真言見聞 文永九年七月  五一歳

 

第一章 真言亡国・堕獄の因なるを明かす

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 問ふ、真言亡国とは証文何なる経論に出づるや。答ふ、法華誹謗・正法向背の故なり。問ふ、亡国の証文之無くば、云何に信ずべきや。答ふ、謗法の段は勿論なるか。若し謗法ならば、亡国堕獄疑ひ無し。
 
 問う。真言亡国とはその証文はどの経論に出ているのか。答える。真言宗は法華経を誹謗し、正法に背くゆえである。
 問う。亡国という証文がなければ。どうして信ずることができようか。答える。真言宗が謗法であることは認めるのか。もし謗法であるならば、亡国・堕地獄は疑いがない。

 

第二章 謗法が堕獄の業因なるを明かす

 凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。是涅槃経の文なり。爰を以て法華経には「則ち一切世間の仏種を断ず」と説く。是を即ち一闡提と名づく。涅槃経の一と十と十一とを委細に見るべきなり。罪に軽重有れば獄に浅深を構へたり。殺生偸盗等、乃至一大三千世界の衆生を殺害すれども、等活・黒縄等の上七大地獄の因として、
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無間に堕つる事は都て無し。阿鼻の業因は経論の掟は五逆・七逆・因果撥無・正法誹謗の者なり。但し五逆の中には一逆を犯す者は無間に堕すと雖も、一中劫を経て罪を尽くして浮かぶ。一戒をも犯さず、道心堅固にして後世を願うと雖も、法華に背きぬれば、無間に堕ちて展転無数劫と見えたり。然れば則ち謗法は無量の五逆に過ぎたり。是を以て国家を祈らんに天下将に泰平なるべしや。
   およそ謗法とは謗仏・謗僧である。仏・法・僧の三宝は一体であるゆえである。これは涅槃経の文である。このことを法華経には「すなわち一切世間の仏種を断ずる」と説かれ、この者を一闡堤と名づける。涅槃経の巻一と巻十一を詳細に見るべきである。
 罪に軽重があるので地獄にも浅深を設けている。殺生・偸盗など、そして三千大千世界の衆生を殺害したとしても、等活地獄・黒縄地獄などの上方の七大地獄の因となるが、無間地獄に堕ちることは全くない。
 阿鼻地獄の業因は経論の定めによると五逆罪・七逆罪・因果否定・正法誹謗のものである。ただし五逆罪のなかの一逆を犯す者は、一中劫を経過して罪は消滅し浮かび上がる。一戒をも犯さず仏道を求める心を固くして後世を願ったとしても、法華経に背いてしまうと無間地獄に堕ちてこの地獄を展転することが無数劫であると経文に説かれている。だから謗法は無量の五逆罪に過ぎている。これをもって国家を祈って、天下が泰平になることがあるだろうか。

 

第三章 真言亡国の現証を明かす

 諸法は現量に如かず。承久の兵乱の時、関東には其の用意もなし。国主として調伏を企て、四十一人の貴僧に仰せて十五壇の秘法を行はる。其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行はる。七日に満ぜし日、京方負け畢んぬ。亡国の現証に非ずや。是は僅かに今生の小事なり。権経邪法に依って悪道に堕ちん事浅猿かるべし。    あらゆる事象は直接に知覚できる事実で量ることが最も確実である。承久の兵乱の時、関東には祈禱の用意もなかった。それに対し朝廷側は国主として調伏を企て、四十一人の貴い僧に命じて真言の十五壇の秘法を行った。そのなかに守護経の法を紫宸殿において、御室の道助法親王が初めて行った。祈禱が満了する七日目に、朝廷方がまけてしまった。これは亡国の現証ではないか。このことはわずかに今生の小事であるが、権教・邪法によって悪道に堕ちることはあさましい限りである。

 

第四章 真言を権教・邪法とする文証

 問ふ、権教邪宗の証文は如何。既に真言教の大日覚王の秘法は即身成仏の奥蔵なり。故に上下一同に是の法に帰し、天下悉く大法を仰ぐ。海内を静め天下を治むる事偏に真言の力なり。然るを権教邪法と云ふ事如何。答ふ、権教と云ふ事、四教含蔵、帯方便の説なる経文顕然なればなり。然らば四味の諸経に同じて、久遠を隠し二乗を隔つ。況んや尽形寿の戒等を述ぶれば、小乗権教なる事疑ひ無し。爰を以て遣唐の疑問に、禅林寺の広修・国清寺の維の決判分明に方等部の摂と云ひしなり。

   問う。権教・邪宗ということの証文はどうか。既に真言教の大日如来の秘法は即身成仏の奥深い教えである。ゆえに身分の上下を問わず一同にこの真言の法に帰依し、天下の人々はことごとく、この大法を仰いでいる。
 日本国内を平静にして天下を治めることは、全く真言の力である。その真言教を権教・邪法ということはどうか。
 答える。権教というのは真言経典が蔵・通・別・円の四教を含有し方便を帯びた説であるとする経文が明らからである。だから四味の諸教と同じく、久遠実成を隠し二乗を成仏できないものとして排斥している。まして肉体と寿命が尽きると戒の功徳もなくなる小乗の戒などを説いているのであるから小乗・権経であることは疑いない。このために延暦寺第二代座主・円澄が唐に使いを送って答えを求めた質疑に対して、禅林寺の公修や国清寺の維蠲の決答は明らかで、真言教は方等部に入ると言っている。

 

