可延定業御書 文永一二年二月七日  五四歳

別名『可延定業書』

第一章 定業を延ぶる方途を示す

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 (それ)病に二あり。一には軽病、二には重病。重病すら(ぜん)()()ひて急に対治すれば命猶存す。(いか)(いわ)んや軽病をや。(ごう)に二あり。一には(じょう)(ごう)、二には()(じょう)(ごう)。定業すら()く能く(ざん)()すれば必ず消滅す。何に況んや不定業をや。法華経第七に云はく「此の経は則ち()(えん)()(だい)の人の病の良薬なり」等云云。此の経文は法華経の文なり。一代の聖教は皆如来の金言、無量劫より已来(このかた)()(もう)()の言なり。就中(なかんづく)此の法華経は仏の(しょう)直捨方便(じきしゃほうべん)と申して真実が中の真実なり。多宝証明を加へ、諸仏舌相(ぜっそう)を添へ給ふ、いかでかむなしかるべき。其の上最第一の秘事はんべり。此の経文は後五百歳、二千五百余年の時、女人の病あらんと()かれて候文なり。()(じゃ)()王は御年五十の二月十五日、大悪瘡(だいあくそう)、身に出来せり。大医耆婆(ぎば)が力も及ばず、三月七日必ず死して()間大(けんだい)(じょう)()つべかりき。五十余年が間の大楽(だいらく)一時に(めっ)して、一生の大苦三七(さんしち)日にあつまれり。(じょう)(ごう)限りありしかども仏、法華経をかさねて演説して、()(はん)経となづけて大王にあたえ給ひしかば、身の病(たちまち)ちに(へい)()し、心の重罪も一時に露と消えにき。仏滅後一千五百余年、陳臣(ちんしん)と申す人ありき。命()(めい)にありと申して五十年に定まりて候ひしが、天台大師に()ひて十五年の命を宣べて六十五までをはしき。其の上、()(きょう)()(さつ)更増(きょうぞう)寿(じゅ)(みょう)ととかれて、法華経を行じて定業をのべ給ひき。彼等は皆男子なり。女人にはあらざれども、法華経を行じて寿(いのち)をのぶ。又陳臣(ちんしん)は後五百歳にもあたらず。冬の稲米(とうまい)、夏の(きっ)()のごとし。当時の女人の法華経を行じて定業を転ずることは秋の稲米、冬の菊花、誰かをど()ろくべき。されば日蓮悲母(はは)いの()りて候ひしかば、現身(げんしん)に病をいやすのみならず、四箇年の寿命を()べたり。今女人の御身として病を身にうけさせ給ふ。心みに法華経の信心を立てゝ御らむ()あるべし。

第二章 生命の尊厳を教示す

しかも善医あり。(なか)(つかさ)三郎左衛門
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尉殿は法華経の行者なり。命と申す物は一身(いっしん)第一の珍宝なり。一日なりともこれを()ぶるならば千万両の金にもすぎたり。法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへ()ぞかし。(えん)()第一の太子なれども短命なれば草よりもかろ()し。日輪のごとくなる智者なれども夭死(わかじに)あれば()ける犬に劣る。早く心ざしの財をかさねて、いそぎいそぎ御対治あるべし。此よりも申すべけれども、人は申すによて()き事もあり、又我が志のうすきかと、をもう者もあり。人の心()りがたき上、先々(さきざき)に少々かゝる事候。此の人は、人の申せばすこ()し心()ずげに思ふ人なり。なかなか申すはあしかりぬべし。但なか()うど()もなく、ひらなさけに、又心もなく()たの()ませ給へ。去年(こぞ)の十月これに来たりて候ひしが、御所労(しょろう)の事をよくよくなげ()き申せしなり。当時大事のなければをどろかせ給はぬにや、明年正月二月のころ()をひは必ずをこ()るべしと申せしかば、これにもなげき入って候。

 富木殿も此の尼ごぜんをこそ(つえ)(はしら)とも(たの)みたるに、なんど申して候ひしなり。随分にわび候ひしぞ。きわめてまけじ(不負)だまし()の人にて、我がかたの事をば大事と申す人なり。かへすがへす身の(たから)をだに()しませ給はゞ此の病治しがた()かるべし。一日の命は三千界の財にもすぎて候なり。先づ御志をみゝ()させ給ふべし。法華経の第七の巻に、三千大千世界の財を供養するよりも手の一指を焼きて仏・法華経に供養せよと()かれて候はこれなり。命は三千にもすぎて候。而るに(よわい)もいまだたけさせ給はず、而も法華経にあわせ給ひぬ。一日もいきてをは(御座)せば功徳()もるべし。あら()しの命や、あらをしの命や。御姓名並びに御年を我と()ゝせ給ひて、わざとつかわせ。大日月天に申しあぐべし。いよ(伊予)どの(殿)もあながちになげ()き候へば、日月天に自我偈をあて候はんずるなり。恐々謹言

    日蓮 花押
 尼ごぜん御返事