小乗大乗分別抄  文永一〇年  五二歳

 

第一章 大小の分別を明かす

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 夫小大定めなし。一寸の物を一尺の物に対しては小と云ひ、五尺の男に対しては六尺・七尺の男を大の男と云ふ。外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云ふ。「大法東漸、通指仏教、以為大法」等と釈する是なり。仏教に入っても鹿苑十二年の説、四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して、小乗経と名づけたり。
 
 いったい大小には、一定の基準というものがない。一寸の物を一尺の物に対しては小といい、五尺の男に対しては六尺・七尺の男を大の男という。外道の法に対して仏教は一切の大乗・小乗を皆、大乗という。章安大師が「大法東漸」といわれたものを、妙楽大師が「通じて仏教を指して以って大法と為す」等と解釈したのはこの意である。 仏教のなかでも、鹿野苑で十二年の説かれた四阿含経等の一切の小乗経を、諸大乗経に対して小乗経と名づけたのである。
 又諸大乗経には大乗の中にとりて劣る教を小乗と云ふ。華厳の大乗経に「其余楽小法」と申す文あり。天台大師はこの小法といふは常の小乗経にはあらず、十地の大法に対して十住・十行・十回向の大法を下して小法と名づくと釈し給へり。又法華経第一の巻方便品に「若し小乗を以て乃至一人をも化す」と申す文あり。天台・妙楽は阿含経を小乗といふのみにあらず、華厳経の別教、方等・般若経の通別の大乗をも小乗と定む。    また、諸大乗経においても、そのなかで劣った教を小乗という。華厳の大乗経に「其の余の小法を楽う」という文がある。天台大師は「この小法というは通常の小乗経ではなく、菩薩の五十二位で修行する大法に対して、十住・十行・十回向の大法を下して小法と名づける」と解釈されている。また法華経第一の巻・方便品第二に「若し小乗を以って、乃至一人を化せば、我則ち慳貪に堕せん」という文があり、天台大師・妙楽大師はこのことについて、ただ阿含経を小乗というばかりでなく、華厳経のなかの別教や方等・般若経のなかの通別二教の大乗経をも小乗とすると定められている。
 又玄義の第一に「小を会して大に帰す、是漸頓泯合」と申す釈をば、智証大師は始め華厳経より終はり般若経にいたるまでの四教・八教の権実の諸大乗経を漸頓と釈す。泯合と云ふは八教を会して一大円教に合すとこそことはられて候へ。又法華経の寿量品に「楽於小法徳薄垢重者」と申す文あり。天台大師は此の経文に小法と云ふは小乗経にもあらず、又諸大乗経にもあらず、久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等・般若・法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり。又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那・盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ。
   また法華玄義の第一に「小を会して大に帰るは是れ漸頓泯合するなり」とある文を智証大師は「初めの華厳経より終わりの般若経に至るまでの四教八教、権教諸大乗経を漸・頓と釈し、泯合とはその八教を開会して法華の一大円教に合するのである」と解釈されている。
 また法華経の如来寿量品第十六に「小法を楽える徳薄垢重の者」という文があり、天台大師は「この経文に小法とあるのは、いわゆる小乗経でもなく、また諸大乗経でもない。久遠実成を説かない華厳経の円、ないし方等・般若のなかの円、また法華経迹門十四品の円頓の大法までもみな小乗の法である。また華厳経等の諸大乗経の教主は法身仏・報身仏・毘盧遮那仏・盧舎那仏・大日如来等も皆、小仏である」と解釈されている。
 此の心ならば涅槃経・大日経等の一切の大小・権実・顕密の諸経は皆小乗経、八宗の中に倶舎宗・成実宗・律宗を小乗と云ふのみならず、華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗等の諸大乗宗を小乗宗として、唯天台宗の一宗計り実大乗宗なるべし。    この意味からいえば、涅槃経・大日経等の一切の大乗・小乗・権教・実教・顕教・密教の諸経は皆小乗経で、八宗のなかでは倶舎宗・成実宗・律宗を小乗というのみならず、華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗等の諸大乗宗も小乗宗であって、ただ天台宗の一宗だけが実大乗宗なのである。

 

