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(★589㌻) 余経の意は、等覚の菩薩、妙覚の |
法華経以外の経文での受識は、因位の位である等覚の菩薩が、仏と同じ果位の位の妙覚になった時、他の国土世間の仏が来て、妙覚の智水を等覚の菩薩の頭に、そそぐ儀式をすることであり、これを受職の位の |
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| 次に法華実教の受職とは、今経の意は聖者よりも凡夫に受職し、善人よりも悪人に受職し、上位よりも下位に受職し、乃至持戒よりも |
次に実教である法華経の受職では、その対象を等覚の位の菩薩に限っておらず、聖者よりも凡夫に受職することに、その意義があり、善人よりも悪人に受職し、上位よりも下位に受職し、そして、また、持戒の者より、戒を持たない者に、また、正しい意見の者よりも邪見に、利口な者よりも愚かな者に、高貴な者よりも下賎な者に、男性よりも女性に、人天よりも畜生などに受職することに意義があるのです。それ故に未だ |
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| 問ふ、諸経論の意は等覚已前の四十位に尚受職の義無し。今何ぞ (★590㌻) |
それでは、爾前の経論では、等覚以下の40位の菩薩には、いまだ受職の意義がないと言うことですが、なぜ、法華経は、11番目の初住位にも上がっていない凡夫であっても、受職の意義があるのでしょうか。 それは、天台は、六即を立てて、菩薩の階位を判断したのですが、法華経は、天台の化法の四教である、蔵、通、別、円の円教の教門であって、実際の出離証道の実義では、ないからなのです。ましてや、天台の五十二位は、円教ではなく、別教の権門にある階位なのです。もし、法華経の現実の出離証道の実義に即して、詳細にこれを説明すれば、与と奪の二義があるのです。その中の与の義とは、一位に五十一位、すべてが備わり、互具相即して、少しも欠けることがないのです。もし、この通りであれば、五即のすべての菩薩、五十一位のすべての菩薩に受職潅頂の意義があるのです。また、奪においては、六即、五十二位は、権実二教の教門に付属されるのです。それ故に、未だ煩悩を断じていない凡夫であっても、妙法を信受する時に、妙覚の職位を成ずることが出来るのです。そうであれば、この人に、受職の意義がないなどと言えるでしょうか。法華経如来神力品に「我が滅度の後に於て、まさに、この経を受持すべし、この人、仏道において決定して疑い有ること無し」と説かれています。また、法華経法師品には「少しでも、これを聞けば無上の悟りを究竟することを得る」とも説かれています。この文章に「仏道究竟」とあるのは、これは、妙覚の果位なのです。ただし、天台などの解釈において、分証即(分真即)の究竟即と解釈されたのは、一位に五十一位すべてが備わる時、一位の妙覚の位に分証即(分真即)と究竟即の二益があるからなのです。このことから解釈すれば、法華経の受職の意義が、不完全な悟りの分真即と完全な悟りの究竟即にわたると考えられています。 |
| 今経の受職 |
また、法華経の受職潅頂においては、二人がいます。一には、仏道修行者である僧侶、二には、俗世間の者の二人です。また、仏道修行者においても、また二つあります。一には、正しく修学し妙法を理解し終わった僧侶の受職と、二には、ただ信じ行ずるだけの僧侶の受職です。俗世間の者に於ても、また二つありますが、仏道修行者を例にして理解してください。 僧侶の信じ行じる行為は、俗世間の者の修学よりも優れているのです。また、僧侶の信じ行じる行為は、俗世間の者の終信と同じなのです。俗世間の者の中で、正しく修学し妙法を実践する者は、信じて行ずる僧侶の始信と同じなのです。なぜかと言うと、僧侶は、よく悪を忍ぶからなのです。また僧侶は、出家の時に受職を得るからなのです。俗世間の者は、よく悪を忍ぶ意義が有ると言っても受職の義がないのです。それ故に正しく修学し妙法を理解し終わった受職の僧侶は、仏の位と同じなのです。これは、ようするに如来の使いであればこそなのです。法華経法師品に「当に知るべし、この人は、如来と共に宿す」と説かれており、また「衆生を憐れむが故に、この人間に生まれたり」とも説かれています。この故に、作法である受職潅頂をした僧侶を、信行の僧侶、俗世間の衆生は、共に礼拝をし、供養し、恭敬し、仏と同じように敬わなければ、なりません。それは、法華経法師品に「もし、法師に親近すれば、速やかに菩薩の道を得る。この師に随順して学べば、無数の仏を見たてまつることを得る」とある通りなのです。自門ですら、この通りなのですから、ましてや他門においては、当然なのです。 |
