大白法・平成10年8月1日刊(第507号より転載)御書解説(064)―背景と大意

経王殿御返事(御書685頁)

 一、御述作の由来

 本抄は、文永十年(1273)八月十五 日、大聖人様が五十二歳の御時、佐渡の一谷(いちのさわ)において(したた)められました。

 かっては、四条金吾殿に与えられたお手紙であるとの説もありましたが、確かな根拠はありません。また御真蹟も現存していません。

対告衆

 本抄の対告衆については、詳しいことは判っていません。

 しかし、本抄に、

 「経王御前にはわざはひも転じて(さいわ)ひとなるべし

とあり、また、

 「浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ

とあることから、経王御前の母に与えられたお手紙であると推測されます。

背景

 本抄の前年に認められた『経王御前御書』に、

 「経王御前を(もう)けさせ給ひて候へば、現世には跡をつぐべき孝子なり。後生には又導かれて仏にならせ給ふべし」(御書635頁)

とあることから、文永九(1272)年に経王御前がめでたく誕生していることを知ることができます。

 しかし、経王御前の母にとっては喜びもつかの間、誕生間もない経王御前が病魔に(おか)され心を痛める日々が続いたのです。

 そこで経王御前の母は、我が子の病状について佐渡におられる大聖人様に御報告申し上げました。大聖人様は、さっそく経王御前の病気が平癒(へいゆ)するよう御本尊を(したた)められ、授与なさったのです。

 その後、経王御前の様子をことのほか心配しておられた大聖人様のもとに、経王御前の母の使いが御供養を(たずさ)えて訪れました。

 その折の御供養に対する御礼を述べるとともに、先般、授与した御本尊を堅く信受していくならば、必ず経王御前の病気が平癒していくのであると、経王御前の母を激励されたのが本抄です。  

 二、本抄の大意

 はじめに、御供養に対し、感謝の意が述べられます。

 次いで、経王御前のことを二六時中祈念していることを述べた上で、先日授与した御本尊を暫時(ざんじ)も身から離さず(たも)つよう、また、その御本尊は、正法・像法時代には習った人も、まして書き顕すこともなかったと御教示されています。

 さらに、師子王が獲物を捕らえるときには相手の力にかかわらず全力を注ぐことを譬えとしてあげ、御本尊を認める場合も師子王に劣らず全力を込めて認めているのである。よって、この御本尊を能く能く信じなさいと御指南されています。

 続いて、南無妙法蓮華経は師子吼(ししく)のごとくであるから、(いか)なる病も(さわ)りをなすことはできないとし、法華経の題目を持つ者が守護されていく所以(ゆえん)が示されています。ただし、そのためには、御本尊に対する信心が何よりも大切であると教誡(きょうかい)されています。

 次に、御本尊は大聖人様の魂を墨に染め流して認めてあるのだから信じていくよう勧奨(かんしょう)するとともに、釈尊と御自身を対比され、釈尊の御意(みこころ)は法華経に尽きるが、日蓮の魂は法華経本門の肝心たる南無妙法蓮華経であると明言されています。

 そして、経王御前の病気平癒のため大聖人様の御魂にまします御本尊に、信心を(いだ)して御祈念していくよう励まされています。

 最後に、佐渡配流が赦免(しゃめん)となったならば、 さっそく鎌倉に(おもむ)き、経王御前の母に会うことを約束され、さらには経王御前のことを強盛に祈念していることを述べて本抄を結ばれています。

 三、拝読のポイント

 本抄は、御自ら配流の身として艱難(かんなん)()いられていながらも、経王御前の病気が平癒するよう念じられる大聖人様の大慈大悲が全編を通して拝せられます。

 その中で、ポイントを三点に絞り述べることとします。

 第一は、大聖人様の認められる御本尊が、正法時代・像法時代には顕されることも習う人もなかった、いわゆる正像(しょうぞう)未弘(みぐ)の御本尊であるということです。本抄執筆の前年に同じく佐渡において(あらわ)された『観心本尊抄』には、

 「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇土と()し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り(えが)けども(いま)だ寿量の仏(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(御書654頁)

と、末法出現の御本尊は正法・像法時代には出現していないことを御教示です。さらに、

 「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と()す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書661頁)

と、本門の釈尊をも脇士とする末法出現の御本尊が、地涌千界すなわち大聖人様によって顕されることを御教示されているのです。

 本抄の、

 「其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり

との仰せも、「観心本尊抄」の御教示と同じ意義の御指南であると拝せられるのです。

 第二は、大聖人様が認められる御本尊が、大聖人様の御当体にましますということです。本抄の、

 「日蓮がたまし()ひをすみ()にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし

との御文は、まさに人法一箇の御本尊について御教示されたものなのです。

 すなわち、文底下種の御本仏として末法に御出現あそばされた大聖人様が、一切衆生を利益せしめんと、御自らの魂を御本尊として顕されたのです。よって本宗においては、人法一箇の御本尊と拝し奉るのです。

 しかし、相伝がない他門では、大聖人様の御意が判らないため、釈尊像を本尊とするなど、大聖人様を()しく敬い、本尊に迷乱(めいらん)する結果を招いているのです。

 第三は、御本尊に対する絶対なる確信を持つことです。大聖人様は本抄において、

 「但し御信心によるべし。つるぎ()なんども、すゝ()まざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけな()()なる人こそ用ふる事なれ。鬼にかな()ぼう()たるべし

と、御本尊を受持していく心構えを御教示され、さらに、

 「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき

と、御本尊を一心に信じ行じていくことによって、諸願も成就していくことを御教示なさっています。

 これらの功徳も、私たちの信心が強盛であればこそ顕現することを深く銘記しなければなりません。

 四、結  び

 我が子の病気に心を痛めた経王御前の母は、大聖人様の御指南によってその苦難を乗り越えるよう努めました。

 それに対し大聖人様は、慈愛あふれる御言葉をもって経王御前の母の信心を励まし、確信を持たせることに御心を砕かれていることが拝せられます。

 つまり、私たちの確信ある信心こそが、あらゆる問題を解決せしめる唯一の道であることを大聖人様は教えてくださっているのです。

 私たちの前途には、いかなる苦難が待ち受けているか判りません。しかし、いかなる苦難が待ち受けようとも本抄の、

 「南無妙法蓮華経は師子吼(ししく)の如し

との御指南のとおり、師子王のごとき確信ある信心によって悠然(ゆうぜん)と乗り越え、その実証をもって、いよいよ破邪顕正の折伏に精進してまいろうではありませんか。