四条金吾殿御返事 文永九年 五一歳

別名『梵音声書』

第一章 国王の力を述べる

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 (それ)(せい)桓公(かんこう)と申せし王、紫をこの()みて()給ひき。()の荘王と言ひし王は女の腰のふと()き事をにくみしかば、一切の遊女腰をほそ()からせんがために餓死しけるものおほ()し。しかれば一人の好む事をば我が心に()はざれども万民随ひしなり。たとへば大風の草木をなび()かし、大海の衆流をひくが如し。風にしたがはざる草木は()れうせざるべしや。小河大海におさまらずば、いずれのところ()おさ()まるべきや。

 国王と申す事は、先生(せんじょう)に万人にすぐれて大戒を持ち、天地及び諸神ゆるし給ひぬ。其の大戒の功徳をもちて、其の住むべき国土を定む。二人三人等を王とせず。地王・天王・海王・山王等(ことごと)く来たってこの人をまぼ()る。いかにいはんや其の国中の諸民、其の大王を背くべしや。此の王はたとい悪逆を犯すとも、一二三度等には左右(とこう)無く此の大王を罰せず。(ただ)諸天等の()(こころ)に叶はざる者は、一往は天変(てんぺん)地夭(ちよう)等をもちてこれをいさ()む。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、()来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪(さわ)かさ()なれば隣国に破らるゝ事もあり。善悪に付けて国は必ず王に随ふものなるべし。

第二章 仏法流布の次第を述べる

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 世間此くの如し、仏法も又(しか)なり。仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。或は後には流布すれども始めには必ず大難来たる。迦弐志加(かにしか)王は仏の滅後四百余年の王なり。(けん)陀羅(だら)国を(たなごころ)のうちににぎ()れり。五百の阿羅(あら)(かん)を帰依して()沙論(しゃろん)二百巻をつくらしむ。国中(すべ)て小乗なり、其の国に大乗弘めがたかりき。発舎(ほっしゃ)密多羅(みたら)王は五天竺を随へて、仏法を失ひ、衆僧の頚をきる。誰の智者も叶はず。太宗は賢王なり。玄奘(げんじょう)三蔵を師として法相宗を持ち給ひき。誰の臣下かそむきし。此の法相宗は大乗なれども五性(ごしょう)各別(かくべつ)と申して、仏教中のおほ()きなるわざは()いと見えたり。なお外道の邪法にもすぎたる悪法なり。月支(がっし)震旦(しんだん)・日本三国共にゆるさず。終に日本国にして伝教大師の御手にかゝりて此の邪法止め(おわ)んぬ。大なるわざはひなれども太宗これを信仰し給ひしかば、誰の人かこれをそむ()きし。

 真言宗と申すは大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしっじ)経による。これを大日の三部と号す。玄宗(げんそう)皇帝の御時、(ぜん)無畏(むい)三蔵・金剛智三蔵天竺より()ち来たれり。玄宗これを尊重し給ふ事、天台・華厳等にもこえたり。法相・三論にも勝れて(おぼ)()すが故に、漢土(かんど)(すべ)て大日経は法華経に勝るとおもひ、日本国当世にいたるまで天台宗は真言宗に劣るなりとおもふ。彼の宗を学する東寺天台の高僧等慢過慢をおこす。但し大日経と法華経とこれをならべて偏党を捨てこれを見れば、大日経は蛍火の如く、法華経は明月の如く、真言宗は衆星の如く、天台宗は日輪の如し。偏執の者の云はく、汝未だ真言宗の深義を習ひきは()めずして彼の無尽の(とが)を申す。但し真言宗漢土に渡りて六百余年、日本に弘まりて四百余年、此の間の人師の難答あらあらこれをしれり。伝教大師一人此の法門の根源をわきまへ給ふ。しかるに当世日本国第一の(とが)是なり。勝を以て劣と思ひ劣を以て勝と思ふの故に、大蒙古国を調伏(じょうぶく)する時、還って襲はれんと欲する是なり。

 華厳宗と申すは法蔵法師が所立の宗なり。則天皇后の御帰依ありしによりて諸宗肩をなら()べがたかりき。
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しかれば王の威勢によりて宗の勝劣はありけり。法に依って勝劣はなき様なり。たとい深義を得たる論師人師なりといふとも、王法には勝ちがたきゆへに、たまたま勝たんとせし仁は大難にあへり。所謂(いわゆる)師子尊者は(だん)弥羅(みら)王のために頚を刎ねらる、提婆(だいば)菩薩は外道のために殺害せらる。(じく)の道生は蘇山に流され、法道三蔵は(かお)火印(かなやき)()されて江南に放たれたり。

第三章 留難の所以を明示す

 而るに日蓮は法華経の行者にもあらず、僧侶の数にも入らず。然而(しかして)世の人に随って阿弥陀仏の名号を持ちしほどに、阿弥陀仏の化身とひゞかせ給ふ善導(ぜんどう)和尚の云はく「十即十生百即百生乃至千中無一」と。勢至菩薩の化身と()をがれ給ふ法然上人、此の釈を料簡(りょうけん)して云はく「末代に念仏の外の法華経等を(まじ)ふる念仏においては千中無一、一向に念仏せば十即十生」云云。日本国の有智・無智仰いで此の義を信じて今に五十余年、一人も疑ひを加へず。唯日蓮の諸人にかはる所は、阿弥陀仏の本願には「唯五逆罪と誹謗正法とを除く」とちかひ、法華経には「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と説かれたり。此善導・法然謗法の者なれば、たのむところの阿弥陀仏にすてられをはんぬ。余仏余経においては我と(なげう)ちぬる上は救ひ給ふべきに及ばず。法華経の文の如きは無間地獄疑ひなしと云云。而るを日本国はをしなべて彼等が弟子たるあひだ、此の大難まぬがれがたし。無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是なり。