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| 問ふ、修学解了の比丘の受職と信行の比丘乃至俗衆の受職との (★591㌻) 畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」等云云。是くの如き等の諸文一に非ず。 |
それでは、それ故に正しく修学し妙法を理解し終わった僧侶の受職と信じて行じるだけの僧侶や俗世間の人々の受職の姿、形とは、どのようなものなのでしょうか。 それは、信じて行じる僧侶の受職と俗世間の人々の受職は、これは同じなのです。なぜかと言うと、この信行の僧侶と在家の衆生の受職とは、ただ信じて行じる受持の功徳であるからなのです。法華経法師品に「仏薬王に告げたまはく、また如来の滅度の後、もし、人あって妙法華経の乃至、一偈一句を聞きて一念も随喜する者には、我また無上の悟りの記を与へ授く」と説かれており、また「この人、歓喜して法を説くに、少しの間でも、これを聞けば即ち無上の悟りを究竟することを得る」とも説かれています。法華経見宝搭品に「この経は、持ち難し。もし、しばらくも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏もまた同じなのです。このような人は、純粋で善良な地に住する」と説かれています。法華経提婆達多品には「浄心に信敬して疑惑を生じない者は地獄、餓鬼、畜生に堕ちず、十方の仏前に生れる」などと説かれています。 このような文章は、ひとつでは、なく、すべてを、ここに記ことは、出来ません。また、無智の僧侶や俗世間の人は、法華経を人の為には、説かず、自らの成仏ばかりの功徳であって、利他の功徳は、ありません。たとえば、五十展転の50番目の人に、師の徳がないのと同じなのです。無智の僧俗も、また、この五十展転の50番目の人と同じで利他の功徳は、ないのです。また、それに少しは、利他の徳があると言っても、法華経法師品の「ひそかに一人の人に法華経を説く下品の師」に劣るのです。ましてや、法師品の「広く人の為に説く上品の師」には、劣っているのです。このように法師品の「下品の師」とは、法華経の理解が終わっており、仏の法会における説法を、間違って理解する事はなく、よく、たとえ一人の為であっても説法をされるのです。その理論は、法華経と如来の本懐と違わないので、聞いた人々も、これを信じて、持てば、利益を得るのです。無智の僧俗では、少しの教化があると言っても、言葉に間違いがあるのです。また、法門においても間違っているのです。それ故に現在の無智の僧俗などは、ただ、仰いで信じ、仰いで行じ、仰いで受持するべきなのです。また、法華経を弘める師に対しては、供養をするべきなのです。法華経法師品に「もし仏道に住して自然智を成就しようと欲せば常に当に勤めて法華を受持する者を供養すべし。それ、すぐに一切種智慧を得ようと欲すること有らば、まさに、この経を受持し並びに持者を供養すべし」と説かれています。 |
| 問ふ、何の故ぞ、修学 難じて云はく、若し爾らば経文の「以信得入」と云ふ文に |
それでは、先ほどの文章に持者とは、無智の僧俗などであるとありますが、それは、どういう意味なのでしょうか。それは、経文の内容の低さや師の思慮の浅さを考慮して持者と名付けているのです。ですから文章の前後をよく見てください。それでは、なぜ、正しく修学し妙法を実践する受職の僧侶の功徳は、無智の僧俗の功徳に優れているのでしょうか。それは、正しく修学し妙法を実践する受職の僧侶は、無智の僧俗の功徳を備えるのみならず、自らの修学解行と作法受得の受職と、また、利他の功徳と、これらの功徳を取り集めて、一身に備える故に優れているのです。しかし、もし、そうであるならば、経文の「以信得入」と言う文章とは、間違っているのではないでしょうか。それは、二乗は、利他の行がなく、それ故に「以信得入」と云うのです。それは、おかしいのではないでしょうか。重ねて尋ねますが正法念処経の文章に「八万聖教を知るといえども後世を知らざるは、無智」などと説かれているではないですか。それは、現在の師は、自らの後世を知った上で、さらに、また他を利すのです。それ故に優れていると言っているのです。たとえば、五十転伝の50番目の人の功徳を挙げて、初めて仏の法を聴いた人の功徳を説明し、その前の49番目までの人は、皆、自行化他の徳をそなえ、それに反して50番目の人には、自行に限って化他の徳がないからなのです。 |
