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(★773㌻) 今度の御使ひ誠に御志の程顕はれ候ひ了んぬ。又種々の御志慥かに給び候ひ了んぬ。 抑承り候当世の天台宗等、止観は法華経に勝れ禅宗は止観に勝る、又観心の大教興る時は本迹の大教を捨つと云ふ事。 |
このたびのお使いは、まことに御志があらわれておりました。また、種々の御志の御供養をたしかに頂戴いたしました。 さて、お手紙で、現在の天台宗等が「止観は法華経に勝れ、禅宗は止観よりも勝れる」また「観心の大教が興るときは、法華経本門・法華経迹門の大教を捨てるのである」ということについて拝見しました。 |
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先づ天台一宗に於て流々各別なりと雖も、慧心・檀那の両流を出でず候なり。慧心流の義に云はく、止観の一部は本迹二門に亘るなり。謂はく、止観の六に云はく「観は仏知に名づけ、止は仏見に名づく。念々の中に於て止観現前す。乃至三乗の近執を除く」文。弘決の五に云はく「十法既に是法華の所乗なり。 (★774㌻) 是の故に還って法華の文を用ひて歎ず。若し迹に約して説かば、即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し、寂滅道場を以て妙悟と為す。若し本門に約せば、我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し、本成仏の時を以て妙悟と為す。本迹二門は只是此の十法を求悟す」文。始めの一文は本門に限ると見えたり。次の文は正しく本迹に亘ると見えたり。止観は本迹に亘ると云ふ事、文証此に依るなりと云へり。次に檀那流に止観は迹門に限ると云ふ証拠は、弘決の三に云はく「還って教味を借りて以て妙円を顕はす。故に知んぬ、一部の文共に円乗の開権妙観を成ず」文。此の文に依らば、止観は法華の迹門に限ると云ふ事、文に在って分明なり。両流の異義替はれども倶に本迹を出でず。当世の天台宗何くより相承して止観は法華経に勝ると云ふや。但予が所存は止観・法華の勝劣は天地雲泥なり。若し与へて之を論ぜば止観は法華迹門の分斉に似たり。其の故は天台大師の己証とは、十徳の中の第一は自解仏乗、第九は玄悟法華円意なり。霊応伝の第四に云はく「法華の行を受けて二七日境界す」文。止観の一に云はく「此の止観は天台智者、己心中所行の法門を説く」文。両流の異義替はれども倶に本迹を出でず。 |
まず、天台宗のなかにさまざまな流派があり、その主張が別であるといっても、慧心流・檀那流の二つの流派の域を出ることはないのである。 慧心流の義では、「止観一部は本迹二門にわたる」といい、次の文をその文証としている。 摩訶止観巻六に「止観の観は仏知と名づけ、止は仏見と名づける。瞬間瞬間の一念のなかに止観があらわれるのである。乃至。ただし三乗のなかの始成正覚に執着している者を除く」とあり、止観輔行伝弘決巻五に「十乗観法は既に法華経で説かれているところのものである。このために立ち還って法華経の文を用いて賛嘆しているのである。法華経迹門からみれば、大通智勝仏の時に『何劫にもわたる修行を積んだ』とし、寂滅道場で『思議しがたい悟りを得た』とするのである。法華経本門からみれば我本行菩薩道の時に『何劫にもわたる修行を積んだ』とし五百塵点劫の成道の時に『思議しがたい悟りを得た』とするのである。法華経の本迹二門は、ただこの十乗観法の求道の証悟を説いているのである」とある。 初めの文では、「止観は法華経本門に限る」としており、次の文では「止観はまさしく法華経本門・法華経迹門にわたる」としていることが分かる。ゆえに、これらは止観が法華経本門・迹門にわたるということの文証である、といっている。 つぎに檀那流は、「止観は迹門に限る」といっている。その証拠は止観輔行伝弘決巻三の「立ち還って四教や五味を借り妙円を顕すのである。○。ゆえに、一部の文はともに円成の権を開いて妙観を成じているのを知るのである」の文である。この文によれば、「止観は法華経の迹門に限る」ということが明らかである、とする。 慧心・檀那の二つの流派の義は異なっていても、ともに法華経本門、法華経迹門を出るものではない。 |
| 当世の天台宗何くより相承して止観は法華経に勝ると云ふや。但予が所存は止観・法華の勝劣は天地雲泥なり。 | 現在の天台宗はどこから相承して、「止観は法華経に勝れる」というのか。ただし日蓮が存じているところでは、止観と法華経の勝劣は天地雲泥である。 | |
