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(★794㌻) 方便品の長行書き進らせ候。先に進せ候ひし自我偈に相副へて読みたまふべし。此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり。然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり。例せば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれど果報に随って別々なり。此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る、二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧有るべきなり。即持仏身とは是なり。されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給ふを破し奉るなり。唯相構へ相構へて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし。委細は見参の時を期し候。恐々謹言。 文永十二年三月 日 日蓮花押 曾谷入道殿 |
方便品の長行を書写して差し上げた。先に差し上げた自我偈に添えて読まれるように。この法華経の文字は一字一字、ことごとく生身の妙覚の仏である。しかしながら、我等凡夫の肉眼なので、ただ、文字と見るのである。例えば餓鬼道のものは恒河を火と見、人間は水と見、天人は甘露と見る。水は同じでも、見る者の果報によって別々なのである。それと同じように、この経の文字は盲目の者はこれを見ることができず、肉眼の者は文字と見、二乗は虚空と見、菩薩は無量の法門と見、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧になるのである。経に「即持仏身」とあるのはこのことである。けれども僻見の行者はこのように尊い御経を破っているのである。ただ用心に用心をして異念なく一心に霊山浄土に参られるよう期せられるべきである。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文である。委細はお会いした時に申し上げる。恐恐謹言。 文永十二年三月 日 日蓮花押 曾谷入道殿 |