第五章 大日経指帰の偽作を指摘す

 疑って云はく、経文の権教は且く之を置く。唐決の事天台の先徳円珍大師之を破す。大日経の指帰に「法華尚及ばず、況んや自余の教をや」云云。既に祖師の所判なり。誰か之に背くべきや。決に云はく「道理前の如し」と。依法不依人の意なり。但し此の釈を智証の釈と云ふ事不審なり。其の故は授決集の下に云はく「若し法華・華厳・般若等の経に望めば、是摂引門」と云へり。広修・維を破する時は法華尚及ばずと書き、授決集には是摂引門と云って、二義相違せり。指帰が円珍の作ならば、授決集は智証の釈に非ず。授決集が実作ならば、指帰は智証の釈に非じ。今此の事を案ずるに、授決集が智証の釈と云ふ事、天下の人皆之を知る上、公家の日記にも之を載せたり。
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指帰は人多く之を知らず。公家の日記にも之無し。此を以て彼を思ふに後の人作って智証の釈と号するか。能く能く尋ぬべき事なり。授決集は正しき智証の自筆なり。
   疑っていう。経文の権教ということについてはしばらく置いて、唐決のことは天台宗の先徳である智証大師がこれを破している。すなわち大日経指帰に「大日経はには法華経にすらなお及ばない。ましてそれ以外の諸経においてはなおさらである」とある。既に祖師である智証大師の判別である。だれがこの判別に背くことができようか。
 唐決に「道理は前に述べたとおりである」とある。これは「法に依って人に依らざれ」との意である。ただしこの大日経指帰の釈を智証の釈というのは疑わしい。そのゆえは智証の受決集の巻下に「もし法華・華厳・涅槃などの経に対すると、大日経は摂入に誘引する方便の教えである。といっているからである。唐決の公修や維蠲を打ち破る時は、大日経指帰に「法華経ですらなお及ばない」と書き、受決集には「大日経は摂入し誘引する教えである」といって、二つの義は相違している。大日経指帰が智証の作であるならば受決集は智証の釈ではない。受決集が真実であるならば、大日経指帰は智証の釈でないことになろう。今、このことを考えるに、受決集は智証の釈であることは天下の人がすべて知っているうえ、公家の日記にもこれを記載している。大日経指帰は多くの人々が知らず、公家の日記にも記載していない。このことから大日経指帰について考えると、この釈は後世の人が作って智証の釈と称したものであろうか。よくよく探って明らかにすべきである。一方、受決集は正しく智証の自筆である。

 

第六章 門下の肝心は謗法呵責にあるを示す

 密家に四句の五蔵を設けて十住心を立て、論を引き伝を三国に寄せ、家々の日記と号し、我が宗を厳るとも、皆是妄語胸臆の浮言にして荘厳己義の法門なり。所詮法華経は大日経より三重の劣・戯論の法にして釈尊は無明纏縛の仏と云ふ事、慥なる如来の金言経文を尋ぬべし。証文無くんば何と云ふとも法華誹謗の罪過を免れず。此の事当家の肝心なり。返す返す忘失する事勿れ。何れの宗にも正法誹謗の失之有り。対論の時は但此の一段に在り。
 仏法は自他宗異りと雖も、翫ぶ本意は道俗・貴賤共に離苦得楽・現当二世の為なり。謗法に成り伏して悪道に堕つべくは、文殊の智慧・富楼那の弁説一分も無益なり。無間に堕つる程の邪法の行人にて国家を祈祷せんに将た善事を成すべきや。顕密対判の釈は且く之を置く。華厳に法華劣ると云ふ事、能く能く思惟すべきなり。
   密教の宗家では四句と五蔵判を設け、また十住心を立て、論を引き、インド・中国・日本の三国に伝来した教えであるとし、家々の日記にあるといって、自分の宗を飾るけれども、すべてこれは偽りの言葉であり胸中に勝手に抱いた根拠のない言い分であり、自分の説を飾り立てた法門である。つまるところ法華経は大日経より三重に劣り、たわむれに論じた法であって、釈尊は無明に纏われ縛られた仏といっているが、それを裏付ける確かな如来の金言である経文はあるかと追及すべきである。証拠の経文がなければ、何といおうとも法華経を誹謗する罪過を免れない。このことはわが宗の肝心である。くれぐれも忘れるようなことはあってはならない。
 いずれの宗にも正法誹謗の罪がある。対論の時はただこの一段を責めるべきである。仏法は自宗・他宗と異なっているけれども、仏法を学び修行する本意は僧と在家、また貴い人と賤しい人を問わず、現在と未来にわたって苦を離れ楽を得るためである。謗法を犯して悪道に堕ちるならば、文殊の智慧や富楼那の弁説も全く無益である。無間地獄に堕ちるほどの邪法の行者が国家を祈禱しても、どうして善事をなすことがあろうか。
 顕教・密教の勝劣の判別の釈はしばらく差し控えるが、華厳経に法華経が劣るということは、よくよく考えるべきである。

 