 前々の諸難はさておき候ひぬ。去る九月十二日御勘気をかふりて、其の夜のうちに頚をはね()らるべきにて候ひしが、いかなる事にやよりけん、彼の夜は()びて此の国に来たりていま()まで候に、世間にもすてられ、仏法にも捨てられ、天にも()ぶらはれず、二途にかけたるすてものなり。

第四章 仏の使いについて述べる

而るを(いか)なる御志にてこれまで御使ひをつかはし、御身には一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送りつかはされたる事、両三日はうつゝともおぼへず。彼の法勝寺の修行が、()はを()が島にてとしごろ(年来)つかひける(わらべ)にあひたりし心地なり。
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胡国の(えびす)陽公と()ひしもの、漢土(かんど)にいけどられて北より南へ出でけるに、飛びちがひける(かり)を見てなげ()きけも、これにはしかじとおぼへたり。但し法華経に云はく「若し善男子善女人、我が滅度の後に能く(ひそ)かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ずるなり」等云云。法華経の一字一句も唱へ、又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使ひなり。然れば日蓮(いや)しき身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たれり。此を一言もそし()らん人々は罪無間を開き、一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにも()ぎぎたりと見えたり。

第五章 法華経の功徳を示す

 教主釈尊は一代の教主、一切衆生の導師なり。八万法蔵は皆金言、十二部経は皆真実なり。無量億劫より以来(このかた)、持ち給ひし不妄語の所詮は一切経是なり。いづれも疑ふべきにあらず。但し是は総相なり。別してたづぬれば、如来の金口より出来して小乗・大乗・顕・密・権経・実経是あり。今この法華経は、仏「正直捨方便等乃至世尊法久後要当説真実」と説き給ふ事なれば、誰の人か疑ふべきなれども、多宝如来証明(しょうみょう)を加へ、諸仏舌を梵天に付け給ふ。されば此の御経は一部なれども三部なり、一句なれども三句なり。一字なれども三字なり。此の法華経の一字の功徳は、釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給ふ。たとへば如意宝珠のごとし。一珠も百珠も同じき事なり。一珠も無量の宝を()らす、百珠も又無尽の宝あり。たとへば百草を()りて一丸乃至百丸となせり。一丸も百丸も共に病を治する事これをなじ。譬へば大海の一渧も衆流を備へ、一海も万流の味をもてるが如し。

 妙法蓮華経と申すは総名なり、二十八品と申すは別名なり。月支と申すは天竺(てんじく)の総名なり、別しては五天竺是なり。日本と申すは総名なり、別しては六十六州これあり。如意宝珠と申すは釈迦仏の御舎利なり。竜王にこれを給ひて頂上に頂戴して、帝釈是を持ちて宝をふらす。仏の身骨の如意宝珠となれるは、無量劫来持つ所の大戒、
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身に薫じて骨に()み、一切衆生をたすくる珠となるなり。たとへば犬の牙の虎の骨に()く、魚の骨の()(いき)に消ゆるが如し。乃至師子の(すじ)を琴の(いと)にかけてこれを()けば、余の一切の獣の筋の絃、皆きらざるにやぶる。仏の説法をば師子吼と申す、乃至法華経は師子吼の第一なり。

第六章 梵音声の本義を説く

 仏には三十二相そなはり給ふ。一々の相皆百福荘厳なり。肉髻(にくけい)白毫(びゃくごう)なんど申すは(このみ)の如し。因位の華の功徳等と成りて三十二相を備へ給ふ。乃至無見頂相と申すは、釈迦仏の御身は丈六なり。竹杖(ちくじょう)外道(げどう)は釈尊の御長(みたけ)をはからず、御頂を見奉らんとせしに御頂を見たてまつらず。応持菩薩も御頂を見たてまつらず。大梵天王も御頂を見たてまつらず。これはいかなるゆへ()ぞとたづぬれば、父母・師匠・主君を頂を地につけて恭敬(くぎょう)し奉りしゆへに此の相を感得せり。

 乃至梵音(ぼんのん)(じょう)と申すは仏の第一の相なり。小王・大王・転輪王等此の相を一分備へたるゆへに、此の王の一言に国も破れ国も治まるなり。宣旨と申すは梵音声の一分なり。万民の万言、一王の一言に及ばず。三墳(さんぷん)五典(ごてん)なんど申すは小王の御言なり。此の小国を治め乃至大梵天王三界の衆生を随ふる事、仏の大梵天王帝釈等をしたがへ給ふ事もこの梵音声なり。此等の梵音声一切経と成りて一切衆生を利益す。其の中に法華経は釈迦如来の御志を書き顕はして此の音声を文字と成し給ふ。仏の御心はこの文字に備はれり。たとへば種子と苗と草と稲とはかはれども心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかは()れども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ()まい()らせたりとおぼしめすべし。此の志佐渡国までおくりつかはされたる事すでに釈迦仏()ろし()(おわ)んぬ。実に孝養の詮なり。恐々謹言。 

  文永九年 月 日    日蓮花押
 四条三郎左衛門尉殿御返事