第二章 法華経と諸経の教義を比較

 彼々の大乗宗の所依の経々には絶えて二乗作仏・久遠実成の最大の法をとかせ給はず。
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 譬へば一尺二尺の石を持つ者をば大力といはず、一丈二丈の石を持つを大力と云ふが如し。
   天台以外の諸大乗宗の所依の経々には、どこをさがしても二乗作仏と久遠実成という最大の法は説かれていない。たとえば一尺二尺の石を持つ者を大力とはいわず、一丈二丈の石を持つ者を大力というようなものである。
 華厳経の法界円融四十一位、般若経の混同無二・十八空、乾慧地等の十地、瓔珞経の五十二位、仁王経の五十一位、薬師経の十二の大願、双観経の四十八願、大日経の真言印契等、此等は小乗経に対すれば大法・秘法なり。法華経の二乗作仏・久遠実成に対すれば小乗の法なり。一尺二尺を一丈二丈に対するがごとし。    華厳経の法界円融の理や四十一位、般若経の混同無二の理や十八空の理、乾慧地等の十地の位や、瓔珞経の五十二位、仁王経の五十一位の修行、薬師経の薬師如来の十二の大願、雙観経の阿弥陀如来の四十八願、大日経の真言印契等、これらは小乗経に対すれば大法秘法であるが、法華経の二乗作仏、久遠実成の大法に対すれば小乗の法であり、一尺二尺を一丈二丈に対するようなものである。 
又二乗作仏・久遠実成は法華経の肝用にして諸経に対すれば奇たりと云ヘども、法華経の中にてはいまだ奇妙ならず。一念三千と申す法門こそ、奇が中の奇、妙が中の妙にて、華厳大日経等に分絶えたるのみならず、八宗の祖師の中にも真言等の七宗の人師名をだにもしらず、天竺の大論師竜樹菩薩・天親菩薩は内には珠を含み、外にはかきあらわし給はざりし法門なり。    また二乗作仏・久遠実成は法華経の肝要にして、諸経に対しては不可思議深妙な法門であるが、法華経のなかにおいては末だ奇妙深遠な法門ではない。一念三千という法門こそが奇中の奇、妙中の妙なる法門であって、華厳経や大日経等にはその一分さえなく、八宗の祖師のなかでも、真言等の七宗の人師はその名前さえ知らず、インドの大論師である竜樹菩薩・天親菩薩は、胸の内には珠を含んでおられたが、外には書きあらわされなかった法門である。 
 而るを雨衆が三徳・米斎が六句の先仏の教へを盗みとれる様に、華厳宗の澄観、真言宗の善無畏等は天台大師の一念三千の法門を盗み取って、我が所依の経の「心仏及衆生」の文の心とし、心実相と申す文の神とせるなり。
   劫比羅仙人の弟子の筏里沙が、同類を集めて雨衆と名づけて数論派を立て、先仏の説かれた貧・瞋・癡の三毒の教をを盗み取り、金七十論を造り、二十五諦を説いて、自性に勇・塵・闇の三徳を唱え、かの勝論外道の米斉仙人が同じように仏説を盗み取り、実句・徳句・業句・同句・和合句の六句論を造ったように、華厳宗の澄観や真言宗の善無畏等は、天台大師の一念三千の法門を盗み取り、我が所依の華厳経の「心仏及衆生」の文の心とし、大日経の「心実相」の文の神としたのである。 
 かくのごとく盗み取って我が宗の規模となせるが、又還って天台宗をば下して、華厳宗・真言宗には劣れるなりと申す。此等の人師は世間の盗人にはあらねども仏法の盗人なるべし。此等をよくよく尋ね明らむべし。    このように他の法門を盗み取って自分の宗の骨格としながら、かえって天台宗を下して、華厳宗や真言宗に劣った法であるといっているのである。これらの人師は世間の盗人ではないが、仏法上の盗人である。これらをよく問いただし、明らかにすべきである。

 