第七章 国の功罪、一分国王に帰すを示す

 華厳経の十二に云はく四十華厳なり「又彼の所修の一切功徳、六分の一常に王に属す。是くの如く修及び造を障る不善所有の罪業、六分の一還って王に属す」文。六波羅蜜経の六に云はく「若し王の境内に殺を犯す者有れば、其の王便ち第六分の罪を獲ん。偸盗・邪行及び妄語も亦復是くの如し。何を以ての故に、若しは法も非法も王為れ根本なれば、罪に於ても福に於ても、第六の一分は皆王に属するなり」云々。最勝王経に云はく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、他方の怨賊来たり国人喪乱に遭はん」等云々。大集経に云はく「若し復諸の刹利国王、諸の非法を作し、世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し、刀杖もて打斫し、及び衣鉢種々の資具を奪ひ、若しは他の給施に留難を作す者有らば、我等彼をして自然に卒に他方の怨敵を起こさしめ、及び自国の土にも亦兵起・病疫・飢饉し、非時に風雨し闘諍言訟せしめ、又其の王をして久しからずして、復当に己が国を忘失すべからしむ」云云。大三界義に云はく「爾の時に諸人共に聚まりて、衆の内に一人の有徳の人を立て、名づけて田主と為し、
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而して各所収の物六分の一を以て、以て田主に貢輸す。一人を以て主と為し、政法を以て之を治む。茲に因って以後、刹利種を立て、大衆欽仰して、恩卒土に流る。復大三末多王と名づく」巳上倶舎に依りて之を出だすなり。
   華厳経の巻十二に「また出家・在家の修行による一切の功徳の六分の一は常に王に属する。このように修行および造作や妨げる不善のもつ罪業の六分の一はかえって王に属する」とある。六波羅蜜経の巻六に「もし王の領土内に殺生を犯す者がいれば、その王は六分の一の罪を受ける。偸盗・邪婬および妄語もまたこれと同じである。どうしてかというと、法も非法も王が根本であるから罪においても福においても六分の一はすべて王に属するのである」とある。最勝王経に「悪人を愛敬し善人を治罰することが原因で、他国の怨賊が侵略し、国民が戦乱に遭い滅んでしまう」等とある。
 大集経に「もしまたもろもろの刹利である国王がもろもろの非法をなし世尊の声聞の弟子を苦しめ、もしくは毀り罵り、刀や杖をもって打ったり、切ったり、および衣服や食器、種々の器具を奪い、もしくは供給布施する他の人に迫害をなす者がいれば、我らは彼に対して自然にたちまちに他国の怨敵を起こさせ、および自らの国土にもまた合戦・疫病・飢饉・時ならぬ暴雨・戦いと論争をさせ、またその王に、遠くないうちに国を失わせるであろう」とある。大三界義に「その時に人々が共に集まって、その人々の中に一人の有徳の人を立て、田主と名づけて、おのおのが収穫物の六分の一を田主に貢ぎ物として差し出した。その一人を田主とし政の法によって人々を治めた。このことによって以後、王族を立て大衆は敬い仰いで、その国王の恩が領土に及んだ。またこの最初の王を大三末多王と名づけた。とある。

 

第八章 真言が隠密なるを示し破す

 顕密の事。無量義経十功徳品に云はく 第四功徳の下 「深く諸仏秘密の法に入り、演説すべき所違ひ無く失無し」と。
抑大日の三部を密教と云ひ、法華経を顕教と云ふ事、金言の出る所を知らず。所詮真言を密と云ふは、是の密は隠密の密なるか。微密の密なるか。物を秘するに二種有り。一には金銀等を蔵に篭むるは微密なり。二には疵片輪等を隠すは隠密なり。然れば則ち真言を密と云ふは隠密なり。其の故は始成と説く故に長寿を隠し、二乗を隔つる故に記小無し。此の二つは教法の心髄、文義の綱骨なり。微密の密は法華なり。然れば則ち文に云はく、四の巻法師品に云はく「薬王、此の経は是諸仏秘要の蔵なり」云云。五の巻安楽行品に云はく「文殊師利、此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」云云。寿量品に云はく「如来秘密神通之力」云云。如来神力品に云はく「如来一切秘要之蔵」云云。
   顕教と密教のこと。無量義経十功徳品第三に「この菩薩は深く諸仏の密教の法に入って、演説するところに間違いなく欠けるところがない」とある。
 そもそも大日の三部経を密説といい、法華経を顕教ということは、根拠となる仏の金言を知らない。結局のところ、真言を密ということは、この密は隠密の密をさすのか。あるいは微密の密をさすのか。物を秘する場合に二種類がある。一つには金銀等を蔵に収めることは微密の意である。二つには疵や不具などを隠すことは隠密の意である。だから真言の密というのは隠密の意である。そのゆえは、始成正覚と説くゆえに久遠実成を隠し、二乗を嫌うゆえに二乗作仏の授記がない。この久遠実成と二乗作仏の二つは仏の教法の心髄であり、文義の綱骨である。微密の密は法華経である。だから法華経第四巻法師品第十に「薬王、この経は諸仏の秘要の蔵である」とある。第五巻の安楽行品第十四に「文殊師利、この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵である。諸教の中において最もその上に在る」とある。如来寿量品第十六に「如来の秘密神通の力」とある。如来神力品第二十一に「如来の一切の秘要の蔵」とある。

 

