国府尼御前御書  文永一一年六月一六日  五三歳

別名『千日尼御前御返事』、佐渡給仕御書

 

第一章 供養の功徳を説く

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 阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文。同心なれば此の文を二人して人によませてきこしめせ。
 
 阿仏房の尼御前から、銭三百文いただいました。同心の二人であるから、この手紙を二人で人に読ませて、お聞きなさい。
 単衣一領、佐渡国より甲斐国波木井の郷の内の深山まで送り給び候ひ了んぬ。法華経第四法師品に云はく「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在って無数の偈を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等云云。文の心は、釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候。まことしからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑ふべきにあらず。其の上妙楽大師と申す人、此の経文を重ねてやわらげて云はく「若し毀謗せん者は頭七分に破れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云。釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。又濁世に法華経の行者のあらんを留難をなさん人々は頭七分にわるべしと云云。    単衣一領、佐渡の国から、甲斐の国・ 波木井郷の内の深山まで送っていただきました。
 法華経第四巻法師品の文に「仏道を求める人が、一劫の長い間、合掌して仏の前にあって、無数の偈を唱え讃嘆するならば、この讃仏によって、量り知れない功徳を得るであろう。しかし法華経を受持する者を讃嘆する功徳は、復それよりもすぐれる」とある。文の心は、釈尊ほどの仏を、身口意の三業をもって、一中劫の間、心をこめて供養するよりも、末代悪世の時代に、法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていると説かれているのである。真実とは思えぬことではあるが、仏の金言であるから疑うべきでない。そのうえ、妙楽大師という人は、この経文を重ねて解釈して、「若しこの法華経を毀謗する人は頭が七分に破れ、若し供養する人は、その福は仏の十号に過ぎるであろう」と述べている。
 この釈の心は、末代の法華経の行者を供養することは、十号を具足された仏を供養するよりも、その功徳が勝れているということである。また五濁悪世に出現した法華経の行者に対して迫害する人々は、頭が七分に破れるということである。

 

第二章 大難を挙げて本仏の慈悲を示す

 夫日蓮は日本第一のゑせ者なり。其の故は天神七代はさてをきぬ。地神五代又はかりがたし。人王始まりて神武より当今まで九十代、欽明より七百余年が間、世間につけ仏法によせても日蓮ほどあまねく人にあだまれたる者候はず。守屋が寺塔をやきし、清盛入道が東大寺・興福寺を失ひし、彼等が一類は彼がにくまず。将門貞たうが朝敵となりし、伝教大師の七寺にあだまれし、彼等もいまだ日本一州の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆にはにくまれず。日蓮は父母・兄弟・師匠・同法・上一人・下万民一人ももれず、父母のかたきのごとく、謀反強盗にもすぐれて、人ごとにあだをなすなり。されば或時は数百人にのられ、
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或時は数千人にとりこめられて刀杖の大難にあう。所ををわれ国を出ださる。結句は国主より御勘気二度、一度は伊豆の国、今度は佐渡の島なり。されば身命をつぐべきかんてもなし、形体を隠すべき藤の衣ももたず、北海の島にはなたれしかば、彼の国の道俗は相州の男女よりもあだをなしき。野中にすてられて、雪にはだへをまじえ、くさをつみて命をさゝえたりき。彼の蘇武が胡国に十九年雪を食ふて世をわたりし、季陵が北海に六箇年がんくつにせめられし、我は身にてしられぬ。これはひとえに我が身には失なし。日本国をたすけんとをもひしゆへなり。
   日蓮は日本第一のまやかしものである。そのわけは、天神七代はさておき、地神五代も、また知りがたいが、人王が始まって、神武天皇から今上帝に至るまで九十代、欽明天皇の時代に仏教が伝来してから七百余年の間、一般世間のことにつけ、仏法のことにつけても、日蓮ほどすべての人に敵視された者はいないからである。守屋が寺塔を焼き、平清盛入道が東大寺・興福寺を焼失させたが、彼等の一族は彼等を憎まなかった。平将門や安倍貞任は朝敵となり、伝教大師は南都七大寺に憎まれたが、彼等も末だ日本全土の出家の男女・在家の男女の四衆には憎まれなかった。日蓮に対しては父母・兄弟・師匠・朋友をはじめ、上一人から下万民に至るまで一人ももれず、父母の仇のごとく、謀反人や強盗よりもひどく、人ごとに迫害を加えるのである。
 それゆえ、ある時は数百人に悪口をいわれ、ある時は数千人に取り囲まれて、刀で斬られて杖で打たれるなどの大難にあった。住居を追われ追われ、国を出された。その挙句、国の執権から二度、一度は伊豆の国、今度は佐渡のへと流罪になった。命をつなぐ食糧もなく、身体をおおうべき粗末な衣も持たず、北方の海の島に流罪されてみると、佐渡の国の出家や 在家の者は、相模の男女よりも迫害を加えた。
 野原の中に捨てられ、雪に膚をさらし、草を摘んで命をささえたのである。かの蘇武が捕えられた胡国の地で十九年間、雪を食として世を過ごし、李陵が北海の岩窟に六年間閉じこめられたその苦しみを、今、わが身でしることができた。このことは、ひとえに、わが身の誤りではなく、日本国の人々を助けようと思ったが故の難である。

第三章 尼御前の信心を励ます

 しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはゞからず、身にもかわらんとせし人々なり。さればつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すゝむあしもかへりしぞかし。いかなる過去のえんにてやありけんと、をぼつかなかりしに、又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかいにてつかわされて候。ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ。日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
 六月十六日        日  蓮 花押
  どの国のこうの尼御前
   ところが尼御前およびその入道殿は、日蓮が佐渡にいた時は、人目をはばかって夜中に食物を送り、ある時は国の役人が咎めをも恐れず、日蓮の身代わりになろうとした人々である。それゆえ、辛かった佐渡の国ではあったが、そった髪を後へ引かれ、進む足も戻りそうになるほど名残り惜しいものであった。どのような過去の因縁によるものかと、不思議に思っていたところ、また、いつの間にかこの身延まで、これほど大切な我が夫を、御使いとして遣わされた。夢か幻か、尼御前の御姿は見ることはできないが、心はここにおられると思われる。
 日蓮を恋しく思われるならば、常に出る日、夕に出る月を拝みなさい。何時であっても、月影に影を浮かべている身なのである。また、後生には、霊山浄土へ行って、そこでお会いしましょう。
南無妙法蓮華経。
  六月十六日        日蓮花押
   さどの国のこうの尼御前