得受職人功徳法門抄 文永九年四月一五日 五一歳

 

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 (じゅ)(しょく)とは因位の極際に始めて仏位を成ずるの義なり。此の受職に於て諸経と今経との(こと)なり有り。
 余経の意は、等覚の菩薩、妙覚の果位(かい)(かな)ふの時、他方の仏来たりて妙覚の智水を以て等覚の頂に(そそ)ぐを受職の位の(かん)(じょう)と云ふなり。又諸経には第十の法雲(ほううん)()に等覚を合摂し、又等覚に妙覚を合説するなり。詮ずる所受職の位を等覚の菩薩に限って、等覚已前の諸位に之を置かざる事は、(これ)権教方便なるが故なり云云。
   (じゅ)(しょく)とは、菩薩が仏になる因を積む為に修行をして、最終的に、その果である仏の位に、始めてなると言う意味です。しかし、この受職の意味は、諸経と法華経に違いがあります。
 法華経以外の経文での受識は、因位の位である等覚の菩薩が、仏と同じ果位の位の妙覚になった時、他の国土世間の仏が来て、妙覚の智水を等覚の菩薩の頭に、そそぐ儀式をすることであり、これを受職の位の(かん)(じょう)と言います。また、諸経で、菩薩の五十二位の位において、その中の十地の十番目の50位、法雲(ほううん)()までの位を51位の等覚の位に包含し、また、51番目の等覚の位に52番目の妙覚の位を合せて説明するのです。ようするに、受職の位を51番目の等覚の位の菩薩に限っており、等覚より下の位に置かないのは、これが方便である権教であるからなのです。
 次に法華実教の受職とは、今経の意は聖者よりも凡夫に受職し、善人よりも悪人に受職し、上位よりも下位に受職し、乃至持戒よりも()(かい)、正見よりも邪見、利根よりも鈍根、高貴よりも下賤、男よりも女、人天よりも畜生等に受職し給ふ経なり。故に未断(けん)()の衆生の我等も皆悉く受職す。故に五即・五十一位共に受職灌頂の義あり。釈に云はく「教(いよいよ)権なれば位(いよいよ)高く教弥実なれば位(いよいよ)(ひく)し」と云ふは此の意なり。    次に実教である法華経の受職では、その対象を等覚の位の菩薩に限っておらず、聖者よりも凡夫に受職することに、その意義があり、善人よりも悪人に受職し、上位よりも下位に受職し、そして、また、持戒の者より、戒を持たない者に、また、正しい意見の者よりも邪見に、利口な者よりも愚かな者に、高貴な者よりも下賎な者に、男性よりも女性に、人天よりも畜生などに受職することに意義があるのです。それ故に未だ(けん)()惑を断じていない衆生の我々も、皆、ことごとく受職することができるのです。それ故に六即の究竟即の位を除く五即の菩薩や、51位の等覚の菩薩、共に受職潅頂をする意義があるのです。妙楽大師の摩訶止観()(ぎょう)(でん)()(けつ)の「教が、いよいよ権であれば、位は、いよいよ高く、教が、いよいよ実であれば、位は、いよいよ低し」とは、この意味なのです。
 問ふ、諸経論の意は等覚已前の四十位に尚受職の義無し。今何ぞ(じゅう)(ぜん)()(しょう)の位に於て、受職の義を明かすや。答ふ、天台六即を立て円人の次位(じい)を判ず。(なお)(これ)円教の教門にして証道の実義に非ず。(いか)(いわ)んや五十二位は別教の権門に附するの廃立なるをや。若し法華の実意に約して探って之を言はゞ()(だつ)の二義有り。謂はく、与の義とは、一位に皆五十一位を具し、互具(ごぐ)相即(そうそく)して(しばら)くも欠減(けつげん)無し。()し此の辺に約せば五即・五十一位に(じゅ)(しょく)(かん)(じょう)の義有るべし。又(だつ)の辺とは、六即・五十二位は権実二教の教門に附す。故に未断煩悩の凡夫も妙法を信受するの時、妙覚の職位を成ず。(あに)此の人に於て受職の義無からんや。経に云はく「我が滅度の後に於て、(まさ)()の経を受持すべし、是の人仏道に於て(けつ)(じょう)して疑ひ有ること無けん」と。又云はく「(しゅ)()も之を聞かば即ち()(のく)()(だい)
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()(きょう)することを得ん」文。文に「仏道究竟」とは是妙覚の果位なり。但し天台等の釈に(ぶん)(しょう)の究竟と釈し給ふは、一位に諸位を具するの時、一位に皆分証・究竟の二益有り。此の辺に約して()(しゃく)せば分証・究竟に(わた)ると判じ給へり云云。
   それでは、爾前の経論では、等覚以下の40位の菩薩には、いまだ受職の意義がないと言うことですが、なぜ、法華経は、11番目の初住位にも上がっていない凡夫であっても、受職の意義があるのでしょうか。
 それは、天台は、六即を立てて、菩薩の階位を判断したのですが、法華経は、天台の化法の四教である、蔵、通、別、円の円教の教門であって、実際の出離証道の実義では、ないからなのです。ましてや、天台の五十二位は、円教ではなく、別教の権門にある階位なのです。もし、法華経の現実の出離証道の実義に即して、詳細にこれを説明すれば、与と奪の二義があるのです。その中の与の義とは、一位に五十一位、すべてが備わり、互具相即して、少しも欠けることがないのです。もし、この通りであれば、五即のすべての菩薩、五十一位のすべての菩薩に受職潅頂の意義があるのです。また、奪においては、六即、五十二位は、権実二教の教門に付属されるのです。それ故に、未だ煩悩を断じていない凡夫であっても、妙法を信受する時に、妙覚の職位を成ずることが出来るのです。そうであれば、この人に、受職の意義がないなどと言えるでしょうか。法華経如来神力品に「我が滅度の後に於て、まさに、この経を受持すべし、この人、仏道において決定して疑い有ること無し」と説かれています。また、法華経法師品には「少しでも、これを聞けば無上の悟りを究竟することを得る」とも説かれています。この文章に「仏道究竟」とあるのは、これは、妙覚の果位なのです。ただし、天台などの解釈において、分証即(分真即)の究竟即と解釈されたのは、一位に五十一位すべてが備わる時、一位の妙覚の位に分証即(分真即)と究竟即の二益があるからなのです。このことから解釈すれば、法華経の受職の意義が、不完全な悟りの分真即と完全な悟りの究竟即にわたると考えられています。

