四条金吾殿女房御返事 文永一二年一月二七日 五四歳

夫婦同心御書

 

第一章 法華経の行者の立ち場を説く

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 所詮(しょせん)日本国の一切衆生の目をぬき(たましい)まど()はかす邪法は真言師にはすぎず。是は(しばらく)く之を置く。十喩(じゅうゆ)は一切経と法華経との勝劣を説かせ給ふと見えたれども、仏の御心はさには候はず。一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星(しゅしょう)灯炬(とうこ)のごとしと申す事を(せん)(おぼ)しめされて候。
 
 詮ずるところ、日本国の一切の人々の目をぬき、魂をくるわせる邪法は、真言師の修する法に過ぎるものはない。しかし、このことはしばらく置く。
 法華経薬王品に説かれている十喩をみるに、一切経と法華経との勝劣を説かれたように見えるが、仏の御本意は実はそうではない。それは法を持つ人の立ち場から、一切経の行者と法華経の行者とを比較して、法華経の行者は日月等のごとく勝れ、諸経の行者は衆星や燈炬のごとく劣るということをあらわすことを、その所詮とされたのである。
 なにをもってこれをしるとならば、第八の(たと)への下に一つの最大事の文あり。所謂(いわゆる)此の経文に云はく「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復(またまた)(かく)くの如し。一切衆生の中に於て(また)()れ第一なり」等云云。此の二十二字は一経第一の肝心(かんじん)なり、一切衆生の目なり。文の心は法華経の行者は日月・大梵王(だいぼんのう)・仏のごとし、大日経の行者は衆星・江河(こうが)・凡夫のごとしと()かれて候経文なり。されば此の世の中の男女僧尼は嫌ふべからず、法華経を(たも)たせ給ふ人は一切衆生のしう()とこそ仏は御らん()候らめ、梵王・帝釈はあを()がせ給ふらめとうれしさ申すばかりなし。    どうしてそれがわかるかといえば、十喩の中の第八番目の譬喩の次下に最大事の文がある。その経文に「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是の如し。一切衆生の中に於いて、亦為れ第一なり」等と説かれているのが、それである。
 この二十二字の文は、法華経一経の中で第一の肝心の文である。また一切衆生にとって眼目というべき文である。この文の意は、法華経の行者は日月や大梵王・仏のごとく勝れ、大日経の行者は衆星・江河・凡夫のごとく劣るのであると、説かれた経文なのである。
 ゆえに、この世の中で法華経を持つ者は、男女・僧尼を問わず、一切衆生の主に当たると、仏は御覧になっているであろう。また梵王・帝釈もこの人を尊敬されるであろうと思えば、嬉しさは申しようもない。

 

第二章 真実の女人成仏を明かす

 又この経文を昼夜に案じ朝夕によみ候ヘば、常の法華経の行者にては候はぬにはんベり。「是経(ぜきょう)典者(てんしゃ)」とて(しゃ)の文字はひと()()み候ヘば、此の世の中の比丘・比丘尼・うば(優婆)塞・うばい(優婆夷)の中に、法華経を信じまいらせ候人々かと()まいらせ候ヘば、さにては候はず、次下(つぎしも)の経文に、此の(しゃ)の文字を仏かさ()ねて()かせ給ひて候には「若有(にゃくう)女人(にょにん)」ととかれて候。    またこの経文を昼夜に思索し、朝夕に読んでみると、この経文に説かれている行者とは一般にいう法華経の行者ではないのである。経文の、是経典者(是の経典を持つ者)とある、その「者」の文字は、人と読むので、この世の中の僧や尼あるいは在家の男女の中で、法華経を信ずる人々をいうのかと思ってみたが、そうではない。次下の経文に、この「者」の文字を仏が重ねて説かれるには「若し女人有って」とある。すなわち法華経を持つ女性について述べられているのである。
 日蓮法華経より外の一切経を()候には、女人とはなりたくも候はず、或経には女人をば地獄の使ひと定められ、或経には大蛇ととかれ、或経にはまが()れ木のごとし、或経には仏の種を()れる者とこそ()かれて候へ。仏法のみならず外典にも栄啓(えいけい)()と申せし(もの)三楽をうたいし中に、()女楽(じょらく)と申して天地の中に女人と生まれざる事を楽とこそたてられて候ヘ。わざわ()いは三女より()これりと定められて候に、
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此の法華経計りに、此の経を(たも)つ女人は一切の女人に()ぎたるのみならず、一切の男子に()えたりとみへて候。
   日蓮は法華経以外の一切経をみる時には、女性とはなりたくもないと思う。ある経には女性を地獄の使いと定められ、ある経には大蛇と説かれ、ある経にはまがれ木のようだと説かれ、ある経には仏種をいってしまった者と説かれている。
 仏法だけでなく外典も、たとえば中国・春秋時代の栄啓期という者が三楽をうたっているが、その中に無女楽といって、この世の中に女性と生まれなかったことを一つの楽として挙げているのである。また中国では、わざわいは三女から起こったと定められているが、この法華経のみには、この経を受持する女性は、他の一切の女性にすぐれるだけでなく、一切の男子にも超えていると、説かれている。
 せん()ずるところは一切の人にそし()られて候よりも、女人の御ためには、いとを()しとをもわしき男に、ふびんとをも()われたらんにはすぎじ。一切の人はにく()まばにくめ、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏乃至梵王(ぼんのう)帝釈(たいしゃく)・日月等にだにも、ふびんとをもわれまいらせなば、なにくるし。法華経にだにもほめ()られたてまつりなば、なにかたつまじかるベき。    詮ずるところ、たとえ一切の人に憎まれたとしても、女性にとっては最愛と思う夫に可愛いと思われたなら本望であろう。それと同様に、一切の人に憎まれても、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏や梵王・帝釈・日月等に可愛いと思われるならば、何の不足があろうか。ましてや法華経にほめられるならば、何の不足もあるわけはない。