第九章 重ねて法華経の秘密なるを示す

 加之真言の高祖竜樹菩薩、法華経を秘密と名づく、二乗作仏有るが故にと釈せり。
 次に二乗作仏無きを秘密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず。所以は何ん。大日経に云はく「仏不思議真言相道の法を説いて、一切の声聞・縁覚を共にせず。亦世尊普く一切衆生の為にするに非ず」云云。二乗を隔つる事、前四味の諸経に同じ。随って唐決には方等部の摂と判ず。経文には四経含蔵と見えたり。
大論の第百巻に云はく 第九十品を釈す 「問うて曰く、更に何れの法が甚深にして、般若に勝れたる者有って、般若を以て阿難に嘱累し、而も余経をば菩薩に嘱累するや。答へて曰く、般若波羅蜜は秘密の法に非ず。法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す。譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。玄義の六に云はく「譬へば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く、二乗の根敗反復すること能はず。之を名づけて毒と為す。今経に記を得るは即ち是毒を変じて薬と為す。故に論に云はく、余経は秘密に非ずとは法華を秘密と為せばなり。
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復本地の所説有り、諸経に無き所、後に在って当に広く明かすべし」云云。籖の六に云はく「第四に引証の中、論に云はく等と言ふは、大論の文証なり。秘密と言ふは八教の中の秘密には非ず。但是前に未だ説かざる所を秘と為し、開し已はって外無きを密と為す」文。 文句の八に云はく「方等・般若に実相の蔵を説くと雖も、亦未だ五乗の作仏を説かず。亦未だ発迹顕本せず。頓漸の諸経は皆未だ融会せず。故に名づけて秘と為す」文。記の八に云はく「大論に云はく、法華は是秘密、諸の菩薩に付すと。今の下の文の如きは下方を召して尚本眷属を待つ。験けし余は未だ堪へず」云云。秀句の下に「竜女の成仏を釈して、身口密なりと云へり」云云。此等の経・論・釈は、分明に法華経を諸仏は最第一と説き、秘密教と定め給へるを、経論に文証も無き妄語を吐き、法華を顕教と名づけて之を下し之を謗ず。豈大謗法に非ずや。
   それだけでなく真言宗の高祖・竜樹菩薩は「法華経を秘密と名づけず。それは二乗作仏が説かれるゆえである」と釈している。
 次に二乗作仏がないことを秘密としないとするならば、真言は秘密の法ではないことになる。その理由は何かというと、大日経に「仏は菩薩に対して不思議な真言の相と道を説いて、一切の証文と縁覚と座を共にしない。また世尊はあまねく一切衆生のためにこの経を説法するのではない」とあるからである。このように二乗を嫌うことは前四味の爾前の諸経と同じであり、したがって唐決には大日経は方等部に属すると判定しているのである。大日経の経文は蔵・通・別・円の四教を含むということが明らかである。
 大智度論巻百に「問うていう。これ以外に甚深にして般若経よりも勝れているどのような法があって、般若経を阿難に付嘱し、しかもそのほかの経をば菩薩に付嘱するのか。答えていう。般若波羅蜜は秘密の法ではない。しかも法華経等の諸経に阿羅漢の未来成仏の記別を説いており、大菩薩がよく受持する。例えば大薬師がよく毒をもって薬とするようなものである」等とある。法華玄義の巻六に「譬えが良医がよく毒を変じて薬とするようなものである。二乗は五根を敗壊しており復元することができない。これを名づけて毒という。法華経で二乗が記別を得るのは毒を変じて薬とするようなものである。ゆえに大智度論に、そのほかの諸経は秘密ではないとするのは法華経のみを秘密とするからであると説いている。また法華経には久遠本地の所説があるが、諸経にはない。このことについては後に詳しく説明しよう」とある。法華玄義釈籤巻六に「第四に法華経が妙で諸経が麤であるとの文証の引用の中で、『論に云く』等というのは大智度論の文証である。秘密というのは化儀の四教と化法の四教の八教の中の秘密教ではない。ただこれは法華経以前に末だ説かなかったところを秘といい、これを聞き終わった後はそれ以外にないのを密という」とある。法華文句巻八に「方等経・般若経に実相の教えを説くといえども、まだ末だ五乗の作仏を説かず。また末だ発迹顕本していない。頓教・漸教の諸経は皆末だ融通会入していない。ゆえに名づけて密という」とある。
 法華文句記巻八に「大智度論には、法華経は秘密であり、もろもろの菩薩に付嘱すると言っている。今の下の文は、下方の菩薩を示すのは本眷属の弟子を待つということでもある。そのほかの迹化の菩薩は末だ法華経を弘通することに耐えられないことが明らかである」とある。法華秀句の巻下に竜女の成仏を釈して「身口密である」とのべている。これらの経論釈は明らかに諸仏は法華経を最第一と説き秘密教とさだめられたのに、真言宗では経論に文証もない妄語を吐き法華経を顕教と名づけて、これを見くだし謗っているのである。これはまさに大謗法ではないか。

 