 

 今経の受職(かん)(じょう)の人に於て二人あり。一には(どう)、二には俗なり。道に於て(また)二あり。一には正しき修学(しゅがく)()(りょう)の受職、二には只信行の受職なり。俗に於ても又二あり。道に例して知んぬべし。比丘(びく)の信行は俗の修学に勝る。又比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学()(ぎょう)は信行の比丘の始信に同ず。何を以ての故に、比丘()く悪を忍べばなり。又比丘は出家の時分に受職を()。俗は能く悪を忍ぶの義有りと(いえども)も受職の義なし。故に修学解了の受職の比丘は仏位に同じ。是即ち如来の使ひなればなり。経に云はく「当に知るべし、是の人は如来と共に宿(しゅく)せん」と。又云はく「衆生を(あわれ)むが故に此の人間に生まれたり」と。是の故に作法の受職灌頂の比丘をば、信行の比丘と俗衆と共に礼拝を致し供養し()(ぎょう)せん事、仏を敬ふが如くすべし。「若し法師に親近(しんごん)せば(すみ)やかに菩薩の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙(ごうじゃ)の仏を見たてまつることを得ん」が故なり。自門尚是くの如し。(いか)(いわん)んや他門をや。

   また、法華経の受職潅頂においては、二人がいます。一には、仏道修行者である僧侶、二には、俗世間の者の二人です。また、仏道修行者においても、また二つあります。一には、正しく修学し妙法を理解し終わった僧侶の受職と、二には、ただ信じ行ずるだけの僧侶の受職です。俗世間の者に於ても、また二つありますが、仏道修行者を例にして理解してください。
 僧侶の信じ行じる行為は、俗世間の者の修学よりも優れているのです。また、僧侶の信じ行じる行為は、俗世間の者の終信と同じなのです。俗世間の者の中で、正しく修学し妙法を実践する者は、信じて行ずる僧侶の始信と同じなのです。なぜかと言うと、僧侶は、よく悪を忍ぶからなのです。また僧侶は、出家の時に受職を得るからなのです。俗世間の者は、よく悪を忍ぶ意義が有ると言っても受職の義がないのです。それ故に正しく修学し妙法を理解し終わった受職の僧侶は、仏の位と同じなのです。これは、ようするに如来の使いであればこそなのです。法華経法師品に「当に知るべし、この人は、如来と共に宿す」と説かれており、また「衆生を憐れむが故に、この人間に生まれたり」とも説かれています。この故に、作法である受職潅頂をした僧侶を、信行の僧侶、俗世間の衆生は、共に礼拝をし、供養し、恭敬し、仏と同じように敬わなければ、なりません。それは、法華経法師品に「もし、法師に親近すれば、速やかに菩薩の道を得る。この師に随順して学べば、無数の仏を見たてまつることを得る」とある通りなのです。自門ですら、この通りなのですから、ましてや他門においては、当然なのです。
 問ふ、修学解了の比丘の受職と信行の比丘乃至俗衆の受職との(そう)(みょう)如何。答ふ、信行の比丘の受職と俗衆の受職と是同じ。何を以ての故に、此の信行の比丘と在家の衆とは但だ信行受持の功徳なればなり。経に云はく「仏薬王に告げたまはく、又如来滅度の後若し人有って妙法華経の乃至一偈一句を聞きて一念も随喜せん者には我亦()(のく)()(だい)の記を与へ授く」と。又云はく「是の人歓喜して法を説かんに、(しゅ)()も之を聞かば即ち阿耨菩提を()(きょう)することを得ん」と。又云はく「此の経は持ち難し。若し(しばら)くも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏も亦(しか)なり。是くの如きの人は淳善の地に住するなり」と。提婆品に云はく「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・
