大白法・平成7年5月1日刊(第431号より転載)御書解説(025)―背景と大意

諸法実相抄(664頁)

 

 一、御述作の由来

 本抄は、文永十(1272)年五月十七日、大聖人様が五十二歳の御時、佐渡の一谷において認められた御書です。御真蹟は現存していません。

対告衆

 本抄の対告衆は、佐渡の流人であった天台宗の僧侶で、文永九年の二月に大聖人様の弟子となった最蓮房日浄です。

 文永十年一月二十八日に賜った『最蓮房御返事』によると、このころ最蓮房は病を患っていたため、一人静かに山ごもりをしたいと思っていたようです。しかし、大聖人様から、

法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得」(御書642頁)

との息災延命の尊い御指南と、温かい激励を賜り、最蓮房は改めて法華弘通の大切さを知るとともに、自らの信仰姿勢を反省し、新たな気持ちで仏道精進を誓ったものと思われます。

背景

 大聖人様は文永九年の夏、佐渡塚原から一谷に移られましたが、流人としての扱いに変わりはなく、日々の食事はもちろん、紙や筆墨の資具などにも事欠く、大変不自由な御境遇の中にありました。

 そのような中にあって、大聖人様は『生死一大事血脈抄』『草木成仏口決』『開目抄』『祈祷抄』『観心本尊抄』など数多くの御書を御執筆あそばされ、重要法義をお示しになっています。

 中でも、文永九年二月に著わされた『開目抄』には、一切衆生が本尊とすべき主師親三徳兼備の仏とは、大聖人自身であると御教示になり、また本抄の一ヵ月前に著わされた『観心本尊抄』には、末法の一切衆生のために建立される観心の本尊について、その法義と行法が明かされ、御本尊の体が大聖人様の己心にあるとの深義を御教示されています。

 本抄は、『開目抄』や『観心本尊抄』に示された人法の御本尊開顕の意義を基調とし、大聖人様の弟子となってまだ日の浅い最蓮房に対して、大聖人様の己心の法門の一端を披歴し、一閻浮提第一の御本尊を受持信行することの大切さを御教示あそばされた書であります。

 二、本抄の大意

 はじめに方便品の、

諸法実相 乃至 如是本末究竟等」(開結154頁)

の文意について、文在迹門、義在本門の上から解説され、下地獄から上仏界までの十界の依正の当体が、悉く妙法蓮華経の姿であると説き、釈迦・多宝の二仏も妙法蓮華経の用として顕れることを明かしています。

 そして、このような法門は、大聖人の他には申し出す人は一人もいない。何故ならば、天台・妙楽・伝教等の人々は心に知っていても、迹化の故に付嘱がなく、機もなく、末法の時に至っていなかったためであり、これは末法において、本化地涌の菩薩によって初めて弘通されるべき法門であるからだと述べられています。

 また妙法蓮華経が本仏であり、釈迦・多宝は用の仏であること、また凡夫は体の三身で本仏であり、仏は用の三身で迹仏であると立て分けられ、本門の実相の上からの仏は凡夫であり、そこに倶体倶用の三身があると示されます。

 そして諸法とは妙法蓮華経なり、実相もまた妙法蓮華経なりと示され、万法の当体の姿が妙法蓮華経であると、本門の意義における諸法実相の実義を明かされているのです。

 次に、妙法を弘め大漫荼羅本尊を顕わす大聖人には、尊い御内証が存することを示され、大聖人様を迫害する者の罪の重さと、大聖人様を供養し、また弟子檀那の縁を結ぶ功徳を対比して、大聖人様に信順することの大切さを示されています。

 また、大聖人の弟子となり、師の心に違うことなく妙法弘通に励むならば、地涌の菩薩の眷属の一員に定まるであろうと示され、地涌の菩薩の出現でなくては唱えがたい題目を、日蓮をはじめ、僧俗が次々と現当二世に亘って唱え伝えていくならば、必ず妙法の広宣流布を実現することができる、と御教示あそばされています。

