四条金吾殿御返事 文永一二年三月六日 五四歳

別名『此経難持書』

 

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 「此経(しきょう)難持(なんじ)」の事、(そもそも)(べん)阿闍梨(あじゃり)が申し候は、貴辺のかた()らせ給ふ様に(たも)たん者は「現世(げんぜ)安穏(あんのん)後生(ごしょう)善処(ぜんしょ)」と承って、すでに去年より今日まで、かたの如く信心をいたし申し候処に、さにては無くして大難雨の如く来たり候と云云。まこと()にてや候らん、又弁公がいつはりにて候やらん。いかさまよきついでに不審をはらし奉らん。
 
 「此経難持」の事、弁阿闍梨日昭がいうには「私(四条金吾)はあなた(日昭)がいわれる通りに、法華経を持つ者は『現世は安穏にして後には善処に生まれる』と承って、すでに去る年から今日まで、型どうりに信心をしてきましたところが、現世安穏ではなくて、大難が雨のように降ってきました」といっていたとか。はたして、あなたが本当にいったことであろうか。それとも、日昭の報告が偽りなのであろうか。どちらにしても、よいついでであるから不審を晴らしましょう。
 法華経の文に「難信(なんしん)難解(なんげ)」と説き玉ふは是なり。此の経を()()くる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども「憶持(おくじ)不忘(ふもう)」の人は(まれ)なるなり。受くるは()すく、持つはかた()し。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に()ふべしと心得て持つなり。「則為(そくい)疾得(しっとく)無上(むじょう)仏道(ぶつどう)」は疑ひ無し。三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持つとは云ふなり。経に云はく「護持(ごじ)仏所嘱(ぶっしょぞく)」といへり。天台大師の云はく「信力の故に受け
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念力の故に持つ」云云。又云はく「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す、諸仏も(また)(しか)なり」云云。
   法華経法師品第十の文に「法華経は信じ難く理解しがたい」と説かれているのは、このことをいうのである。法華経を聞き受ける人は多い。だが、真実に聞き信受して、どんな大難がきても、この法華経をつねに憶い持って忘れない人はまれである。受けることはやさしいが、持つことはむずかしい。したがって、成仏は持ちつづけることにある。それゆえ、この法華経を持つ人は必ず難に値うのだと心得て持つべきである。法華経見宝搭品第十一に「法華経を暫くも持つ者は則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」ことは疑いないのである。
 三世の諸仏の大事である南無妙法蓮華経を念ずることを持つというのである。法華経勧持品第十三には「仏の所属を護持する」といっている。天台大師は法華文句巻八では「信力のゆえに受け、念力のゆえに持つ」といっている。また見宝搭品第十一には「法華経は持ちがたい。もし暫くも持つ者は、我、即ち歓喜す。諸仏もまた歓喜するのである」と説いている。
 火にたきゞ()を加ふる時はさか()んなり。大風吹けば求羅(ぐら)は倍増するなり。松は万年のよはひ()を持つ故に枝を()げらる。法華経の行者は火とぐら(求羅)との如し。薪と風とは大難の如し。法華経の行者は久遠長寿の如来なり。修行の枝を()られ()げられん事疑ひなかるべし。此より後は「此経(しきょう)難持(なんじ)」の四字を暫時(ざんじ)わす()れず案じ給ふべし。恐々。
  三月六日    日蓮 花押
 四条金吾殿
   火に薪を加える時には火は盛んに燃える。大風が吹けば求羅は倍増するのである。松は万年の長寿を持つゆえに枝をまげられる法華経の行者は火と求羅ようなもので、薪と風とは大難のようなものである。
 法華経の行者は久遠長寿の如来である。ゆえに松の枝を切られ、曲げられることは疑いないのである。これより以後は「此経難持」の四字を暫時も忘れずに案じていきなさい。恐恐。
  文永十二年乙亥三月六日    日蓮花押
 四条金吾殿