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  畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」等云云。是くの如き等の諸文一に非ず。(つぶさ)には之を記すること(あた)はず。無智の道俗は自らの成仏計りの功徳にして利他の功徳なし。例せば第五十の人の師の徳無きが如し。無智の道俗も亦復(またまた)()くの如し。少分利他の徳有りと(いえど)も法師品の()(ぼん)の師に劣れり、況んや(じょう)(ぼん)の師をや。法師品の下品の師とは(ぶん)()(りょう)之有りて(ほう)()の聞きを(たが)へず、能く竊かに一人の為にも説くなり。其の理法華経と如来の本懐とに違はざるが故に、所化も信受すれば利を得るが故に、無智の道俗は少分の教化有りと(いえど)(ことば)に言失有り、法に又(たが)う所有り。故に知んぬ、今の無智の道俗等は但仰いで信じ仰いで行じ仰いで受持せよ。又弘経の師に於て之を供養すべし。経に云はく「若し仏道に住して()(ねん)()を成就せんと欲せば常に(まさ)(つと)めて法華を受持せん者を供養すべし。其れ()く一切種智慧を得んと欲すること有らば、当に是の経を受持し並びに持者を供養すべし」と。
   それでは、それ故に正しく修学し妙法を理解し終わった僧侶の受職と信じて行じるだけの僧侶や俗世間の人々の受職の姿、形とは、どのようなものなのでしょうか。
 それは、信じて行じる僧侶の受職と俗世間の人々の受職は、これは同じなのです。なぜかと言うと、この信行の僧侶と在家の衆生の受職とは、ただ信じて行じる受持の功徳であるからなのです。法華経法師品に「仏薬王に告げたまはく、また如来の滅度の後、もし、人あって妙法華経の乃至、一偈一句を聞きて一念も随喜する者には、我また無上の悟りの記を与へ授く」と説かれており、また「この人、歓喜して法を説くに、少しの間でも、これを聞けば即ち無上の悟りを究竟することを得る」とも説かれています。法華経見宝搭品に「この経は、持ち難し。もし、しばらくも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏もまた同じなのです。このような人は、純粋で善良な地に住する」と説かれています。法華経提婆達多品には「浄心に信敬して疑惑を生じない者は地獄、餓鬼、畜生に堕ちず、十方の仏前に生れる」などと説かれています。
 このような文章は、ひとつでは、なく、すべてを、ここに記ことは、出来ません。また、無智の僧侶や俗世間の人は、法華経を人の為には、説かず、自らの成仏ばかりの功徳であって、利他の功徳は、ありません。たとえば、五十展転の50番目の人に、師の徳がないのと同じなのです。無智の僧俗も、また、この五十展転の50番目の人と同じで利他の功徳は、ないのです。また、それに少しは、利他の徳があると言っても、法華経法師品の「ひそかに一人の人に法華経を説く下品の師」に劣るのです。ましてや、法師品の「広く人の為に説く上品の師」には、劣っているのです。このように法師品の「下品の師」とは、法華経の理解が終わっており、仏の法会における説法を、間違って理解する事はなく、よく、たとえ一人の為であっても説法をされるのです。その理論は、法華経と如来の本懐と違わないので、聞いた人々も、これを信じて、持てば、利益を得るのです。無智の僧俗では、少しの教化があると言っても、言葉に間違いがあるのです。また、法門においても間違っているのです。それ故に現在の無智の僧俗などは、ただ、仰いで信じ、仰いで行じ、仰いで受持するべきなのです。また、法華経を弘める師に対しては、供養をするべきなのです。法華経法師品に「もし仏道に住して自然智を成就しようと欲せば常に当に勤めて法華を受持する者を供養すべし。それ、すぐに一切種智慧を得ようと欲すること有らば、まさに、この経を受持し並びに持者を供養すべし」と説かれています。