第三章 二乗作仏の意義を明かす

 又世間の天台宗の学者並びに諸宗の人々の云はく、法華経は但二乗作仏・久遠実成計りなり等云云。今反詰して云はく、汝等が承伏に付いて、但二乗作仏と久遠実成計り法華経にかぎて諸経になくば、此なりとも豈奇が中の奇にあらずや。二乗作仏諸経になくば、仏の御弟子頭陀第一の迦葉、智慧第一の舎利弗、神通第一の目連等の十大弟子、千二百の羅漢、万二千の声聞、無数億の二乗界、過去遠々劫より未来無数劫にいたるまで法華経に値ひたてまつらずば、永く色心倶に滅して永不成仏の者となるべし。豈大なる失にあらずや。又二乗界仏にならずば、迦葉等を供養せし梵天・帝釈・四衆・八部・比丘・比丘尼等の二界八番の衆はいかんがあるべき。又久遠実成が此の経に限らずんば、三世の諸仏無常遷滅の法に堕しなん。
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   また世間の天台宗の学者や諸宗の人々は「法華経はただ二乗作仏・久遠実成が説かれているだけである」等といっている。今、それに反詰していうが、それなら二乗作仏と久遠実成は法華経に限られていて諸経にはないということを汝らが承伏したということになるが、それならば、これだけでも奇のなかの奇ではないか。二乗作仏が諸経に説いていないとすれば、釈尊の御弟子で頭陀第一の迦葉、智慧第一の舎利弗、神通第一の目連等の十大弟子、千二百の羅漢、一万二千の声聞、無数の二乗界の人々は、過去遠遠劫から未来無数劫に至るまで、法華経に値いたてまらなかったならば、永く色心ともに滅して、永不成仏の者となってしまう。これは大いなる失ではないか。また、二乗が成仏しないならば、迦葉等を供養した梵天・帝釈・四衆・八部・比丘・比丘尼等の二界八番の衆はどうなることであろうか。また久遠実成が法華経において初めて説かれたが、それがなかったとするならば、三世の諸仏はみな無常としてはかない法に陥ってしまうであろう。
 譬へば天に諸星ありとも日月ましまさずんばいかんがせん。地に草木ありとも大地なくばいかんがせん。是は汝が承伏に付いての義なり。実をもて勘へ申さば、二乗作仏なきならば、九界の衆生仏になるべからず。法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり。譬へば人一人は必ず四大を以てつくれり。一大かけなば人にあらじ。一切衆生のみならず、十界の依正の二法、非情の草木一微塵にいたるまで皆十界を具足せり。    たとえば、天に無数の星があっても日月がなければどうであろう。地に草木があっても大地がなければどうであろう。これらは汝が承伏した内容を前提としての義である。実義ををもっていえば、二乗作仏が説かれなければ九界の衆生も仏になることができない。法華経の心は、自然の道理として一切衆生に必ず十界を具足しているということである。たとえば人は必ず四大をもって造られ、一大も欠ければ人ではない。一切衆生だけではなく十界の依報・正報の二法も、非情の草木や一微塵に至るまで、みな十界を具足している。
 二乗界仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず。又余界の中の二乗界仏にならずば、余界の八界仏になるべからず。譬へば父母ともに持ちたる者、兄弟九人あらんか、二人は凡下の者と定められば、余の七人も必ず凡下の者となるべし。仏と経とは父母の如し。九界の衆生は実子なり。声聞・縁覚の二人永不成仏の者となるならば、菩薩・六凡の七人あに得道をゆるさるべきや。「今此の三界は皆是我が有なり、其の中の衆生は悉く是吾が子なり、乃至唯我一人のみ能く救護を為す」の文をもて知るべし。    ゆえに、もし二乗界が成仏できないならば、余界に具足している二乗界も成仏できないことになる。また、余界に具足している二乗界が成仏できないならば、余界の八界は成仏できないということになる。たとえば父母を同じにもつ兄弟が九人があって、そのなかの二人は凡下の身分の者と定めれられば、残りの七人もまた、必ず凡下の者と定められるようなものである。仏と経とは父母のようなものであり、九界の衆生は実子である。声聞・縁覚の二人が永不成仏者となるならば、菩薩や六凡の七人も得道を許されるはずがない。法華経第三譬喩品に「今この三界は皆、我が有である。そのなかの衆生は、ことごとく我が子である(乃至)ただ我一人のみがよく救い護ることができる」と説かれている文をもってこのことを知るべきである。
 又菩薩と申すは必ず四弘誓願ををこす。第一衆生無辺誓願度の願成就せずば、第四の無上菩提誓願証の願は成就ずべからず。前四味の諸経にては菩薩・凡夫は仏になるべし、二乗は永く仏になるべからず等云云。而るをかしこげなる菩薩も、はかなげなる六凡も共に思へり、我等仏になるべし、二乗は仏にならざればかしこくして彼の道には入らざりけると思ふ。二乗はなげきをいだき、此の道には入るまじかりし者をと恐れかなしみしが、今法華経にして二乗を仏になし給へる時、二乗仏になるのみならず、かの九界の成仏をもときあらはし給へり。    また菩薩というのは必ず四弘誓願を起こす。その第一の無辺の衆生を度脱させようという誓願が成就しなかったならば、第四の無上菩提を証得しようという誓願も成就することはできないのである。法華経以前の前四味の諸経では菩薩、凡夫は仏になれるが二乗は永く仏になれない等と説かれている。それで賢い菩薩も愚かな凡夫とともに、われわれは仏になることができるが二乗は仏になれないので、その二乗の道に入らなかったことこそ賢明であったと思ったのである。二乗は嘆いて、この道に入るのではなかったと恐れ悲しんでいたのであるが、今、法華経にきて二乗の成仏が明かれたとき、ただ二乗が仏になるばかりでなく、他の九界の成仏も説きあらわされたのである。
 諸の菩薩此の法門を聞きて思はく、我等が思ひははかなかりけり。爾前の経々にして二乗仏にならずば、我等もなるまじかりける者なり。二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり。我等も同じなげきにてありけりと心うるなり。     もろもろの菩薩はこの法門を聞いて「我らのこれまでの思いは間違っていた。爾前の経々で、二乗が仏になれないならば、我らもまた仏になれなかったのである。二乗を永不成仏と説かれたことは、二乗一人のみが嘆くべきことではなく、我らも同じ嘆きであったのだ」と了解したのである。

