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(★882㌻) 仏の御弟子に |
白麦一俵と小白麦一俵、河海苔五帖を送っていただいた。 仏の御弟子に阿那律尊者という人は、幼い時の御名を如意といった。如意と云うのは、心の思いのままに宝を降らしたがゆえである。この由縁を仏にお伺いすると、昔、飢饉の世に縁覚という聖人に稗の飯を供養したからであると答えられた。迦葉尊者という人は、世界第一の僧であり、在俗の身であった時は長者で、蔵を六十もち、その蔵に金を百四十石ずつ入れておかれた。それ以外の財宝は数えきれないほどであった。 |
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この人の (★883㌻) 法華経にて光明如来と名をさづけられさせ給ふと、天台大師文句の第一にしるされて候。 |
この人の前世の御事績を仏にお伺い申しあげると、昔、飢饉の世に辟支仏に麦の飯一杯を供養したがゆえに忉利天に千遍生まれ、今、釈迦仏に値って僧の中の第一人者となられ、法華経において光明如来という未来成仏の時の名を授けられたのである。天台大師は法華文句の第一に記されている。 |
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かれをもって此を 在世の月は今も月、在世の花は今も花、むかしの功徳は今の功徳なり。その上、上一人より下 七月二日 日蓮 花押 南条殿御返事 |
これらのことからこの時光の御供養を考えてみるとき、迦葉尊者の麦の飯は大層すばらしくて光明如来となられ、今の檀那の白麦は卑しくて仏にならないということがあろうか。 釈尊在世の月は末法当今の月であり、在世の花は今も花であり、昔において功徳となるものは今においても功徳となるのである。そのうえ上一人より下万民にまで憎まれて、山中で飢え死にするであろう法華経の行者である。 これを憐れと思ってな山河を越え渡り、送っていただいた御心の麦は、麦ではなく金である。金ではなく法華経の文字である。私たちの眼には麦であるが、十羅刹女にあっては、この麦を仏の種と御覧になっているであろう。阿那律が供養した稗の飯は変わって兎となった。兎は変わって死人となり、死人は変わって金となった。金の指を抜き取って売ったところ、また生え出てきた。王の責めがあったときには、死人となった。このように尽きることなく九十一劫を経たのである。釈摩男という人は石を手にとると金となり、金粟王は砂を金となされたという。今の麦は法華経の文字である。または、女性のためには鏡となり、身の装飾となるであろう。男性のためには鎧となり兜となるであろう。守護神となって弓箭の第一人者との名をえるであろう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。恐恐謹言。 七月二日 日 蓮 花押 南条殿御返事 |
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追申 この (★884㌻) 当時 |
追申 この世の中は、大層よい状態の時は何事もありえないように見えたけれども、このごろはとくに危ないように思われる。どのような事があっても嘆かれてはならない。きっぱりと思いきって所領などについても、自分の思いと相違することが起こったならば、いよいよこれこそ悦ぶべき事であると思って、そらうそぶいて、身延へおいでなさい。 所領の土地を領有しない人も非常に多くなってきている。今日、筑紫へおもむいて嘆く人々の心中の思いは、いかばかりであろうか。これも皆、日蓮を国主が侮られたからである。 |