 

 

問ふ、何の故ぞ、修学()(ぎょう)の受職の比丘の功徳は無智の道俗の功徳に勝るゝや。答ふ、解行の受職の比丘は無智の道俗の功徳を具するのみならず、己が修学解行と作法受得の受職と、又利他の功徳と此等の功徳を取り集めて、一身に具する故に勝ると云ふなり。

 難じて云はく、若し爾らば経文の「以信得入」と云ふ文に(そむ)けり、如何。答ふ、二乗は利他の行無し。故に「以信得入」と云ふなり。
 重ねて難じて云はく、他経の文に「八万(しょう)(ぎょう)を知ると(いえど)も後世を知らざるは無智」等といふは如何。答ふ、今の師は自ら後世を知る上又他を利す、故に勝ると云ふなり。例せば第五十人の功徳を挙げて(しょ)()(ちょう)(ほう)の人の功徳を(きょう)するに、上の四十九人は皆自行化他の徳を具し、第五十人は自行に限って化他の徳無きが如し云云。


   それでは、先ほどの文章に持者とは、無智の僧俗などであるとありますが、それは、どういう意味なのでしょうか。それは、経文の内容の低さや師の思慮の浅さを考慮して持者と名付けているのです。ですから文章の前後をよく見てください。それでは、なぜ、正しく修学し妙法を実践する受職の僧侶の功徳は、無智の僧俗の功徳に優れているのでしょうか。それは、正しく修学し妙法を実践する受職の僧侶は、無智の僧俗の功徳を備えるのみならず、自らの修学解行と作法受得の受職と、また、利他の功徳と、これらの功徳を取り集めて、一身に備える故に優れているのです。しかし、もし、そうであるならば、経文の「以信得入」と言う文章とは、間違っているのではないでしょうか。それは、二乗は、利他の行がなく、それ故に「以信得入」と云うのです。それは、おかしいのではないでしょうか。重ねて尋ねますが正法念処経の文章に「八万聖教を知るといえども後世を知らざるは、無智」などと説かれているではないですか。それは、現在の師は、自らの後世を知った上で、さらに、また他を利すのです。それ故に優れていると言っているのです。たとえば、五十転伝の50番目の人の功徳を挙げて、初めて仏の法を聴いた人の功徳を説明し、その前の49番目までの人は、皆、自行化他の徳をそなえ、それに反して50番目の人には、自行に限って化他の徳がないからなのです。

 

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 次に正しく修学解行の受職の比丘の功徳を言はゞ、是に於て上下の二師有り。謂はく、上の師は広く人の為に説き、下の師は能く(ひそ)かに一人の為に説くなり。上下の不同有りと雖も同じく是五種法師なり。経に云はく「若し善男子・善女人、法華経の乃至一句に於ても受持し、読誦し、()(せつ)し、書写す。乃至、当に知るべし、此の人は是大菩薩なり。()(のく)()(だい)を成就して衆生を哀愍(あいみん)して、願って此の間に生まれ、広く妙法華経を()べ分別するなり。何に況んや、尽くして能く受持し、種々に供養せん者をや。薬王、(まさ)に知るべし、是の人は自ら清浄の業報を捨てゝ、我が滅度の後に於て衆生を(あわ)れむが故に悪世に生まれて広く此の経を演ぶるなり。若し是の善男子・善女人、我が滅度の後に能く(ひそ)かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。(まさ)に知るべし、是の人は則ち如来の使ひなり、如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大衆の中に於て広く人の為に説かんをや」と。今の品の()(ぼん)の師とは、「広為人説」の一師に於て上下の師を()かつなり。釈は且く之を置きぬ。文に入って之を見るに、上に五種法師を挙げ(おわ)って「衆生を愍れむが故に悪世に生まれて広く此の経を()ぶ」と云ひ、「(じゃく)()」とおさ()ふる一句の文の内に「能竊(のうせっ)()一人説(いちにんせつ)」とも「広為人説」とも云へり。文の意は「広演此経」の人、時宜(じぎ)して(ひそ)かに一人の為に法華経を説く、尚如来の使ひなり。何に況んや「大衆の中に於て広く人の為に説かんをや」と云ふ文なり。今の文には五種法師を挙ぐ。余処並びに他の経論には、六種十種の法師を明かすなり。謂はく、大論の六種の法師、天王般若の十種の法師、乃至如来行の一師、自行化他の二師、(しん)口意(くい)の三師、又身口意誓等の四師あり。此等の師々は皆今の品の五種法師の具する所の功徳なり。
 