 

第四章 久遠実成の意義を明かす

 又寿量品の久遠実成が爾前の経々になき事を以て思ふに、爾前には久遠実成なきのみならず、仏は天下第一の大妄語の人なるべし。爾前の大乗第一たる華厳経・大日経等に「始成正覚、我昔坐道場」等云云。真実甚深正直捨方便の無量義経と法華経の迹門には「我先道場」「我始坐道場」と説かれたり。
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   また如来寿量品第十六で明かされた久遠実成が、爾前の諸経に説かれていないということを通じて思うと、爾前経には、ただ久遠実成が明かされていないというだけでなく、仏は天下第一の大妄語の人となるということである。爾前の諸大乗経の第一である華厳経や大日経等に「始めて正覚を成じた」とか「我は昔、道場に坐して」等とあり、また「真実甚深」といっている無量義経や「正直捨方便」といっているの法華経の迹門にも「我は先に道場において」「我は始め道場に坐して」等と説かれている。
 此等の経文は寿量品の「然我実成仏已来、無量無辺」の文より思ひ見れば、あに大妄語にあらずや。仏の一身すでに大妄語の身なり。一身に備はりたる六根の諸法あに実なるべきや。大氷の上に造れる諸舎は春をむかへては破れざるべしや。水中の満月は実に体ありや。爾前の成仏・往生等は水中の星月の如し、爾前の成仏・往生等は体に随ふ影の如し。本門寿量品をもて見れば、寿量品の智慧をはなれては諸経は跨節・当分の得道共に有名無実なり。    これらの経文は寿量品の「しかるに我は実に成仏してからこのかた無量無辺である」の文から考えてみれば、まさしく大妄語ではないか。 仏の一身がすでに大妄語の身であるから、その一身に備えている六根から発せられた諸法も真実であるはずがない。大冰の上に造った家は、春を迎えれば壊れないはずがない。水中の満月は実体があるであろうか。爾前経で説かれた成仏往生等は水中の星や月のようなものであり、また、体にしたがう影のようなものである。本門寿量品の実義からみれば、寿量品の智慧を離れては諸経に説かれる跨節、当分の得道はともに有名無実である。
 天台大師此の法門を道場にして独り覚知し、玄義十巻・文句十巻・止観十巻等かきつけ給ふに、諸経に二乗作仏・久遠実成絶えてなき由を書きをき給ふ。是は南北の十師が教相に迷ひて三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・一音・半満・三教・四教等を立てゝ教の浅深勝劣に迷ひし、此等の非義を破らんが為に、まづ眼前たる二乗作仏・久遠実成をもて諸経の勝劣を定め給ひしなり。然りと云ひて余界の得道をゆるすにはあらず。其の後華厳宗の五教、法相宗の三時、真言宗の顕密・五蔵・十住心・義釈の四句等は南三北七の十師の義よりも尚誤れる教相なり。    天台大師はこの法門を大蘇山の普賢道場において独りで悟り、法華玄義十巻、法華文句十巻、摩訶止観十巻等を書きつけられたとき、諸経には二乗作仏・久遠実成は全く説かれていない由を書き置かれたのである。 これは南北の十師が釈尊一代の教相に迷って、三時教・四時教・五時教、あるいは四宗・五宗・六宗・一音・半満・三教・四教等を立てて教法の浅深勝劣に迷っていたのであるが、天台大師はこれらの邪義を破し破るために、まず眼前の二乗作仏・久遠実成の法門をもって諸経の勝劣を定められたのである。それだからといって、その他の界は爾前経で得道できるというのではない。 その後、華厳宗は五教判を、法相宗は三時教判を、真言宗は顕密二教・五蔵判・十住心判、また大日経義釈で四句等を立てたが、これらは南三北七よりも甚だしく間違ったの教相である。
