上野殿御返事  文永一一年一一月一一日  五三歳

別名『二管抄』

第一章 末法の法華経の行者供養の功徳を示す

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 聖人(すみざけ)二管(ふたつつ)(こう)()()菎若(こんにゃく)十枚・薯蕷(やまのいも)()()(ぼう)十束、種々の物送り給び候。
 得勝(とくしょう)()(しょう)の二童子は仏に(すな)(もちい)を供養したてまつりて(えん)()(だい)三分が一の主となる。所謂(いわゆる)阿育大王これなり。儒童(じゅどう)()(さつ)錠光(じょうこう)(ぶつ)()(きょう)の蓮華を供養したてまつりて仏となる。今の教主釈尊これなり。法華経の第四に云はく
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「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在って無数の偈を以て()めん。是の讃仏(さんぶつ)に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福(また)彼に過ぎん」等云云。文の心は、仏を一劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあなが()ちににく()む法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりと()かせ給ふ。たれ()の人のかゝるひが()事をばおほ()せらるゝぞと疑ひおもひ候へば、教主釈尊の我とおほ()せられて候なり。疑はんとも信ぜんとも御心にまかせまい()らする。仏の御舌は或は(おもて)(おお)ひ、或は三千大千世界に覆ひ、或は(しき)()(きょう)(てん)までも付け給ふ。過去遠々劫(おんのんごう)よりこのかた一言も(もう)()のましまさゞるゆへなり。されば或る経に云はく「須弥山はくづ()るとも大地をば()かへ()すとも仏には妄語なし」ととかれたり。日は西よりいづとも大海の潮は()()ずとも仏の()(ことば)あやま()りなしとかや。其の上此の法華経は他経にもすぐれさせ給へば、多宝仏も証明し、諸仏も舌を梵天につけ給ふ。一字一点も妄語は候まじきにや。 

第二章 時光が親父の跡を継ぐを喜ぶ

 其の上殿はをさ()なくをはしき。故親父は武士なりしかどもあながちに法華経を尊み給ひしかば、臨終正念なりけるよしうけ給はりき。其の親の跡を()がせ給ひて又此の経を御信用あれば、()聖霊いかに草のかげにても喜びおぼすらん。あはれ()きてをはせばいかにうれ()しかるべき。此の経を持つ人々は他人なれども同じ霊山(りょうぜん)へまいりあはせ給ふなり。いかにいはんや故聖霊も殿も同じく法華経を信ぜさせ給へば、同じところに生まれさせ給ふべし。いかなれば、他人は五六十までも親と同じしら()()なる人もあり、我がわか()き身に、親にはや()くをくれて教訓をも()け給はらざるらんと、御心のうち()しはかるこそなみだ()()まり候はね。

第三章 念仏・禅・真言を亡国の悪法と明かす

 (そもそも)日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども、日本国の上下万人一同に、国のほろぶべきゆへにや用ひられざる上、度々あだ()をなさるれば力をよばず山林にまじ()はり候ひぬ。大蒙古国よりよせ()て候と申せば、申せし事を御用ひあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)()しま()のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず。
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 念仏宗と申すは亡国の悪法なり。このいくさ()には大体人々の自害をし候はんずるなり。善導と申す愚癡の法師がひろ()めはじめて自害をして候ゆへに、念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ。禅宗と申し当時の持斎法師等は天魔の(しょ)()なり、教外別伝と申して、神も仏もなしなんど申すものぐる()はしき悪法なり。真言宗と申す宗は本は下劣の経にて候ひしを、誑惑(おうわく)して法華経にも勝るなんど申して、多くの人々大師・僧正なんどになりて、日本国に大体充満して上一人より(こうべ)かた()ぶけたり。これが第一の邪事(ひがごと)に候を、昔より今にいたるまで知る人なし。但伝教大師と申せし人こそ()りて候ひしかども、くは()しくもおほせられず。さては日蓮ほゞこの事をしれり。後白河の法皇の太政の入道に()められ給ひし、()(きの)法王のかまくら(鎌倉)()けさせ給ひし事、みな真言悪法のゆへなり。漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給ふ。この悪法かまくらに下って、当時かまくらにはやる(流行)僧正・法印等は是なり。これらの人々このいくさを調伏せば、百日たゝ()かふべきは十日につゞ()まり、十日のいくさは一日に()めらるべし。 
 今始めて申すにあらず、二十余年が間(こえ)をし()まず()ばはり候ひぬるなり。あなかしこ、あなかしこ。この御文は大事の事どもかきて候。よくよく人によませてきこしめせ。人もそし()り侯へ、ものともおもはぬ法師等なり。恐々謹言。
  文永十一年太歳申戌十一月十一日    日蓮 花押
 南条七郎次郎殿御返事