大白法・平成9年8月1日刊(第483号より転載)御書解説(052)―背景と大意

法華行者値難事(719頁)

別名『法華行者逢難事』

 一、御述作の由来

 本抄は、文永十一(1274)年正月十四日、大聖人様が五十三歳の御時に佐渡一谷(いちのさわ)において(したた)められ、富木常忍をはじめ門下一同に対して与えられた御消息です。

 御真蹟は、中山法華経寺に蔵されていますが、この御真蹟を拝しますと、一枚の紙に、書き綴った行間に細字で書き込み、さらに上下左右の余白に書き込まれているところもあります。このことから、当時の大聖人様の御生活が、紙なども充分になく窮乏を極めていたことを伺い知ることができます。

対告衆

 本書の対告衆が特定の者だけではなく、門下一同であることは宛名に、

 「河野辺殿等中、大和阿闍梨御房等中、一切我が弟子等中、三郎左衛門尉殿、富木殿

と記されていることから明らかです。

 最初に挙げられている河野辺氏については、文永九(1272)年の『佐渡御書』等にその名を見ることができますが、史料が乏しいため詳細は明らかではありません。

 次の大和阿闍梨御房とは、おそらく大和房と称していた五老僧の一人である日昭と思われますが、これも確実な裏付けはありません。

 三郎左衛門尉とは、四条中務三郎左衛門尉頼基、すなわち四条金吾のことであり、富木殿とは富木常忍のことです。この二人については、度々紹介していますので詳述を控えますが、地域の中心者という役割だけでなく、信徒全体の中心的立場にあった方といえましょう。

背景

 大聖人様は、文永八(1271)年十一月一日に配所である佐渡の塚原に着かれてより、足掛け四年という月日を佐渡で過ごされました。執権・北条時宗は、一時は周囲の讒言(ざんげん)()れて大聖人様を配流に処しましたが、冷静に考えてみると罰すべき根拠もなく、また大聖人様の予言も次々に的中するに及んで、急遽(きゅうきょ)赦免することを決意したのです。このことを大聖人様は、『中興入道御消息』に、

 「(とが)なき事すでにあらわれて、いゐし事もむな()しからざりけるかのゆへに、御一門諸大名は()るすべからざるよし申されけれども、相模守(さがみのかみ)殿の御計らひばかりにて、ついに()り候ひて()ぼりぬ」(御書1433頁)

と記されています。こうして文永十一年二月十四日、幕府は赦免状を発し、赦免状は三月八日に佐渡に到着しました。

 本書が認められたのが文永十一年一月十四日ですから、赦免状が発せられるちょうど一ヵ月前ということになります。

 この頃のことを『光日房御書』に、

 「いまだ()りざりしかば、いよいよ強盛(ごうじょう)に天に申せしかば、頭の白き(からす)とび来たりぬ」(御書960頁)

とあり、赦免を示す不思議な瑞相が顕れたことを述べられています。したがって、本抄が認められた時期から考えますと、すでに赦免が間近に追っていることを鑑みられた上で、本抄を(あらわ)されたものと拝せましょう。

 二、本抄の大意

 はじめに『法華経』と『涅槃経』の文を挙げ、釈尊滅後に『法華経』を信じ行ずるところには大きな難が起こり、怨嫉(おんしつ)を受けることを示されます。さらに、釈尊滅後において『法華経』を弘通した天台大師や伝教大師が、どのような難を受けられたかを示されています。

 次に、釈尊在世と正像二千年の間における「法華経の行者」が、釈尊と天台大師と伝教大師の三人であることを述べ、経文のとおりならば、末法に「法華経の行者」が現れ、その時の大難は釈尊在世よりもはるかに激しいことを示されます。そして、釈尊が受けられた九横(くおう)の大難を挙げられた上で、天台大師や伝教大師は、そのような難さえも受けていないことを述べられます。

 続いて、末法の始めの今こそ、『法華経』の文義に(かな)った「法華経の行者」が出現すること、また、その「法華経の行者」が大聖人様御自身であられることを示唆(しさ)されます。そして、それを示す事例として北条宣時が佐渡の国に下された書状を挙げられ、大聖人様の受けられている難が、釈尊の九横の大難や天台大師・伝教大師の難にも超えるゆえに、「法華経の行者」がまさしく大聖人様御自身であられることを明示されます。