第十章 印・真言の有無が訳者に依るを明かす

 抑唐朝の善無畏・金剛智等、法華経と大日経の両経に、理同事勝の釈を作るは、梵華両国共に勝劣か。法華経も天竺には十六里の宝蔵に有れば無量の事有れども、流沙・葱嶺等の険難、五万八千里十万里の路次容易ならざる間、枝葉をば之を略せり。等は併しながら訳者の意楽に随う。広を好み略を悪む人も有り。略を好み広を悪む人も有り。然れば則ち、玄奘広を好んで四十巻の般若経を六百巻に成し、羅什三蔵は略を好んで千巻の大論を百巻に縮めたり。印契・真言の勝るゝと云ふ事、是を以て弁へ難し。羅什所訳の法華経には是を宗とせず。不空三蔵の法華儀軌には印・真言之有り。仁王経も羅什の所訳には印・真言之無し。不空、所訳の経には之を副へたり。知んぬ是訳者の意楽なりと。其の上法華経には「為説実相印」と説いて、合掌の印之有り。譬喩品には「我が此の法印は世間を利益せんと欲するが為の故に説く」云云。此等の文如何。只広略の異なりあるか。又舌相の言語皆是真言なり。法華経には「治生の産業は皆実相と相違背せず」と宣べ、亦「是前仏経中に説く所なり」と説く。此等は如何。真言こそ有名無実の真言、未顕真実の権教なれば、成仏得道跡形も無し。始成を談じて久遠無ければ、
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性徳本有の仏性も無し。三乗が仏の出世を感ずるに、三人に二人を捨て、三十人に二十人を除く。「皆仏道に入らしむ」の仏の本願満足すべからず。十界互具は思ひもよらず。まして非情の上の色心の因果争でか説くべきや。
   そもそも唐朝の善無畏や金剛智らが法華経と大日経の両経について「理は同じであるが事において勝れている」との解釈を作ったのはインド・中国の両国に共通する勝劣なのか。法華経もインドには十六里の法蔵にあったので、無量の事相が説かれていたのであるけれども、西域の砂漠やパミール高原などの険しい難所があり、そのうえ五万八千里・十万里の遠い道のりが容易でないので枝葉は略したのである。これらは訳者の好みによるもので、広を好み略を嫌う人もあり、略を好み広を嫌う人もある。したがって、玄奘は広を好んで四十巻の般若経を六百巻に訳し、羅什三蔵は略を好んで千巻の大智度論を百巻に縮めたのである。印相や真言が説かれているかどうかで二教の勝劣は決められない。鳩摩羅什が翻訳した法華経には印相や真言を根本にしていない。不空三蔵の法華儀軌に印真言が訳出されている。仁王経も鳩摩羅什の翻訳には印相や真言がない。不空が翻訳した経には印相や真言を副えている。これらは訳者の好みによることが分かるのである。そのうえ法華経方便品第二には「無量の衆に尊まれて、為に実相の印を説く」と説いて、合掌の印がある。法華経譬喩品第三には「我がこの法印は世間を利益しようとするために説く」とある。これらの文はどうか。ただ広と略の差異だけであろう。また舌相を具えた仏の言語はすべて真実である。法華経法師第十九には「生活・産業はすべて実相とお互いに違背しない」と述べ、また同品に「これは先仏の経の中に説く所である」と説いている。これらはどうか。
 真言宗で説く真言こそ名のみ有って実のない真言であり、末だ真実を顕さない権教であるから、成仏得道の跡形もなく、始成正覚を談じて久遠実成を説かないので、衆生の本性の徳としてもともとから有る仏性も明さかにされない。であるから声聞・縁覚・菩薩の三乗が仏がこの世に出現することを感ずるのに三人に二人を捨てて、三十人に二十人を除いている。法華経方便品第二の「皆、仏道に入らしむ」との仏の本願が満足することができない。真言宗では十界互具は思いもよらない。まして非情の上の色心の因果をどうして説くことができようか。

 

第十一章 理同事勝、劣謂勝見の外道と破る

 然れば陳隋二代の天台大師が法華経の文を解りて、印契の上に立て給へる十界互具百界千如一念三千を、善無畏は盗み取りて我が宗の骨目とせり。彼の三蔵は唐の第七玄宗皇帝の開元四年に来たる。如来入滅より一千六百六十四年か、開皇十七年より百二十余年なり。何ぞ百二十余年巳前に天台の立て給へる一念三千の法門を盗み取りて我が物とするや。而るに己が依経たる大日経には、衆生の中に機を簡ひ、前四味の諸経に同じて二乗を簡へり。まして草木成仏は思ひもよらず。されば理を云ふ人時は盗人なり。又印契・真言何れの経にか之を簡へる。若し爾れば大日経に之を説けども規模ならず。一代に簡はれ諸経に捨てられたる二乗作仏は法華に限れり。二乗は無量無辺劫の間、千二百余尊の印契・真言を行ずとも、法華経に値はずんば成仏すべからず。印は手の用、真言は口の用なり。其の主が成仏せざれば口と手と別に成仏すべきや。一代に超過し、三説に秀でたる二乗の事をば物とせず。事に依る時は印・真言を尊む者、劣謂勝見の外道なり。    だから陳と随の二代に活躍した天台大師が法華経の文を会得して、印相の上に立てられた十界互具・百界千如・一念三千の法門を善無畏は盗み取って我が宗の骨目としたのである。善無畏三蔵は唐の第七代・玄宗皇帝の開元四年に、インドから中国にやって来た。釈迦如来が入滅から千六百六十四年であり、隋の開皇十七年に伝教大師が亡くなってから百二十余年である。どうして百二十余年以前に天台大師の立てられた一念三千の法門を盗み取って我が物とするのか。
 ところが善無畏の依経である大日経には衆生において機根を選別して、前四味の諸経と同様に二乗は成仏しないと嫌っている。まして草木成仏は思いもよらない。したがって、一念三千の理をいう時は盗人である。また印相や真言などの経が嫌っていようか。だからもし大日経に印相や真言を説くとっても独自のものとするには足りない。一代の諸経に捨てられた二乗の成仏は法華経に限られている。二乗は無量無辺劫の間、大日経の千二百余尊の印相や真言を修行しても、法華経にあわなければ成仏することはできない。印相は手の働き、真言は口の働きである。その手と口の本体が成仏しなければ口と手とが別に成仏することができようか。一代の経教に超過し已今当の三説に勝っている二乗の成仏の事相を無視して、事相による時は印相や真言を尊む者は、劣っているものを勝れていると謂う我見の外道である。

 

