同生同名御書 文永九年四月 五一歳

 

第一章 法華経の慈悲を示す

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 大闇(おおやみ)をば日輪やぶる。女人の心は大闇のごとし、法華経は日輪のごとし。(おさな)()は母をしらず、母は幼子をわすれず。釈迦仏は母のごとし、女人は幼子のごとし。二人たがひに思へばすべてはなれず。一人は思へども、一人思はざればある()とき()はあひ、ある()とき()はあわず。
   どんな暗闇でも、太陽が出れば明るくなります。女の人の心は暗闇のようなものであり、法華経(御本尊)はその闇を明るくする太陽のようなものなのです。幼い赤ちゃんが母親のことを知らなくても、母親は赤ちゃんのことを一瞬も忘れることはありません。仏は母親のようなものであり、女の人は赤ちゃんのようなものです。母と子がおたがいのことを思いあっていれば、けっしてはなれることはありません。一方が相手のことを思っていても、もう一方が相手のことを思わなければ、あるときはあうことができても、あるときははなれてしまいます。
 仏はをも()ふものゝごとし、女人はをも()はざるものゝごとし。我等仏をおもはゞいかでか釈迦仏見え給はざるべき。    仏とはいつも相手のことを思っている人にたとえられますが、女の人は少しも相手(仏)のことを思っていない人と同じです。私たちが仏のことを思うならば、どうして仏が私たちの前に現れないはずがありましょうか。
 石を珠といへども珠とならず、珠を石といへども石とならず。権経の当世の念仏等は石のごとし。念仏は法華経ぞと申すとも法華経等にあらず。又法華経をそしるとも、珠の石とならざるがごとし。    石ころのことを、いくら“宝石だ”といっても、宝石にはなりません。反対に、宝石のことを“ただの石ころだ”といっても、宝石が石になるはずはありません。同じように、権教を根本にしているいま流行の念仏などの教えは、石ころのようなものです。念仏の教えを法華経と同じだといっても、それが法華経になりません。また、法華経のことをいくら悪口をいってけなしても、宝石が石ころにならないように、法華経のすばらしさには少しのかわりもありません。

 

第二章 昔の賢者に較べられる

 昔、唐国(もろこし)()(そう)皇帝と申せし悪王あり。道士と申すものにすか()されて、仏像経巻をうしなひ、
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(そう)()を皆還俗(げんぞく)せしめしに、一人として還俗せざるものなかりき。其の中に法道三蔵と申せし人こそ、勅宣をおそれずして(おもて)かな()やき()をやかれて、江南(こうなん)と申せし処へ流されて候ひしが、今の世の禅宗と申す道士の法門のようなる悪法を御信用ある世に生まれて、日蓮が大難に値ふことは法道に似たり。
   昔、中国の宋の時代に徽宗皇帝という悪い王がいました。この王は道士(道教という中国の民族信仰を修行し教えた人)にだまされて、仏像をこわし、お経本をやいたうえ、仏道修行をしていた僧や尼(出家した女性)に、出家をやめさせようとしたところが、僧や尼をやめない者は一人もいませんでした。その中で、法道三蔵という人だけは。皇帝の命令もおそれず、還俗することに反対したので、顔に焼印を押されて、江南というところへ流されてしまいました。
 いま、世間で流行している禅宗という、昔の導士の教えに似ている悪い法を、幕府の有力者が信用しているという時代に生まれて、日蓮が大きな難(迫害)にあうことは、法道三蔵によく似ています。

 

第三章 夫人の信心を称える

 おのおのわずかの御身と生まれて、鎌倉にゐながら人目をもはゞからず、命をもおしまず、法華経を御信用ある事、ただ事ともおぼへず。但おしはかるに、(にご)れる水に玉を入れぬれば水の()むがごとし。しらざる事をよき人におしえられて、其のまゝに信用せば道理にきこゆるがごとし。釈迦仏・()(げん)菩薩・薬王菩薩・宿(しゅく)(おう)()菩薩等の各々の御心中に入り(たま)へるか。法華経の文に(えん)()(だい)に此の経を信ぜん人は普賢菩薩の力なりと申す是なるべし。    あなた方は、地位や財産があるわけでもない身分に生まれて、幕府のある鎌倉に住みながら、他人の批判をおそれず、命もおしまず、法華経(御本尊)を信仰しているということは、とても普通では考えられないすばらしいことです。ただ、おしはかって考えてみますと、濁った水に宝石を入れると、水がだんだんと澄んで、きれいになるといわれているように、自分の知らないことをよい人に教えられて、そのまますなおに信じていけば、それが道理として理解できるようなものです。このように信仰されているということは、釈迦仏をはじめ、普賢菩薩・薬王菩薩・宿王華菩薩などが、あなたがたの心のなかに入っておられるからなのでしょうか。法華経の普賢菩薩勧発品第二十八に「世界中でこの法華経を信じることができる人は普賢菩薩のお力による」とあるのはこのことでありましょう。

第四章 同生同名の二神を述べる

 女人はたとへば藤のごとし、をとこは松のごとし。(しゅ)()はな()れぬれば立ちあがる事なし。然るにはかばかしき下人もなきに、かゝる乱れたる世に此のとの(殿)をつかはされたる心ざし、大地よりもあつし、地神定んでしりぬらん。虚空よりもたかし、梵天帝釈もしらせ給ひぬらん。    女の人(妻)は、たとえていえば藤のようなもので、男(夫)は松のようなものです。藤は少しのあいだでも松をはなれたら立ちあがることはできません。そうであるのに、頼りになる召し使いもいないのに、このような乱れた不安な世のなかにもかかわらず、夫の金吾どのをはるばる佐渡までよこしてくださったあなたのお心は、大地よりも厚く、りっぱなものです。大地の神もかならずそのことを知っていることでしょう。また、そのまごころは大空よりも高く、尊いものです。きっと法華経を守護する大梵天や帝釈天も知っておられるでしょう。
 人の身には同生同名と申す(ふたり)のつかひを、天生まるゝ時よりつけさせ給ひて、影の身にしたがふがごとく(しゅ)()もはなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしもおとさず、遥々(はるばる)天にのぼ()て申し候と仏説き給ふ。
 此の事は、はや天もしろしめしぬらん。たのもし、たのもし。
 日蓮 花押
 
   人間のからだには、同生天・同名天という二人の使いを、天はその人が生まれたときからつけられていて、影がいつもからだについているように、一瞬のあいだもはなれることはありません。そして、その人の大きな罪や小さな罪、大きな功徳や小さな功徳を、少しも欠かさずに、かわるがわる天に昇って報告している、と仏は説かれています。あなたが、夫を佐渡までよこされたことは、すでに天も知っておられることでしょう。じつにたのもしいことです。
 日蓮 花押 
 此の御文は藤四郎殿の女房と、常によりあひて御覧あるべく候。
   この手紙は藤四郎殿の奥さんと、いつも集まっていっしょにお読みください。