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(★595㌻) |
どんな暗闇でも、太陽が出れば明るくなります。女の人の心は暗闇のようなものであり、法華経(御本尊)はその闇を明るくする太陽のようなものなのです。幼い赤ちゃんが母親のことを知らなくても、母親は赤ちゃんのことを一瞬も忘れることはありません。仏は母親のようなものであり、女の人は赤ちゃんのようなものです。母と子がおたがいのことを思いあっていれば、けっしてはなれることはありません。一方が相手のことを思っていても、もう一方が相手のことを思わなければ、あるときはあうことができても、あるときははなれてしまいます。 | |
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仏は |
仏とはいつも相手のことを思っている人にたとえられますが、女の人は少しも相手(仏)のことを思っていない人と同じです。私たちが仏のことを思うならば、どうして仏が私たちの前に現れないはずがありましょうか。 |
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| 石を珠といへども珠とならず、珠を石といへども石とならず。権経の当世の念仏等は石のごとし。念仏は法華経ぞと申すとも法華経等にあらず。又法華経をそしるとも、珠の石とならざるがごとし。 | 石ころのことを、いくら“宝石だ”といっても、宝石にはなりません。反対に、宝石のことを“ただの石ころだ”といっても、宝石が石になるはずはありません。同じように、権教を根本にしているいま流行の念仏などの教えは、石ころのようなものです。念仏の教えを法華経と同じだといっても、それが法華経になりません。また、法華経のことをいくら悪口をいってけなしても、宝石が石ころにならないように、法華経のすばらしさには少しのかわりもありません。 |
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おのおのわずかの御身と生まれて、鎌倉にゐながら人目をもはゞからず、命をもおしまず、法華経を御信用ある事、ただ事ともおぼへず。但おしはかるに、 |
あなた方は、地位や財産があるわけでもない身分に生まれて、幕府のある鎌倉に住みながら、他人の批判をおそれず、命もおしまず、法華経(御本尊)を信仰しているということは、とても普通では考えられないすばらしいことです。ただ、おしはかって考えてみますと、濁った水に宝石を入れると、水がだんだんと澄んで、きれいになるといわれているように、自分の知らないことをよい人に教えられて、そのまますなおに信じていけば、それが道理として理解できるようなものです。このように信仰されているということは、釈迦仏をはじめ、普賢菩薩・薬王菩薩・宿王華菩薩などが、あなたがたの心のなかに入っておられるからなのでしょうか。法華経の普賢菩薩勧発品第二十八に「世界中でこの法華経を信じることができる人は普賢菩薩のお力による」とあるのはこのことでありましょう。 |
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女人はたとへば藤のごとし、をとこは松のごとし。 |
女の人(妻)は、たとえていえば藤のようなもので、男(夫)は松のようなものです。藤は少しのあいだでも松をはなれたら立ちあがることはできません。そうであるのに、頼りになる召し使いもいないのに、このような乱れた不安な世のなかにもかかわらず、夫の金吾どのをはるばる佐渡までよこしてくださったあなたのお心は、大地よりも厚く、りっぱなものです。大地の神もかならずそのことを知っていることでしょう。また、そのまごころは大空よりも高く、尊いものです。きっと法華経を守護する大梵天や帝釈天も知っておられるでしょう。 | |
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人の身には同生同名と申す 此の事は、はや天もしろしめしぬらん。たのもし、たのもし。 日蓮 花押 |
人間のからだには、同生天・同名天という二人の使いを、天はその人が生まれたときからつけられていて、影がいつもからだについているように、一瞬のあいだもはなれることはありません。そして、その人の大きな罪や小さな罪、大きな功徳や小さな功徳を、少しも欠かさずに、かわるがわる天に昇って報告している、と仏は説かれています。あなたが、夫を佐渡までよこされたことは、すでに天も知っておられることでしょう。じつにたのもしいことです。 日蓮 花押 |
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此の御文は藤四郎殿の女房と、常によりあひて御覧あるべく候。 |
この手紙は藤四郎殿の奥さんと、いつも集まっていっしょにお読みください。 |