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(★592㌻) 次に正しく修学解行の受職の比丘の功徳を言はゞ、是に於て上下の二師有り。謂はく、上の師は広く人の為に説き、下の師は能く |
次に正しく修学し妙法を実践する受職の僧侶の功徳を言えば、これに上下の二師があるのです。その上の師とは、「広く人の為に説き」、その下の師は、「一人の為にひそかに説く」のです。この上と下に違いがあると言っても、同じく、これらは、五種の法師なのです。法華経法師品に「もし善男子、善女人、法華経の乃至一句においても受持し、読誦し、解説し、書写す。乃至、当に知るべし、この人は、これ大菩薩なり。無上の悟りを成就して、衆生を哀愍して、願ってこの間に生まれ、広く妙法華経をのべ分別するなり。何に況んや、尽くして、よく受持し、種々に供養する者をや。薬王、当に知るべし、この人は自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於て、衆生を憐れむが故に、悪世に生まれて、広くこの経を述べるなり。もし、この善男子、善女人、我が滅度の後によく、ひそかに一人の為にも法華経の乃至一句を説く。当に知るべし、この人は、すなわち如来の使いなり、如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大衆の中に於て、広く人の為に説く」と説かれています。この法師品の下品の師とは、「広為人説」の一師において、上と下の師を分けているのです。この解釈については、しばらく置くとして、文章の意味に立ち入って、これを見ると、最初に受持、読経、 |
| (★593㌻) 切世間の |
もし、私が身分の低い者であったとしても、いやしくも大乗を学び、諸経の王をつかさどる者なのです。釈迦が、すでに妙法の智水を日蓮の頭にそそいで、面授、口決しているのです。日蓮と、また最蓮房日浄に受職しているのです。そうであれば、受職の後は、他の人の為に、これを説くべきです。経文の通りであれば、如来の使いなのです。如来の使いとして、如来の事を行ずる人なのです。法華経法師品に利他の人の功徳を説いて「この人は、一切世間のまさに、かしずかれる所なり。まさに如来の供養を以て、これを供養すべし。 まさに知るべし、この人は、これ大菩薩にして無上の悟りを成就す」と説かれています。また、同じく法師品に「まさに知るべし、この人は、自ら清浄の業報を捨つ」とあり、妙楽大師は、これを願兼於業の文章とされています。さらに「当に知るべし、この人は、仏の荘厳を以て、自ら荘厳するなり。すなわち、如来の肩に 伝教大師が言った「 |
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| 問ふ、何を以ての故に、弘経の師を供養する功徳は是くの如く一劫の中に於て無数の偈を以て仏を讃むる功徳より勝れたるぞや。答ふ、仏は衆生を引導すること自在神通力の故に此の経を説くこと難からず。凡師は自在の三昧を得ざるが故に此の経を説くこと則ち難し。故に一劫讃仏の功徳に勝ると云ふなり。されば此の弘経の人は「如来と共に宿する」の人なり。経に云はく「上の如し」と。又云はく「如来の滅後に、四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、 (★594㌻) れば、種々の重罪を受くることを得るなり。経に云はく「若し一劫の中に於て常に不善の心を |