第十二章 法華最第一の文証を挙げる

 無量義経説法品に云はく「四十余年未顕真実」文。一の巻に云はく「世尊は法久しくして後要ず当に真実を説きたまふべし」文。又云はく「一大事の因縁の故に世に出現したまふ」。四の巻に云はく「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最も第一なり」文。又云はく「已に説き今説き当に説かん」文。宝塔品に云はく「我仏道を為って無量の土に於て始めより今に至るまで広く諸経を説く。而も其の中に於て此の経第一なり」文。安楽行品に云はく「此の法華経は是諸の如来第一の説なり。諸経の中に於て最も為れ甚深なり」文。
又云はく「此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」文。薬王品に云はく「此の法華経も亦復是くの如し。諸経の中に於て最も為れ其の上なり」文。又云はく「此の経も亦復是くの如し。諸経の中に於て最も為れ其の尊なり」文。
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又云はく「此の経も亦復是くの如し。諸経の中の王なり」文。
又云はく「此の経も亦復是くの如し。一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり」等云云。玄の十に云はく「又已今当の説に最も難信難解と為す、前経は是已説なり」文。秀句の下に云はく「謹んで案ずるに法華経法師品の偈に云はく、薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経あり。而も此の経の中に於て法華最も第一なり」文。又云はく「当に知るべし已説は四時の経なり」文。文句の八に云はく「今法華は法を論ずれば」云云。記の八に云はく「鋒に当たる」云云。秀句の下に云はく「明らかに知んぬ他宗所依の経は是王中の王ならず」云云。釈迦・多宝・十方の諸仏、天台・妙楽・伝教等は法華経は真実、華厳経は方便なり。「未顕真実」「正直捨方便」「不受余経一偈」「若し人信ぜずして乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云。
   無量義経説法品第二に「四十余年には末だ真実を顕さず」とある。法華経巻一方便品第二に「世尊は法便の法を久しく説いた後、必ずまさに真実を説かれるであろう」とある。また同品に「一大事の因縁のゆえに、仏はこの世に出現された」とある。巻四法師品第十に「薬王よ、今汝に告げる、我が所説の諸経がある。しかも、この諸教の中において法華経が最も第一である」とある。また同品に「已に説き、今説き、当に説く、それら一切のなかにおいて法華経が最も第一である」とある。見宝塔品第十一に「私は仏道をもって無量の国土において初めから今日に至るまで広く諸経を説いてきた。しかもその中においてこの法華経がだいいちである」とある。安楽行品第十四に「この法華経は諸の如来の第一の説である。諸教の中において最もその上にある」とある。薬王菩薩本事品第二十三に「この法華経もまたまた十宝山の衆生の中に、須弥山が第一であるように、諸教の中において最もその上である」とある。また同品に「この法華経もまたまた諸の小王の中に、転輪聖王が最も第一であるように、諸教の中において最もその尊である」とある。また「この法華経もまたまた帝釈が、三十三天の中において王であるように、諸教の中の王である」とある。また同品に「この法華経もまたまた一切の凡人の中に…阿羅漢・辟支仏が第一であるように、一切の如来の所説、もしは菩薩の所説、もしは声聞の所説、諸の教法の中に最第一である」等とある。
 法華玄義巻に十に「また法華経は、已今当の三説に最も難信難解である。爾前経は已説である」とある。法華秀句巻下に「謹んで案ずるに、法華経法師品の偈に『薬王よ、今汝に告げる、我が所説の諸経がある。しかも、この諸教の中において法華経が最も第一である』」とある。また「まさに知りなさい。已説とは法華経以前の華厳・阿含・方等・般若の四時の経である」とある。法華文句巻八に「今、法華経を論ずると、実相の一法一理に帰す」とある。法華文句記巻八に「法華経は爾前の方便権教を破る鉾に当たる」とある。法華秀句巻下に「明らかに他宗の依りどころとする経は王中の王でないことを知った」とある。釈迦仏・多宝如来・十方の諸仏や天台大師・妙楽大師・伝教大師らは法華経は真実であり、華厳経は方便であるとし、「末だ真実を顕さない」「正直に方便を捨てて」「余教の一偈をも受けてはいけない」「もし人が信ぜずして…その人が命終して阿鼻獄に入るだろう」と説いている。

 

第十三章 弘法の法華第三の邪義を破す

 弘法大師は「法華は戯論、華厳は真実なり」云云。何れを用ふべきや。宝鑰に云はく 「此くの如き乗々は自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す」文。又云はく「謗人謗法は定めて阿鼻獄に堕せん」文。記の五に云はく「故に実相の外は皆戯論と名づく」文。梵網経疏に云はく「第十に謗三宝戒。亦は謗菩薩戒と云ひ、或は邪見と云ふ。謗は是乖背の名なり。は是解、理に称はず。言は実に当たらずして異解して説く者を皆名づけて謗と為すなり」文。
 玄の三に云はく「文証無き者は悉く是邪偽にして彼の外道に同じ」文。弘の十に云はく「今の人他の所引の経論を信じて謂ひて憑み有りと為して宗の源を尋ねず。謬誤何ぞ甚しき」文。守護章上の中に云はく「若し所説の経論明文有らば、権実・大小・偏円・半満を簡択すべし」文。玄の三に云はく「広く経論を引きて己義を荘厳す」文。
   以上の釈尊・天台大師・妙楽・伝教の説に対し、弘法大師は「法華経は戯れの論であり、華厳経は真実である」と述べている。いずれの説を用いるべきか。秘蔵法鑰に「このような乗々は、自らの乗において当分では仏乗の真理であるとの名を得ているが、後に比べると戯れの論となる」とある。また「謗人・謗法は必ず阿鼻地獄に堕ちる」とある。
 法華文句記巻五に「ゆえに諸法実相の法門以外はすべて戯れの論と名づける」とある。梵網経疏に「第十に謗三宝戒または謗菩薩戒といい、あるいは邪見という。謗は乖背の名である。すべてこれは智解が理に合致しておらず、その言葉が真実に当たっておらず、異なった解釈をして説く者をみな名づけて謗というのである」とある。止観輔行伝弘決巻十に「今の人は他人が引用する経論を信じて頼りにできると思って、宗旨の本源を究めない、この誤りは甚だしい」とある。守護国界章巻上中に「もし所説の経論の明文があるならば権教か実教か、大乗教か小乗教か、偏教か円教か、半字教か満字教かを選別すべきである」とある。法華玄義巻三に「広く経論を引用し自分の教義を飾り立てても、権教はやはり権教であり実教にはならない」とある。
 抑弘法の法華経は真言より三重の劣、戯論の法にして尚華厳にも劣ると云ふ事、大日経六巻に供養法の巻を加へて七巻三十一品、或は三十六品には何れの品何れの巻に見えたるや。加之蘇悉地経三十四品、金剛頂経三巻三品、或は一巻に全く見えざる所なり。又大日経並びに三部の秘経には、何れの巻何れの品にか十界互具之有りや。都て無きなり。
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法華経には事理共に有るなり。所謂久遠実成は事なり。二乗作仏は理なり。善無畏等の理同事勝は臆説なり。信用すべからざる者なり。
   そもそも弘法は、法華経は真言より三重の劣で戯れの教法であり、華厳経よりも劣るといっているが、大日経六巻には供養法の巻を加えて七巻三十一品、あるいは三十六品のなかで、どの品、どの巻に見えているのか。それだけでなく蘇悉地経三十四品、金剛頂経三巻三品あるいは一巻にも全く見えないところである。また大日経ならびに三部の秘経のなかで、どの巻、どの品に十界互具の法門が説かれているのか。これらのどこにも説かれていない。法華経には事・理ともに説かれている。いわゆる久遠実成は亊であり、二乗作仏は理である。善無畏らの法華経と大日経は理は同じであるが事においては大日経は勝れている」とは憶測の説である。信用できない説である。