 追伸では、まず竜樹菩薩や天親菩薩が説いた論が権大乗であること、また天台大師や伝教大師が『法華経』を弘通したとはいえ、

 「本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字」

を弘められなかったことを御教示されます。さらにその理由として、仏より授与されなかったこと、時機が未熟であったことを示されます。そして、時が到来したゆえに四菩薩が出現したことを明らかにされます。

 最後に、弟子・信徒一同に対し、本書を読み聞いていくこと、またこのような濁世(じょくせ)にあっては、互いに言い合わせて常に退転なく、後世の成仏を願っていくよう勧められ、本抄を結ばれています。

 三、拝読のポイント

 一つ目は、『法華経』に予証された末法の「法華経の行者」が、大聖人様であられることを深く拝することです。大聖人様が釈尊を超過する大難を受けられたのは、『法華経』を身をもって読まれることによって「法華経の行者」であることを実証される意味が当然ありますが、より深く拝するならば、御本仏としての御振る舞いを末法の一切衆生にお示しあそばされたと拝すべきでありましょう。

 二つ目は、三大秘法の名目を本抄において初めて示されたことです。しかし、本文ではなく追伸に示されたというところに深い意味が存するのです。大聖人様は、赦免が近いことを(かんが)みられて三大秘法の名目を示されたのですが、佐渡御配流中は未だ『法華経』身読の時であるため、本文中ではなく、追伸にお示しになられたと拝するのです。すなわち、当時はまだ正式に一期の大事の名目を明らかにする時ではなかったので、追伸でお示しになられたという意味があるのです。しかし、追伸ではあっても三大秘法の名目を示されたということは、一期の大事を明らかにする時が、まさに近づいていることを示すものと言えましょう。

 三つ目は、「本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字」の御文についての拝し方に留意することです。ここに「四菩薩」とあることから、他門では四菩薩を造立する意に解釈するなど誤った拝し方をしているのです。しかし、この御文を正しく拝するならば、四菩薩が出現して末法に弘めるべき実義こそ三大秘法であることをお示しになられたと拝すべきであり、また、法即人・人即法の事の一念三千の大御本尊を意味する御文であると拝すべきなのです。さらに、御文中の「四菩薩」が、本門の本尊を御内証にお持ちあそばされる大聖人様御自身をお示しになられていると拝すべきなのです。

 四つ目は、

 「設ひ身命に及ぶとも退転すること(なか)

とあるように、いかなる難が競い起ころうとも、決して退転してはならないということです。大聖人様が佐渡配流となったことから弟子・信徒の中には、同じように身命に及ぶ難が競うことを恐れ、退転する者がいたようです。しかし、大聖人様が大難に立ち向かわれたように、いかなる難にも敢然と立ち向かうことが肝要なのです。

 大聖人様は、大難に値われることに対し、

 「喜ばしいかな、況滅(きょうめつ)度後(どご)の記文に当たれり

と、法悦の御境界にあられたことを述べられています。私たちも諸難に(ひる)み退いてしまうのではなく、法悦を感じて敢然と立ち向かっていける境界でありたいものです。

 四、結  び

 本抄の最後に、

 「一切の諸人之を見聞し、志有らん人々は互ひに之を語れ

と述べられ、追伸の結びにも、

 「富木・三郎左衛門尉・(かわ)野辺(のべ)等・大和(やまと)阿闍梨(あじゃり)等の殿原(とのばら)御房達、各々互ひに読み聞けまいらせさせ給へ。かゝる浮き世には互ひにつねにいゐあわせて、ひまもなく後世ねがわせ給ひ候へ

と仰せられ、本書をしっかり拝読し、他の者にも聞かせていくよう勧めるとともに、互いに励まし合っていくよう御教示されています。私たちも本書に限らず、大聖人様の御指南を常に心肝に染め、講員同士互いに手を携えて精進しなければなりません。

 さて、本年の夏期講習会登山もすべての日程を終了しましたが、御法主上人猊下の尊い御指南をはじめ、学んだことを今後の信心の糧とし、「互ひにつねにいゐあわせて」との仰せのとおり、異体同心の団結をもって、焦らず(たゆ)まず一歩一歩着実に前進し、「充実」の意義を顕してまいろうではありませんか。