 

第三章 夫人の信心を激励する

 今三十三の御やく()とて、御ふせ(布施)をく()()びて候へば、釈迦仏・法華経・日天の御まえ()に申しあげ候ひぬ。人の身には左右の肩あり。このかたに二つの神をは()します。一をば同名神(どうみょうしん)、二をば同生神(どうしょうしん)と申す。此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまぼ()らせんがために、母の腹の内に入りしよりこのかた一生を()わるまで、影のごとく眼のごとくつき随ひて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば、つゆ()ちり()ばかりものこ()さず、天にうたヘまいらせ候なるぞ。    今年あなたは三十三歳の厄であるからと、御供養を送ってこられたので、釈迦仏・法華経・日天の御前にささげ、あなたの信心の志を申し上げました。
 また、人の身には左右の肩がある。この両肩に二神がおられる。一を同名、二を同生という。この二神は梵天・帝釈・日月等が、人を守らせるためにつけた神で、人が母の胎内に宿った時から一生を終るまで、影のように、人の眼のようにつき随っているのであるが、人が悪行を作り、善業をしたことなどを、露・塵ほども残さず、これを諸天に訴えるのである。 
 華厳経の文にて候を止観の第八に天台大師よませ給ヘり。但し信心のよは()きものをば、法華経を(たも)つ女人なれども()つるとみへて候。(れい)せば大将軍心ゆわ()ければしたが()ふものもかい(甲斐)なし。ゆみ()ゆわ()ければつる()()るし、風ゆるなればなみ()ちひ()さきは()ねん()だう()()なり。しかるにさゑ(左衛)もんどの(門殿)は俗のなかには日本にかた()なら()ぶベき物もなき法華経の信者なり。これに()つれ()させ給ひぬるは日本第一の女人なり。法華経の御ためには竜女とこそ仏はをぼ()()され候らめ。女と申す文字をばかゝ()るとよみ候。藤の松にかゝ()り、女の男にかゝ()るも、今は左衛門殿を師とせさせ給ひて、法華経ヘみちび()かれさせ給ひ候ヘ。
 
   これらのことは華厳経の文に説かれている。天台大師は魔訶止観の第八でにこれを引用して説かれている。
 但し信心の弱いものは法華経を受持する女性といえども、捨てると書かれている。例えば大将軍の心が弱ければ従卒も不甲斐ない。弓が弱ければ絃もゆるい。風が弱ければ波も小さいのは自然の道理である。
 ところで、左衛門殿は在俗の中では日本国には肩を並べる者もない強信な法華経の信者である。この夫に連れ添われるあなたも日本第一の女性である。法華経の御ためには、竜女にも匹敵する健気な女性であると仏はおもわれているであろう。女という文字はかかると読む。藤は松にかかり、女は男にかかるものであるから、今はあなたは左衛門殿を師とされて、法華経の信心を導かれていきなさい。
 
 又三十三のやく()は転じて三十三のさいは()ひとならせ給ふべし。七難即滅七福即生とは是なり。年はわか()うなり、福はかさ()なり候ベし、あなかしこ、あなかしこ。
  正月二十七日    日 蓮 花押
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  四条金吾殿女房御返事
   また三十三の厄は転じて三十三の福となるであろう。「七難即滅・七福即生」というのはこれである。年は若返り、福は重なるでしょう。あなかしこ・あなかしこ。
  正月二十七日    日蓮花押
 四条金吾殿女房御返事