 

第十四章 真言の邪義を五点に絞り疑難す

 凡そ真言の誤り多き中に、一、十住心に第八法華・第九華厳・第十真言云云。何れの経論に出でたるや。一、善無畏の四句と弘法の十住心と眼前の違目なり。何ぞ師弟敵対するや。一、五蔵を立つる時、六波羅蜜経の陀羅尼蔵を、何ぞ必ず我が家の真言と云ふや。一、震旦の人師争って醍醐を盗むという。年紀何ぞ相違するや。其の故は開皇十七年より、唐の徳宗の貞元四年戌辰の歳に至るまで百九十二年なり。何ぞ天台入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経の醍醐を盗み給ふべきや。顕然の違目なり。若し爾れば人を謗じ法を謗ず、定んで阿鼻獄に堕すと云ふは自責なるや。一、弘法の心経の秘鍵の五分に何ぞ法華を摂するや。能く能く尋ぬべき事なり。    およそ真言宗には多くの誤りがあるが、そのなかに、一、弘法の十住心の教判には第八は法華経、第九は華厳経、第十は真言経といっているが、どの経論に出ているのか。一、善無畏が立てた大日経義釈にある四句教判と弘法の十住心教判は明白に異なっている。どうして師と弟子が敵対するのか。一、五蔵教判を立てる時、六波羅蜜経の陀羅尼蔵をどうして必ず我が家の真言というのか。一、弘法は顕密二経論で「震旦の人師が争って醍醐を盗む」といっているが年記が相違するのではないか。そのゆえは天台大師入滅の開皇十七年から六波羅蜜経が中国に初めて渡った唐の徳宗の貞元四年丙辰の年に至るまで百九十二年である。天台大師は自分の入滅百九十二年後に渡ってくる六波羅蜜経の醍醐をどうして盗むことができるのか。この年代の違いははっきりしている。もしそうであれば、弘法が秘蔵法鑰に「謗人・謗法は必ず阿鼻地獄に堕ちる」というのは自己を責める言葉であろうか。
 一、弘法は般若心経秘鍵を著し、般若心経の五部のなかに法華経を収めているが、どうして法華経を入れているのか、よくよく究めるべきである。

 

第十五章 大日如来の存在につき難ずる

 真言七重難。
 
一、真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云。若し爾れば大日の出世・成道・説法・利生は釈尊より前か後か、如何。対機説法の仏は八相作仏す。父母は誰ぞ。名字は如何。娑婆世界の仏と云はゞ、世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり。涅槃経の三十五の巻を見るべきなり。若し他土の仏なりと云はゞ、何ぞ我が主師親の釈尊を蔑ろにして他方疎縁の仏を崇むるや。不忠なり、不孝なり、逆路伽耶陀なり。若し一体といはゞ何ぞ別仏と云ふや。若し別仏ならば、何ぞ我が重恩の仏を捨つるや。唐尭は老ひ衰へたる母を敬ひ、虞舜は頑なる父を崇む是一。
   真言に対する七重の難詰。
 一、真言経は法華経より外に大日如来の説いたものである。もしそうであるなら大日如来が世に出て成道し説法し衆生を利益したのは釈尊より前か後か。衆生の機根に対して説法する仏は八相作仏する。大日如来の父母はだれで、名は何というのか、娑婆世界の仏というならば、一世界に二仏はなく、一国に二主はないのは一代聖教に通じる判釈である。これについては涅槃経巻三十五を見るべきである。もし他土の仏であるというならば、どうして我が主師親の釈尊をないがしろにして、縁の疎い他方に仏を崇めるのか。不忠である不孝である。師敵対である。もし釈尊と大日如来が一体であるというならば、どうして別仏というのか。別仏ならば、どうして我が重い恩のある釈迦仏を捨てるのか。是一

 

