のむぎ()をば仏のたね()とこそ御らん候らめ。阿那(あな)(りつ)ひえ()はん()はへんじてうさぎ()となる、うさぎ()へん()じて死人となる、死人へん()じて金となる。指をぬきて()りしかば又いできたりぬ。王の()めのありし時は死人となる。かくのごとくつきずして九十一劫なり。釈()なん()と申せし人の石をとりしかば(こがね)となりき。(こん)ぞく()王はいさご()を金となし給ひき。今のむぎ()は法華経のもん()()なり。又は女人の御ためにはかゞみ()となり、()のかざりとなるべし。男のためにはよろひ()となり、かぶと()となるべし。守護神となりて(ゆみ)()の第一の名をとらるべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐々謹言。
  七月二日    日蓮 花押
 南条殿御返事
   これらのことからこの時光の御供養を考えてみるとき、迦葉尊者の麦の飯は大層すばらしくて光明如来となられ、今の檀那の白麦は卑しくて仏にならないということがあろうか。
 釈尊在世の月は末法当今の月であり、在世の花は今も花であり、昔において功徳となるものは今においても功徳となるのである。そのうえ上一人より下万民にまで憎まれて、山中で飢え死にするであろう法華経の行者である。
 これを憐れと思ってな山河を越え渡り、送っていただいた御心の麦は、麦ではなく金である。金ではなく法華経の文字である。私たちの眼には麦であるが、十羅刹女にあっては、この麦を仏の種と御覧になっているであろう。阿那律が供養した稗の飯は変わって兎となった。兎は変わって死人となり、死人は変わって金となった。金の指を抜き取って売ったところ、また生え出てきた。王の責めがあったときには、死人となった。このように尽きることなく九十一劫を経たのである。釈摩男という人は石を手にとると金となり、金粟王は砂を金となされたという。今の麦は法華経の文字である。または、女性のためには鏡となり、身の装飾となるであろう。男性のためには鎧となり兜となるであろう。守護神となって弓箭の第一人者との名をえるであろう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。恐恐謹言。
  七月二日    日 蓮 花押
 南条殿御返事
  追申
 この()の中は、いみじかりし時は何事かあるべきと()えしかども、当時はことにあぶ()()()え候ぞ。いかなる事ありともなげ()かせ給ふべからず。ふつとおも()ひきりて、()りょう()なんどもたが()ふ事あらば、いよいよ悦びとこそおもひて、うち()うそ()ぶきてこれへわたらせ給へ。所地しらぬ人もあまりにすぎ候ぞ。
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当時つく()()へむかひてなげ()く人々は、いかばかりとかおぼす。これは皆日蓮を、かみのあな()づらせ給ひしゆへなり。
   追申
 この世の中は、大層よい状態の時は何事もありえないように見えたけれども、このごろはとくに危ないように思われる。どのような事があっても嘆かれてはならない。きっぱりと思いきって所領などについても、自分の思いと相違することが起こったならば、いよいよこれこそ悦ぶべき事であると思って、そらうそぶいて、身延へおいでなさい。
 所領の土地を領有しない人も非常に多くなってきている。今日、筑紫へおもむいて嘆く人々の心中の思いは、いかばかりであろうか。これも皆、日蓮を国主が侮られたからである。