大白法・平成30年12月1日刊(第994号)より転載 御書解説(224)―背景と大意

立正観抄(766頁)

 

 一、御述作の由来

 本抄は、大聖人様が御年五十四歳の時、京都に住む最蓮房から、当時天台宗で「止観は法華経に勝れ、禅宗は止観に勝る」等の邪義が蔓延(まんえん)していたことについて質問が寄せられ、その返書として、文永十二(1275)年二月、身延において(したた)められ、同月二十八日付の『立正観抄送状』と共に最蓮房に送られています。

 対告衆(たいごうしゅ)の最蓮房は、天台宗の学僧でしたが何らかの理由により佐渡に流罪されており、大聖人様が佐渡御在島中に帰依(きえ)しています。大聖人様が身延入山の後、赦免されて京都に戻りました。大聖人様から『生死一大事血脈抄』『草木成仏口決』『諸法実相抄』『当体義抄』『立正観抄』『十八円満抄』等の重要な法門書を賜っています。

 

 二、本抄の大意

 始めに「法華止観同異決」と標示されます。そして、当世天台の教法を習学する者は多く観心修行を貴んで法華(ほん)(じゃく)二門を捨てていると指摘され、そもそも観心修行とは天台大師の『摩訶止観』に説かれる一心(いっしん)三観(さんかん)・一念三千の観に依るのか、それとも(だる)()禅観(ぜんかん)によるのかという問いを設けられます。

 もし達磨の禅観に依ると言えば、(きょう)()別伝(べつでん)の天魔の禅、無得道・妄語の禅であり(もち)いてはならないと仰せられます。またもし天台の止観の一心三観に依ると言えば、法華経に(そむ)いてはならない。法華経を捨てて、ただ観心のみを正行として用いる者は大謗法・大邪見・天魔の(しょ)()であると述べられ、天台の一心三観は法華経に依って三昧(さんまい)開発(かいはつ)するものであると仰せられます。

 次に、天台大師の止観一部並びに一念三千・一心三観・()(しん)(しょう)(とく)の妙観は、法華経に依るという証拠はあるのかという問いを設けられ、まず法華経に依らずという証文はあるのかと反詰(はんきつ)され、証文を()げられた後、他宗に対する時は、問答大綱を存すべきであり、天台の止観が法華経に依らずというならば、(すみ)やかにそれを捨てよと破折すべきであると述べられます。

 続いて、正しく止観は法華経に依るとする文はあるかとの問いを設けられ、あまりに多い故に少々の文を示すとして『止観』等の証文を挙げられます。

 次に、天台が四種の釈を作る時、観心の釈に至って本迹の釈を捨てたとし、また法華経は(ぜん)()にために説き、止観は直達の機のために説くとすることについて問いを設けられ、今の天台宗の浅ましさは、真言が事理(じり)()(みつ)の故に法華経に勝ると思っていることである。それ故、止観が法華経に勝ると思ってしまうのであろうと述べられます。

 そして、天台が観心の釈の時に本迹の釈を捨てたという難については、法華経のどこに(にん)()の釈を本として仏教を捨てよと説かれているのかと述べられ、たとえ天台の釈であっても法華経に背いたならば用いてはならないと(かっぱ)破されます。その上、天台の釈(四重興廃)の意は、本体の本法を妙法不思議の一法に取り定めて修行を立てるのであり、像法の修行は観心の修行を詮とすると仰せられ、迹は広く本は高い故に「但己心の妙法を観ぜよ」と釈されたのであり、妙法を捨てよとは釈されていないと述べられ、当世の天台宗の学者は、天台の教釈を習い失って法華経に背き、大謗法の罪を得ると破折されます。そして、もし止観が法華経に勝るというならば種々の(とが)があるとして、四つの過を示されます。

 さらに、天台の「教(いよいよ)実なれば位(いよいよ)(ひく)し」の文を挙げられ、止観は上機のために説き、法華は下機のために説くと言えば、止観は法華に劣るから機を高く説いたことになると指摘し、天台は迹化の衆なるが故に本化の()(ぞく)を弘めず、妙法を止観と説きまぎらかすと教示されます。そして、天台弘通の所化の機は在世帯権(たいごん)(えん)()と同様であり、本化弘通の所化の機は法華本門の(じっ)()であると教示されます。当世の天台宗の中で「止観は法華経に勝る」という邪義を言う人は、始祖天台に対する不知恩の過を(まぬが)れず、また(とが)なき天台に失を被せる大罪を犯していると述べられます。

 次に、天台大師の本意は何の法であるかとの問いを設けられ、碩学(せきがく)等は一心三観と言うが、これは行者の修行の方法であり、一心三観は果地・果徳を成ずるための能観の心であると示され、如来の果地・果徳の妙法に対すれば可思議の三観であると述べられます。