 次に正しく修学し妙法を実践する受職の僧侶の功徳を言えば、これに上下の二師があるのです。その上の師とは、「広く人の為に説き」、その下の師は、「一人の為にひそかに説く」のです。この上と下に違いがあると言っても、同じく、これらは、五種の法師なのです。法華経法師品に「もし善男子、善女人、法華経の乃至一句においても受持し、読誦し、解説し、書写す。乃至、当に知るべし、この人は、これ大菩薩なり。無上の悟りを成就して、衆生を哀愍して、願ってこの間に生まれ、広く妙法華経をのべ分別するなり。何に況んや、尽くして、よく受持し、種々に供養する者をや。薬王、当に知るべし、この人は自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於て、衆生を憐れむが故に、悪世に生まれて、広くこの経を述べるなり。もし、この善男子、善女人、我が滅度の後によく、ひそかに一人の為にも法華経の乃至一句を説く。当に知るべし、この人は、すなわち如来の使いなり、如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大衆の中に於て、広く人の為に説く」と説かれています。この法師品の下品の師とは、「広為人説」の一師において、上と下の師を分けているのです。この解釈については、しばらく置くとして、文章の意味に立ち入って、これを見ると、最初に受持、読経、()経、()説、書写の五種の法師をあげて、「衆生をあわれむが故に、悪世に生まれて広く、この経を述べる」と言い、「若是」と言う言葉の文章の中に「よく、ひそかに一人の為に」と言う意味も「広く人の為に説く」と言う意味も、入っているのです。この文章の意味は、「広く人の為に説く」と言う人は、時に応じて、ひそかに一人の為に法華経を説く人であって、なお、如来の使いであり、ましてや「大衆の中において広く人の為に説く」人は、如来の使いであると言う意味なのです。この文章には、五種法師をあげています。別の場所や他の経論には、六種、十種の法師を明かしています。それは、大論の六種の法師、天王般若の十種の法師、また、如来行の一師、自行化他の二師、身口意の三師、また、身口意誓などの四師などです。これらの師々は、皆、この法師品の五種の法師に備えられている功徳なのです。

 