 此等は他師の事なればさてをきぬ。又自宗の学者、天台・妙楽・伝教大師の御釈に迷ふて、爾前の経々には二乗作仏・久遠実成計りこそ無けれども、余界の得道は有りなんど申す人々一人二人ならず日本国に弘まれり。他宗の人々是に便りを得て弥天台宗を失ふ。此等の学者は譬へば野馬の蜘蛛の網にかゝり、渇ける鹿の陽炎をおふよりもはかなし。    これらは他師のことであるからさておくとする。自宗の学者が天台大師・妙楽大師・伝教大師の御釈に迷って、爾前の経経には二乗作仏・久遠実成だけは説かれていないけれども、余界の得道はあるなどという人々が、一人や二人ではなく日本国に広まっており、他宗の人々は、このことを頼みとして、いよいよ天台宗を滅ぼそうとしているのである。 これらの学者は、たとえば野馬の蜘蛛の網に掛かり、渇えた鹿が陽炎を水だと思っているよりも、はかない。
 例せば頼朝の右大将家は泰衡を打たんがために、泰衡を狂かして義経を打たせ、大将の入道清盛は源氏を喪ぼして世をとらんが為に、我が伯父平馬介忠正を切る。義朝はたぼらかされて慈父為義を切るが如し。此等は墓なき人々のためしなり。    例えば右大将家の源頼朝は藤原泰衡を討ち滅ぼすために、泰衡をたぶらかして義経を討たせ、太政入道の平清盛は、源氏を滅ぼして天下を取るために伯父の平馬介忠正を斬り、源義朝はこれにたぼらかされて、慈父の為義を殺したようなものである。これらははかなき人々の前例である。
 天台大師法華経より外の経々には二乗作仏・久遠実成は絶えてなしなんど釈し給へば、菩薩の作仏、凡夫の往生はあるなんめりとうち思ひて、我等は二乗にもあらざれば爾前の経々にても得道なるべし。    天台大師は法華経よりほかの経々には、二乗作仏・久遠実成は全く説かれていないと解釈されたことから、菩薩の成仏と凡夫の往生とは余経でも可能であると思って、我らは二乗ではないから、爾前の経々でも得道できるにちがいないと心中に思い込んでしまったのである。
 此の念ひ心中にさしはさめり。其の中にも観経の九品往生はねがひやすき事なれば、
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法華経をばなげすて、念仏申して浄土に生まれて、観音・勢至・阿弥陀仏に値ひたてまつりて成仏を遂ぐべしと云云。当世の天台宗の人々を始めとして諸宗の学者かくのごとし。
   そのなかにも、観無量寿経の九品往生は願いやすいことから、法華経をなげ捨て、念仏を称えて浄土に生まれ、観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀仏に値って成仏を遂げようとしている。当世の天台宗の人々をはじめとして、諸宗の学者はみなこのようである。

 