 次に、一心三観より優れた法とは何かと言えば、一大事の法門であり、その法体は所詮の功徳であり、三観は行者の観門である故に、妙法は一心三観に勝れることを明かされ、三諦・三観・三千・不思議法と言うも天台の己証は天台の思慮の及ぶ法門であり、妙法は諸仏の師・久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして、()(ぜん)迹門の教主・諸仏・菩薩の境界ではないことを説示されます。

 次に、天台大師は一言の妙法を証得されていたのかという問いを設けられ、内証においては証得されていたが、それを秘して()(ゆう)には三観と号し、一念三千の法門を示現されたと述べられ、また知りながら弘通しなかった理由として、①時至らざるが故、②付嘱に(あら)ざる故、③(しゃっ)()なるが故の三つを明かされています。さらに、天台大師が一言の妙法を証得していた証拠として、天台大師の『(かん)(じょう)(げん)()血脈』と伝教大師の『註血脈』の文を挙げられ、一心三観とは所詮、妙法を成就するための修行の方便であると説き明かされます。

 そして、天台()(ごく)の法門は法華本迹末分の(しょ)に無念の止観を立て、最秘も上法とするという邪義は大(びゃっ)(けん)であると説かれ、さらに止観は法華経に依らずと言うのは、天台の止観を教外別伝の達磨の邪法に動ずる愚であると述べられます。
 次に、伝教大師の『顕戒論』の文を引かれ、もし天台の止観が法華経に依らないと言うのであれば日本において伝教大師に背き、漢土においては天台大師に背くものであり、当世の天台家の人々はその名を天台山に借りるが、学ぶところの法門は達磨の僻見と(ぜん)無畏(むい)の妄語とに依ると述べられます。そして、その大謗法罪が顕われて、止観は法華経に勝るという邪義を言い出し、失なき天台に失を被せている。それゆえ高祖に背く不孝者、法華経に背く大謗法罪の者となると仰せられます。

 次に、天台の観法は、法華経の迹本二門の修行は広高にして行者の及ぶところではないため己心の妙法を観ずるというものであったが、当世の学者は天台己証の妙法を習い失い、止観は法華経に勝り、禅宗は止観に勝れると思い込み、法華経を捨てて止観に付き、止観を捨てて禅宗に付いていると述べられます。

 さらに、法華経の仏は寿命無量・常住不滅の仏であるが、禅宗はこれを滅度の仏と見る故に外道の無の(けん)に堕しているのであり、また禅は法華経の方便であり、無得道であるにもかかわらず、禅宗はこれを真実常住の法と言う故に外道の(じょう)(けん)となると仰せられます。

 そして、もし(あた)えて言えば、禅は仏の方便・三蔵教の分際(ぶんざい)であり、もし(うば)って言うならば、禅は外道の邪法であると示され、与は当分の義、(だつ)は法華の義であり、この法華の奪の義に依れば禅は天魔外道の法であると破折され、最後にその証拠は前々に申した通りであると述べられて、本抄を終えられています。

 

 三、拝読のポイント

 末法適時の大法とは

 大聖人様は本抄において、天台大師は一言の妙法を内証に証得されていたが、それを秘して外用には一心三観、一念三千の法門を示現された(内鑑(ないがん)冷燃(れいねん)()(ちゃく)時宜(じぎ))と教示されています。天台大師や伝教大師の教えは、像法時代には衆生を利益することができましたが、末法の時代にはその力はありません。

 大聖人様が『上野殿御返事』に、

今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん()なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書1219頁)

と仰せのように、末法においては大聖人様が説かれた南無妙法蓮華経の教えを信仰することが成仏のための唯一の道なのです。 

 天台の法門は迹面本裏

 また、天台大師は法華経の教理をもとに一念三千の法門を説きましたが、天台の教えは、法華経の迹門を(おもて)とし本門を裏とした「(しゃく)(めん)(ほん)()」の教えです。この迹門(じゅく)(やく)・理の一念三千に対して、大聖人様は本門寿量文底下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経の法門を説き明かされました。これこそ天台の教えよりはるかに勝れた最勝深秘の教えであり、末法の衆生に成仏の大利益をもたらす究極の教えなのです。

 

 四、結  び

 御法主日如上人猊下は、

末法本未有善の衆生は、この久遠元初の御本仏宗祖日蓮大聖人の寿量文底秘沈の妙法蓮華経をもって下種され、初めて即身成仏がかなえられるのであります」(大白法795号)

と、御指南されています。

 末法の時機に(かな)った妙法の下種を受けた私たちは、即身成仏の境界を得るため、いよいよ自行化他の信心に邁進することが肝要です。