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(★739㌻) 阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文。同心なれば此の文を二人して人によませてきこしめせ。 |
阿仏房の尼御前から、銭三百文いただいました。同心の二人であるから、この手紙を二人で人に読ませて、お聞きなさい。 |
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| 単衣一領、佐渡国より甲斐国波木井の郷の内の深山まで送り給び候ひ了んぬ。法華経第四法師品に云はく「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在って無数の偈を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等云云。文の心は、釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候。まことしからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑ふべきにあらず。其の上妙楽大師と申す人、此の経文を重ねてやわらげて云はく「若し毀謗せん者は頭七分に破れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云。釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。又濁世に法華経の行者のあらんを留難をなさん人々は頭七分にわるべしと云云。 |
単衣一領、佐渡の国から、甲斐の国・ 波木井郷の内の深山まで送っていただきました。 法華経第四巻法師品の文に「仏道を求める人が、一劫の長い間、合掌して仏の前にあって、無数の偈を唱え讃嘆するならば、この讃仏によって、量り知れない功徳を得るであろう。しかし法華経を受持する者を讃嘆する功徳は、復それよりもすぐれる」とある。文の心は、釈尊ほどの仏を、身口意の三業をもって、一中劫の間、心をこめて供養するよりも、末代悪世の時代に、法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていると説かれているのである。真実とは思えぬことではあるが、仏の金言であるから疑うべきでない。そのうえ、妙楽大師という人は、この経文を重ねて解釈して、「若しこの法華経を毀謗する人は頭が七分に破れ、若し供養する人は、その福は仏の十号に過ぎるであろう」と述べている。 この釈の心は、末代の法華経の行者を供養することは、十号を具足された仏を供養するよりも、その功徳が勝れているということである。また五濁悪世に出現した法華経の行者に対して迫害する人々は、頭が七分に破れるということである。 |
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しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはゞからず、身にもかわらんとせし人々なり。さればつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すゝむあしもかへりしぞかし。いかなる過去のえんにてやありけんと、をぼつかなかりしに、又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかいにてつかわされて候。ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ。日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 六月十六日 日 蓮 花押 どの国のこうの尼御前 |
ところが尼御前およびその入道殿は、日蓮が佐渡にいた時は、人目をはばかって夜中に食物を送り、ある時は国の役人が咎めをも恐れず、日蓮の身代わりになろうとした人々である。それゆえ、辛かった佐渡の国ではあったが、そった髪を後へ引かれ、進む足も戻りそうになるほど名残り惜しいものであった。どのような過去の因縁によるものかと、不思議に思っていたところ、また、いつの間にかこの身延まで、これほど大切な我が夫を、御使いとして遣わされた。夢か幻か、尼御前の御姿は見ることはできないが、心はここにおられると思われる。 日蓮を恋しく思われるならば、常に出る日、夕に出る月を拝みなさい。何時であっても、月影に影を浮かべている身なのである。また、後生には、霊山浄土へ行って、そこでお会いしましょう。南無妙法蓮華経。 六月十六日 日蓮花押 さどの国のこうの尼御前 |