第五章 成仏の種子は法華経に限るを示す

 実義をもて申さば、一切衆生の成仏のみならず、六道を出で十方の浄土に往生する事はかならず法華経の力なり。例せば日本国の人唐土の内裏に入らん事は、必ず日本の国王の勅定によるべきが如し。穢土を離れて浄土に入らん事は必ず法華経の力なるべし。例せば民の女乃至関白大臣の女に至るまで、大王の種を下ろせば其の産める子王となりぬ。大王の女なれども臣下の種を懐妊せば其の子王とならざるが如し。    実義によっていえば、一切衆生の成仏ばかりでなく、六道を離れて十方の浄土に往生することも必ず法華経の力によるのである。例えば、日本国の人が、唐土の内裏に入ろうとするには、必ず日本国王の勅定によらなければならないようなものである。穢土を離れて浄土に入ることは、必ず法華経の力によらなければならないのである。例えば民の女でも、関白大臣の女に至るまでも、大王の子を孕(はら)めば、その産んだ子は王となるが、大王の女であっても、臣下の種を懐姙するならば、その子は王とならないようなものである。
 十方の浄土に生まるゝ者は三乗・人・天・畜生等までも皆王の種姓と成りて生まるべし。皆仏となるべきが故なり。阿含経は民の女の民を夫とし、華厳・方等・般若等は臣の女の臣を夫とせるが如し。又華厳経・方等・般若・大日経等の円教の菩薩等は王女の臣下を夫とせるが如し。皆浄土に生まるべき法にはあらず。     十方の浄土に生れる者は、三乗・人天・畜生等までも、皆、王の種姓となってこそ生れることができたのである。皆、仏となることができるからである。 阿含経は民の女が民を夫としたようなもので、華厳・方等・般若等は臣下の女が臣下を夫としたようなものであり、華厳・方等・般若・大日経等の円教の菩薩等は、大王の女が臣下を夫としたようなもので、皆、浄土に生れることのできない法である。
 又華厳・阿含・方等・般若等の経々の間に六道を出づる人あり。是は彼々の経々の力には非ず。過去に法華経の種を殖えたりし人、現在に法華経を待たずして機すゝむ故に、爾前の経々を縁として、過去の法華経の種を発得して成仏往生をとぐるなり。例せは縁覚の無仏の世にして飛花落葉を観じて独覚の菩提を証し、孝養父母の者の梵天に生まるゝが如し。飛花落葉・孝養父母等は独覚と梵天との修因にはあらねども、かれを縁として過去の修因を引きおこし、彼の天に生じ独覚の菩提を証す。    また華厳・阿含・方等・般若等の経々で六道を出る人もあるが、これは彼々の経々の力ではなく、過去に法華経の種を殖えた人が、現在の世において、法華経を待たないで機根が進んだゆえに爾前の経々を縁として過去の法華経の種が芽を吹き出して成仏往生を遂げたのである。 例えば、縁覚の無仏の世に生まれて、飛花落葉を観じて独覚の菩提を証得したり、父母に孝養した者が梵天に生まれたようなものである。
 飛花落葉や父母の孝養等は独覚と梵天に生まれる修因ではないが、それらを縁として、過去の修因を引き起こし、梵天に生まれたり、独覚の菩提を証得したりするのである。
 而るに尚過去に小乗の三賢四善根にも入らず、有漏の禅定をも修せざる者は、月を観じ花を詠じ孝養父母の善を修すれども、独覚ともならず色天にも生ぜず。過去に法華経の種を殖えざる人は、華厳経の席に侍りしかども初地初住にものぼらず、鹿苑説教の砌にても見思をも断ぜず、観経等にても九品の往生をもとげず、但大小の賢位のみに入って聖位にはのぼらずして、法華経に来たって始めて仏種を心田に下して、一生に初地初住等に登る者もあり、又涅槃の座へさがり乃至滅後未来までゆく人もあり。