| 若し与へて之を論ぜば止観は法華迹門の分斉に似たり。其の故は天台大師の己証とは、十徳の中の第一は自解仏乗、第九は玄悟法華円意なり。霊応伝の第四に云はく「法華の行を受けて二七日境界す」文。止観の一に云はく「此の止観は天台智者、己心中所行の法門を説く」文。弘決の五に云はく「故に止観の正しく観法を明かすに至って、並びに三千を以て指南と為す。故に序の中に云はく、説己心中所行法門」文。己心所行の法門とは一念三千・一心三観なり。三諦止観の名義は瓔珞・仁王の二経に有りと雖も、一心三観・一念三千等の己心所行の法門をば、迹門の十如実相の文を依文として釈成し給ひ了んぬ。 |
もし、与えてこれを論ずるならば、止観は法華経の迹門の内容に似ている。それは天台大師の己心に証得したものは、天台大師の十徳のなかでいえば、第一の「自ら仏乗を解す」であり、第九の「法華の円意を玄悟す」である。 天台霊応図本伝集の巻四には「法華教を修行することを二週間にして、己心の境界に入った」といい、摩訶止観巻一には「この摩訶止観は天台智者大師が己心も中に行ずる法門を説いたものである」といい、止観輔行伝弘決巻五には「ゆえに、摩訶止観に正しく観法を明かすのに、併せて一念三千をもって指南としたのである。○。ゆえに、章安大師が序のなかで『己心中に行ずる法門を説いたものである』といっているのである」といっている。 「己心に行ずる法」とは一念三千・一心三観である。三諦・三観の言葉や意味は瓔珞経・仁王経の二経にあるが、一心三観・一念三千等の己心に行ずる法門は、法華経迹門の十如実相の文を依拠として解釈して説かれたものである。 |
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| 爰に知んぬ、止観一部は迹門の分斉に似たりと云ふ事を。 |
このことから、止観一部は法華経迹門の内容に似ていることを知ることができるのである。 |
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若し奪って之を論ぜば、爾前・権大乗は即ち別教の分斉なり。其の故は天台己証の止観とは道場所得の妙悟なり。所謂天台大師、大蘇の普賢道場に於て三昧を開発し、証を以て師に白す。師の曰く、法華の前方便陀羅尼なりと。霊応伝の第四に云はく「智顗、師に代はって金字経を講ず。一心具足万行の処に至って、顗、疑ひ有り。思、為に釈して曰く、汝が疑ふ所は此乃ち大品次第の意なるのみ。未だ是法華円頓の旨にあらざるなり」文。講ずる所の経、既に権大乗経なり。又「次第」と云へり、故に別教なり。開発せし陀羅尼、又法華の前方便と云へり。 (★775㌻) 故に知んぬ、爾前帯権の経は別教の分斉なりと云ふ事を。己証既に前方便の陀羅尼なり。止観とは「説己心中所行法門」と云ふが故に。明らかに知んぬ、法華の迹門に及ばずと云ふ事を。何に況んや本門をや。 |
もし、奪ってこれを論ずるならば、止観は爾前の権大乗経、つまり別教の分斉である。その理由は天台大師が己心に証得した止観とは、普賢道場で証得した悟りである。 天台大師が大蘇山の普賢道場で三昧の境地を開いて証得した悟りを師の南岳大師に申し上げたところ、南岳大師は「その証得した悟りは法華三昧の前方便にあたる陀羅尼である」といわれている。 このことを、天台霊応図本伝集の巻四には「天台智顗大師が南岳大師に代って金字の大品般若経を講じた。そのとき、『一心具足万行』のところに至って智顗に疑問があった。南岳大師慧思はそのために釈して、『なんじの疑問のところは、大品般若経の次第行の意なのである。これは未だ法華経の円頓の意味ではない』と述べた」とある。 講義した経典が既に権大乗経である。また「次第行」といっているのだから別教である。開悟した陀羅尼は、また法華経の前方便であるといっている。ゆえに、爾前の権教を帯びた経や別教の内容であるということが明らかである。 己心に証得した悟りが既に前方便の陀羅尼であり、止観とは己心の中に行ずる法門を説いたものであるというのだから、止観は法華経の迹門に及ばない。まして法華経の本門に及ばないことを明らかに知ることができるのである。 |
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若し此の意を得ば檀那流の義尤も吉きなり。 此等の趣きを以て止観は法華に勝ると申す邪義をば問答有るべく候か。委細の旨は別に一巻書き進らせ候なり。又日蓮相承の法門血脈、慥かに之を註し奉る。恐々謹言。 二月二十八日 日 蓮 花押 最蓮房御返事 |
もしこの意を知るならば、檀那流の教義が最もよい。これらの趣旨をもって、「止観は法華経に勝れる」という邪義に対して問答するのがよいであろう。 詳しい趣旨は別に一巻、書き送った。また、日蓮の相承の法門、血脈をたしかに註して差し上げた。恐恐謹言。 文永十二乙亥二月二十八日 日蓮花押 最蓮房御返事 |