第十六章 真言が五仏の説に背くを難ず

 六波羅蜜経に云はく「所謂過去無量伽沙の諸仏世尊の所説の正法、我今亦当に是くの如き説を作すべし。所謂八万四千の諸の妙法蘊、而も阿難陀等の諸大弟子をして一たび耳に聞きて皆悉く憶持せしむ」云云。此の中の陀羅尼蔵を弘法は我が真言と云へる。若し爾れば此の陀羅尼蔵は釈迦の説に非ざるか。此の説に違す是二。凡そ法華経は無量千万億の已説今説当説に最第一なり。諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり。諸仏の中に大日漏るべきや。法華経は正直無上道の説、大日等の諸仏長舌を梵天に付けて真実と示し給ふ是三。
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威儀形色経に「身相黄金色にして常に満月輪に遊び定慧智拳の印法華経を証誠す」と。又五仏章の仏も法華経第一と見えたり是四。「要を以て之を言はゞ如来の一切所有の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説す」云云。此等の経文は釈迦所説の諸経の中に第一なるのみに非ず、三世の諸仏の所説の中に第一なり。此の外一仏二仏の所説の経の中に、法華経に勝れたる経有りと云はゞ用ふべからず。法華経は三世不壊の経なる故なり是五。
   六波羅蜜経に「いわゆる過去のガンジス河の砂の数ほど無数の諸仏世尊の説かれた正法について、我も今またこれと同じ説をなすのである。いわゆる八万四千のもろもろの妙法の集まりである。…しかも阿難陀とうもろもろの大弟子に、ひとたび耳に聞かせ皆ことごとく記憶させている」とある。このなかの陀羅尼蔵を弘法は我が真言といっている。もしそうであるなら、この陀羅尼蔵は釈尊の説ではないのか。これが第二である。
 およそ法華経は無量千万億の已説・今説・当説の三説のなかで最も第一である。諸仏の所説や菩薩の所説・声聞ののなかで、この法華経が第一である。諸仏の中に大日如来が漏れることがあろうか。法華経は正直で無上道の説であり、大日如来らの諸仏は長舌を梵天に付けて真実と示されたのである。これが第三である。
 威儀形色経に「大日如来の姿は金色で常に満月のようであり、定慧智拳の印を結んで、法華経を証明する」とあり、また法華経方便品第二五仏章の段で総諸仏・過去仏・現在仏・未来仏・釈迦仏の五仏も法華経を第一と説いている。これが第四である。
 法華経如来神力品第二十一に「要をもって之をいうと、如来の一切の所有の法、…皆この法華経において宣べ示し顕し説いた」とある。これらの経文は、法華経は釈尊の説いた諸経のなかで第一であるだけでなく、過去・現在・未来の三世の諸仏の所説のなかで第一である。このほか一仏・二仏が説いた経のなかで法華経よりも勝れている経があるというならば、法華経は三世にわたって壊れない経であるからである。これが第五である。

 

第十七章 文証無き邪義を説く真言を難ず

 又大日経等の諸経の中に法華経に勝るゝ経文之無し是六。釈尊御入滅より已後、天竺の論師二十四人の付法蔵、其の外大権の垂迹、震旦の人師、南三北七の十師、三論法相の先師の中に、天台宗より外に十界互具百界千如一念三千と談ずる人之無し。若し一念三千を立てざれば性悪の義之無し。性悪の義無くば仏菩薩の普現色身、真言両界の曼荼羅、五百七百の諸尊は、本無今有の外道の法に同ぜんか。若し十界互具百界千如を立てば、本経何れの経にか十界皆成の旨之を説けるや。天台円宗見聞の後、邪智荘厳の為に盗み取れる法門なり。才芸を誦し、浮言を吐くには依るべからず。正しき経文金言を尋ぬべきなり是七。    また大日経などの諸教のなかに法華経よりも勝れているきょうもんはない。これが第六である。
 釈尊の御入滅より以後、インドにおいて仏法を付嘱され伝え弘めた二十四人の論師、そのほか仏・菩薩が権に迹を垂れて現れた導師、また中国の人師、中国南部の三師・北部の七師の十師、三論宗・法相宗の先師のなかで、天台宗よりほかに十界互具・百界千如・一念三千を談じた人はいない。もし一念三千を立てなければ、仏・菩薩に本来の性分として悪を具える義はない。この生悪の義がなければ仏・菩薩が衆生を救うために普く色心を現すること、真言の金剛界・胎蔵界における両界の漫荼羅における五百・七百の諸尊は、本なくして今だけあるという外道の法と同じになるであろう。真言宗で十界互具・百界千如を立てるのは、依処とする真言の本経三部のどの経に十界がすべて成仏する旨を説いているのか。真言宗の一念三千は天台円宗の見聞の後、邪智によって自宗を飾るために盗み取った法門である。才知と技芸を唱え、無責任な言葉を吐くのには依処してはならない。正しい経文と金言を求めるべきである。これが第七である。

 

第十八章 文証を引き一世界一仏なるを明かす

 涅槃経の三十五に云はく「我処々の経の中に於て説いて言はく、一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王あり。一世界の中に二仏出世すといはゞ是の処有ること無し」文。大論の九に云はく「十方恒河沙三千大千世界を名づけて一仏世界と為す。是の中に更に余仏無し。実には一の釈迦牟尼仏なり」文。記の一に云はく「世に二仏無く国に二主無し。一仏の境界に二の尊号無し」文。持地論に云はく「世に二仏なく国に二主なし。一仏の境界に二の尊号なし」文。
 七月 日          日蓮花押
   涅槃経巻三十五に「我は所々の経のなかにおいて説いていう。一人の仏が世に出れば多くの人々が利益する。一国土のなかに二人の転輪聖王が出たり一世界のなかに二仏が世に出るという道理は決してありえない」とある。大智度論巻九に「十方の恒河の砂の数ほどの三千大千世界を一仏世界と名づける。この中に更に余仏はいない。実には唯一の釈迦牟尼仏でる」とある。法華文句記巻一に「一世界に二仏がなく国には二主がいない。一仏の教化する境界には二人の尊号はない」とある。持地論に「一世界に二仏がなく国に二主がなく一仏の教化する境界に二人の尊号はない」とある。
  七月 日          日蓮花押