それでは、疑問に思うのは、何をもって、弘経の師を供養する功徳は、このように、一劫の間、無数の讃嘆文によって、仏を讃嘆する功徳より優れているのでしょうか。それは、仏は、衆生を導く為の自在の神通力があるので、この経を説くことそのものは、さして難かしくはないのです。しかし、凡師は、自在の三昧を得ていない為に、この経を説くことは、難しいのです。それ故に一劫の間、無数の讃嘆文によって讃仏する功徳よりも優れているのです。そうであれば、この弘経の人は「如来と共に居る」人であり、経文に「上の如し」とあるのです。また、法師品に「如来の滅後に、四衆の為に、この法華経を説こうと思えば、まさに説くべき。この善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座にすわり、このようにして、ちょうど、その時に、まさに四衆の為に広く、この経を説くべし」などと説かれています。このような人であれば、如来が内証を隠して人間に生まれ変わった人を派遣されて、供養されると思われるのです。同じく法師品に「怠ける心無く諸の菩薩及び四部の衆の為に、広く是の法華経を説くべし。時々に説法者をして、我が身を見ることを得せしめる」と説かれています。本師教主、釈迦如来は、このように、これを守護し供養されるのです。まして、我々、凡夫においては、これ以上に守護し供養されるのです。それ故に、もし、これを供養し、礼拝する人は、最上の功徳を得るのです。それ故に現在の弘経の僧侶を、まさに世尊に供養をするようにするべきなのです。これは、すなわち、法華経の掟なのです。 もし、この師を悪口罵詈し、誹謗すれば、種々の重罪を受けることになるのです。法華経法師品に「もし、一劫の中において常に不善の心を懐きて、色を作して、仏を罵るは、無量の重罪を獲る。それ、この法華経を読誦し持つこと有らん者に、少しでも悪口を加えるは、その罪また彼に過ぎる」と説かれている通りなのです。また法華経普賢菩薩勧発品に「もしは、人あって、これを軽毀し、汝は、狂人であり、空しく、この法華経を行じてついに得る所無しと言うも、もし、この経典を受持する者を見ては、起って遠く迎えること、まさに仏を敬ふが如くすべし」と説かれています。また、法華経譬喩品には「経を読誦し書持する者を見て、軽蔑し、嫉妬して、恨みを懐く。この人の罪の報いを、汝、今また、聴け、この人は、命終して阿鼻獄に入る」と説かれています。妙楽大師の法華五百問論に「大千界微塵数の仏を殺すは、その罪は、なお軽し。この経を毀謗する罪、これより多し。永く地獄に入って、出る時が来ること無し。この経を読誦する者を |
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| 然るに、我が弟子等の中にも「 |
然るに、我が弟子の中にも「未だ得ざるを得たりと言い、未だ証せざるを証せりと言えり」の者達がいて、迷いの世界に衆生を利益する為に生まれた僧侶を軽蔑し侮るのです。このような人の罪報を詳細に説明すると、現在の念仏、真言、禅・律などの大慢謗法や一闡提などより、百千万倍罪深いのです。ここに無智の僧侶は、わずかに法華経の一品二品、また一部、あるいは、また、要文の一十、乃至、一帖、二帖などの経釈を習い覚えて、広学多聞の僧侶と同じ位であり、何の違いもないとの思いを成しているのです。この僧侶は、このような罪報を受けるのです。無智の僧侶ですら、なお、このような罪報を受けるのです。ましてや、無智の俗世間の男女は、このような罪報を受けるのです。また、信者である僧俗の軽蔑や誹謗ですら、なお、このようであり、ましてや、不信の者や謗法の者は、なおさら、このような罪報を受けるのです。 |
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| 問ふ、何が故ぞ妙法の受職を受くる人、是くの如く功徳を得るや。答ふ、此の妙法蓮華経は本地甚深の (★595㌻) の初心 日域沙門 日蓮花押 文永九年(壬申)四月十五日の夜半に之を記し畢んぬ。 |
それでは、なぜ、妙法の受職を受けた人は、このような功徳を得るのでしょうか。それは、この妙法蓮華経は、本地の甚深の奥蔵であり、一大事因縁の大白法であるからなのです。化導三説よりも優れ、その功は、釈迦牟尼仏の一期の中で最高に高く、すべての衆生に現当の悟りの境地を成就させる法である故に、この妙法の受職を受けた人は、このような功徳を得るのです。天台大師の法華文句第八巻の上に法師品を解釈して、「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に処尊し」と述べられ、また、あるいは、「 このように莫大な功徳を現世において受けようと思うならば、正直に方便である念仏、真言、禅、律などの諸宗、諸経を捨てて、ただ、南無妙法蓮華経と唱えるべきです。真剣に唱えるべきです。真剣に唱えるべきです。 日域沙門 日蓮花押 文永9年の4月15日の夜半に、これを書きました。 |