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   そうであるのに、過去の世に小乗教の三賢、四善根の位にも入らず、有漏の禅定をも修めなかった者は、たとえ月を観じ、花を詠じ、父母に孝養するという善行を修しても、独覚ともならず、色天にも生まれない。それと同じように、過去に法華経の種を殖えなかった人は、華厳経の会座に列なっても初地・初住の位にも上らず、鹿野苑の説教の時にも見惑・思惑を断ぜず、観無量寿経でも九品の往生を遂げられず、ただ大乗・小乗の賢位にまでは上れるが、聖位には上れないで、法華経の説法の座にきて初めて、仏種を心田に下して一生の間に初地・初住等の位に上る者もあり、または涅槃経の説法の座に下がり、更に仏の滅後の未来まで行く者もある。
 過去に法華経の種を殖えたる人々は、結縁の厚薄に随って、華厳経を縁として初地初住に登る人もあり、阿含経を縁として見思を断じて二乗となる者もあり、観経等の九品の行業を縁として往生する者もあり。方等・般若も此をもて知んぬべし。此等は彼々の経々の力にはあらず、偏に法華経の力なり。    それに対し、過去に法華経の種を殖えた人々は結縁の厚薄にしたがって、華厳経を縁として初地・初住の位に登る人もあるし、阿含経を縁として見惑・思惑を断じて二乗となる者もあるし、観無量寿経等の九品の修行を縁として極楽往生する者もあるし、同じように方等経や般若経を縁としてその功徳を受ける者もいることは、これらを例として知るべきである。 これらはそれぞれの経々の力ではなく、ひとえに法華経の力によるのである。
 譬へば民の女に王の種を下せるを人しらずして民の子と思ひ、大臣等の女に王の種を下せるを人しらずして臣下の子と思へども、大王より是を尋ぬれば皆王種となるべし。爾前にして界外へ至る人を、法華経より之を尋ぬれば皆法華経の得道なるべし。    たとえば、民の女が王の種を宿したのを人が知らないで、民の子であると思い、あるいは大臣等の女が王の子を宿したのを知らないで、人々は臣下の子と思っていたが、大王から見れば、皆、王種のようなものである。 そうであるから、爾前の諸経によって三界の外へ至る人を、法華経から尋ねてみると、皆、法華経の得道である。
 又過去に法華経の種を殖えたる人の根鈍にして、爾前の経々に発得せざる人々は法華経にいたりて得道なる。是は爾前の経々をばめのととして、きさき腹の太子・王子と云ふが如くなるべし。又仏の滅後にも、正法一千年が間は在世のごとくこそなけれども、過去に法華経の種を殖えて法華・涅槃経にて覚りのこせる者、現在在世にて種を下せる人々も是多し。    また過去に法華経の種を殖えた人で、機根が鈍いために爾前の経々で眼を生じない人々は、法華経に至って得道するのである。此れは爾前の経々を乳母として、后の腹から生まれた太子を育てさせて、王子とするようなものである。 また仏の滅後でも正法一千年の間は、在世のときのようなことはないが、過去に法華経の種を殖えて、法華経・涅槃経で悟りを遂げる者もあり、現在の仏の在世で種を下した人々も多くいる。
 又滅後なれども現に法華経ましませば、外道の法より小乗経にうつり、小乗経より権大乗にうつり、権大乗より法華経にうつる人々数をしらず。竜樹菩薩・無著菩薩・世親論師等是なり。像法一千年には正法のほどこそ無けれども、又過去現在に法華経の種を殖えたる人々も少々之有り、而るを漸々に仏法澆薄になる程に、宗々も偏執石の如くかたく、我慢山の如く高し。像法の末に成りぬれば、仏法によて諍論興盛して仏法の合戦ひまなし。世間の罪よりも、仏法の失に依って無間地獄に堕つる者数をしらず。    また仏滅後であるけれども現に法華経が存在するので、外道の法から小乗経に移り、小乗経から権大乗経に移り、権大乗経から法華経に移る人々も数え切れないほどいる。竜樹菩薩・無著菩薩・世親論師などがそれである。 像法一千年の間は、正法時代のようではないけれども、過去はまた現在に法華経の種を殖えた人々も少しはいる。
 しかるに、だんだんに仏法の力が弱くなるにつれて、各宗の偏った考えへの執着が石のように固くなり、我慢の心は山のように高くなっていった。 像法時代の末になると、仏法についての諍論が盛んに興って仏法の合戦は止む時がない。そのため世間の罪よりも仏法の失によって無間地獄に堕ちる者は数限りない。