 次に、大聖人様は過去の虚空会における御自身の姿、さらに現当二世にわたる法華経の行者としての尊い因縁と功徳を思うとき、喜悦の涙が止めどもなく流れるのである、とお述べになっています。そして釈尊滅後に弟子たちが、釈尊を思い涙をもって如是我聞の妙法蓮華経を結集した姿を通し、日蓮もまた如是我聞の妙法蓮華経を弘通するに当たり、大難につけ一切衆生の成仏を思うにつけ涙が出るけれども、それは法華経の故の涙であり、甘露の涙である、と述べられています。

 最後に、最蓮房に対し、本抄には大事の御法門を書き記したので、熟読して信解するようにと述べるとともに、大聖人御図顕の一閻浮提第一の御本尊を信心の対境として、信行学に精進し、たとえ一文一句なりとも他の人に説き聞かせ、化他の実践に精進するよう督励しています。

 なお追申では、先に最蓮房に与えた『生死一大事血脈抄』や『祈祷抄』などの諸御書にも重要な法義を示したが、この御書には特に大事の法門を書き記したと仰せられています。

 すなわち、久遠元初下種の妙法蓮華経を所持あそばす御本仏が凡夫であるという凡夫即極の法門の顕示であり、それは末法出現の大聖人様の当体に具わる人法である、との御教示であります。それ故に、ここでは、

日蓮が身に当たっての法門わたしまいらせ候」(御書668頁)

日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ」(同頁)

と繰り返し述べて、大聖人様の甚深の御境界を信解せしめようとされているのです。

 三、拝読のポイント

 御法主日顕上人猊下は、本抄を御講義あそばされた中で、

『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり』という御文ですが、これが付嘱の本門の上からの大聖人様の独自の解釈です。これは大変な御文です。つまり寿量品の文底たる付嘱の本門から体の三身・用の三身を立て分けるときには、実は凡夫の上におけるところの三身をもって『如来秘密』というのであると仰せなのです。ここにこそたいへん大事な、付嘱の妙法を地涌の再誕たる大聖人様が末法に御出現して御指南あそばす御法門があるのです。この元意は何かと言うと、日蓮大聖人様は末法に凡夫として出現されましたが、この凡夫のままの日蓮が実は久遠の本仏であるぞという意味なのです」(大日蓮536号)

と御指南されています。 すなわち、本抄において、仏と凡夫、本仏と迹仏の意義が反転し、真実の倶体・倶用の三身が凡夫に具わるという驚天動地の法門が展開されていますが、これは久遠元初の御本仏日蓮大聖人様が凡夫の姿をもって出現する、という義をお示しになられたのであり、凡夫の大聖人様の体に三身が具わり、またそこに用の三身が具わるという倶体・倶用の意義を示された甚深の御法門が、凡夫即極ということなのであります。

 したがって、大聖人様こそ久遠元初の御本仏であり、私たち衆生は御本仏、大聖人様に随順し、信心修行に励むときにはじめて倶体・倶用の三身の徳性が開かれるのです。

 すなわち、大聖人様が御化導の究竟中の究竟として御顕示あそばされた「本門戒壇の大御本尊」を信順し、行学の二道に励み、広布の願業に精進するとき、私たち凡夫の身に三身の徳が顕われ、即身成仏の境界の大功徳を得ることができるということなのです。

 四、結  び

 さて、『行学の年』を飾る「第二回教学試験」が、全国各寺院を中心会場として行われました。参加した講員の多くが、この教学試験を通じ、宗門基礎教学の研鑚に勤しみ、合わせて仏法を正しく学ぶことの大切さ、悦びを感じ取ったことと思います。

 御法主日顕上人猊下は、本年の『新年の辞』において、

仏法の教えを少しずつ学び、身につみ知るとき、今まで見えなかったものが見え、識らなかったものが明らかとなって、法の悦びに心が高まる。まさに真の遊楽であり、あらゆる人の実生活に即した尊い大光明である」(大日蓮587号)

と、教学を研鑚することの意義と功徳を御指南されています。

 この尊い「学ぶ」悦びを感じた今こそ、一人でも多くの人に「語り教える」時ではないでしょうか。それが本抄末文の、

力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書668頁)

との御聖意と拝するものです。