 

第六章 末法の破法の様相を示す

 今は又末法に入って二百余歳、過去現在に法華経の種を殖えたりし人々もやうやくつきはてぬ、又種をうへたる人々は少々あるらめども、世間の大悪人、出世の謗法の者数をしらず国に充満せり。譬へば大火の中の小水、大水の中の小火、大海の中の水、大地の中の金なんどの如く、悪業とのみなりぬ。又過去の善業もなきが如く、現在の善業もしるしなし。或は弥陀の名号をもて人を狂はし、法華経をすてしむれば背上向下のとがあり。
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   今はまた末法の時代に入って二百余年となり、過去・現在に法華経の種を殖えた人達もだんだんいなくなってしまった。
 また種を植えた人は少しはあるだろうが、世間の大悪人や出世間の謗法の者が数限りなく国中に充満している。たとえば大火のなかの小水、大水のなかの小火、大海のなかの真水、大地のなかの黄金のように、悪業のみとなってしまって、過去の善業もないようなものであり、現在の善業もききめがない。 あるいは阿弥陀の名号をもって人々を狂わせて法華経を捨てさせ、背上向下の罪をつくる。
 或は禅宗を立てゝ教外と称し、仏教をば真の法にあらずと蔑如して増上慢を起こし、或は法相・三論・華厳宗を立てゝ法華経を下し、或は真言宗・大日宗と称して、法華経は釈迦如来の顕教にして真言宗に及ばず等云云。而るに自然に法門に迷ふ者あり、或は師々に依って迷ふ者もあり、或は元祖・論師・人師の迷法を年久しく真実の法ぞと伝へ来たる者もあり。    あるいは禅宗を立てて教外別伝と称え、仏教を真実の法ではないと蔑如して増上慢を起こし、あるいは法相宗・三論宗・華厳宗を立てて法華経を下し、あるいは真言宗とか大日宗と称して、法華経は釈迦如来の説かれた顕教で真言宗には及ばないなどといっている。 そこで自然に法門に迷う者もあり、あるいは師匠に従って迷う者もあり、あるいは元祖、論師、人師の間違った教えを、長い間真実の法であると伝えてきた者もある。
 或は悪鬼天魔の身に入りかはりて悪法を弘めて正法とをもう者あり、或ははづかの小乗一途の小法をしりて大法を行ずる人はしからずと我慢して、我が小法を行ぜんが為に大法秘法の山寺をおさへとる者もあり、或は慈悲魔と申す魔、身に入って三衣一鉢を身に帯し小乗の一法を行ずるやからわづかの小法を持ちて、国中の棟梁たる比叡山竜象の如くなる智者どもを、一分我が教へにたがへるを見て、邪見の者悪人なんどうち思へり。此の悪見をもて国主をたぼらかし誑惑して正法の御帰依をうすうなし、かへて破国破仏の因縁となせるなり。    あるいは悪鬼や天魔がその身に入り代わって悪法を弘めて正法であると思っている者もあり、あるいは、わずかの小乗のみの小法を知って、大法を行ずる人を間違いであると我慢の心を起こし、自分の小法を弘めるために大法秘法を弘める山寺を抑え取る者もあり、あるいは慈悲魔という魔が身に入るゆえに、三衣一鉢を身に帯して小乗の一法を修行する輩が、わずかの小法を持っただけで、国中の仏法の頭である比叡山の竜象のような智者を、自分の教えと違っているのを見て、邪見の人、悪人であるなどと思っている。 そのうえ、この悪見をもって国主をたぶらかし、惑わして正法の御帰依を薄くさせ、かえって国を破り、仏法を破る因縁を作っている。
 かの姐己・褒似なんど申せし后は心もをだやかに、みめかたち人にすぐれたりき。愚王これを愛して国をほろぼす縁となる。当世の禅師・律師・念仏者なんど申す聖一・道隆・良観・道阿弥・念阿弥なんど申す法師等は鳩鴿が糞を食するがごとく、西施が呉王をたぼろかしゝににたり。或は我が小乗臭糞の驢乳の戒を持ちて    かの妺己・妲己・褒姒という后は、穏やかな風情があり、容貌も人に優れていたが、愚王はこれに溺れて国をほろぼす因縁となった。
 今の世の禅師、律師、念仏者である聖一・道隆・良観・道阿弥.念阿弥などの法師どもは、家鳩が糞土を食べるように、また西施が呉王をたぼらかしたことに似ている。あるいは自分等の小乗の臭糞・驢乳の戒を持って…。