 (しか)るに予()(せん)なりと(いえども)も、(かたじけな)くも大乗を学し諸経の王に(つか)ふる者なり。釈迦(すで)に妙法の智水を以て、日蓮の頂に(そそ)ぎて面授(めんじゅ)()(けつ)せしめ給へり。日蓮又日浄に受職せしむ。受職の後は他の為に之を説き給へ。経文の如くんば如来の使ひなり。如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ずる人なり。経に利他の人の功徳を説きて云はく「是の人は一
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切世間の(まさ)(せん)()すべき所なり。応に如来の供養を以て之を供養すべし。当に知るべし、此の人は是大菩薩にして()(のく)()(だい)を成就す」。又云はく「当に知るべし、是の人は自ら清浄の業報を捨つ」と。又云はく「当に知るべし、是の人は仏の荘厳を以て自ら荘厳するなり。則ち如来の肩に()(たん)せらるゝことを()ん。其の所至の方には、(まさ)に随って向かひ(らい)すべし」等云云。一部の文広くして(つぶさ)に記すること能はず。受職の法師の功徳是くの如し。是の故に若し此の師を供養せん人は福を(あん)(みょう)に積み、此の師を謗ぜん人は罪を()(けん)に開く。伝教大師云はく「()めん者は福を安明に積み、(そし)らん者は罪を無間に開く」とは此の意なり。此の師を供養し()(ぎょう)讃歎(さんだん)せん人の功徳を仏説きて言はく「人有って仏道を求めて、一劫の中に於て合掌して我が前に在って、無数の()を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福(また)彼に過ぎん」と。
   もし、私が身分の低い者であったとしても、いやしくも大乗を学び、諸経の王をつかさどる者なのです。釈迦が、すでに妙法の智水を日蓮の頭にそそいで、面授、口決しているのです。日蓮と、また最蓮房日浄に受職しているのです。そうであれば、受職の後は、他の人の為に、これを説くべきです。経文の通りであれば、如来の使いなのです。如来の使いとして、如来の事を行ずる人なのです。法華経法師品に利他の人の功徳を説いて「この人は、一切世間のまさに、かしずかれる所なり。まさに如来の供養を以て、これを供養すべし。
 まさに知るべし、この人は、これ大菩薩にして無上の悟りを成就す」と説かれています。また、同じく法師品に「まさに知るべし、この人は、自ら清浄の業報を捨つ」とあり、妙楽大師は、これを願兼於業の文章とされています。さらに「当に知るべし、この人は、仏の荘厳を以て、自ら荘厳するなり。すなわち、如来の肩に(にな)わせることを()る。そのあらゆる所において、応に随って向かい礼をなすべし」と説かれています。これらは、一部の文章であって、すべてを書くことは出来ません。受職した法師の功徳は、このようなものなのです。それゆえに、もし、この師を供養する人は、福を須弥山のように積み、この師を誹謗する人の罪は、無間地獄の道を開くのです。
 伝教大師が言った「()める者は、福を須弥山のように積み、謗る者は、罪を無間に開く」とは、この意味なのです。この師を供養し、恭敬し、讃歎(さんたん)する人の功徳を仏は、法華経法師品には「人あって仏道を求めて、一劫の中に於て合掌し、我が前にあって、無数の讃嘆文を以て讃める。この讃仏に由るが故に無量の功徳を得る。持経者を歎美するは、その福、また彼に過ぎる」と説かれています。
 問ふ、何を以ての故に、弘経の師を供養する功徳は是くの如く一劫の中に於て無数の偈を以て仏を讃むる功徳より勝れたるぞや。答ふ、仏は衆生を引導すること自在神通力の故に此の経を説くこと難からず。凡師は自在の三昧を得ざるが故に此の経を説くこと則ち難し。故に一劫讃仏の功徳に勝ると云ふなり。されば此の弘経の人は「如来と共に宿する」の人なり。経に云はく「上の如し」と。又云はく「如来の滅後に、四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、()(かん)(まさ)に説くべき。是の善男子・善女人は如来の室に入り、如来の衣を()、如来の座に坐して、(しか)して(いま)(まさ)に四衆の為に広く斯の経を説くべし」等云云。是くの如きの人なれば、如来(へん)()の人を(つか)はして供養すべしと見えたり。経に云はく「()()(だい)の心を以て諸の菩薩及び四部の衆の為に、広く是の法華経を説くべし○時々に説法者をして、我が身を見ることを得せしめん」と。本師教主釈迦如来、是くの如く之を守護し供養し給ふ。何に況んや、我等凡夫をや。故に若し之を供養し礼拝する人は最上の功徳を得るなり。故に今時の弘経の僧をば、当に世尊を供養するが如くにすべし。是(すなわ)ち今経のをきてなり。若し此の師を悪口し罵詈(めり)し誹謗す
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れば、種々の重罪を受くることを得るなり。経に云はく「若し一劫の中に於て常に不善の心を(いだ)きて、色を()して仏を(ののし)らんは、無量の重罪を()ん。其れ是の法華経を読誦し持つこと有らん者に、(しゅ)()も悪言を加へんは其の罪(また)彼に過ぎん」と。又云はく「若しは人有って之を(きょう)()して言はん、汝は狂人ならくのみ、(むな)しく是の行を()して(つい)に獲る所無けん○(まさ)に仏を敬ふが如くすべし」と。又経に云はく「経を読誦し書持すること有らん者を見て、(きょう)賤憎嫉(せんぞうしつ)して結恨(けっこん)()かん。此の人の罪報を汝今(また)()け、其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云。五百問論に云はく「大千界()塵数(じんじゅ)の仏を殺すは其の罪尚軽し。此の経を()(ぼう)するの罪彼より多し。永く地獄に入って()づる()有ること無し。此の経を読誦する者を毀訾(きし)するも亦復(またまた)是くの如し」と。論師人師等の釈、之多しと雖も之を略し(おわ)んぬ。

 それでは、疑問に思うのは、何をもって、弘経の師を供養する功徳は、このように、一劫の間、無数の讃嘆文によって、仏を讃嘆する功徳より優れているのでしょうか。それは、仏は、衆生を導く為の自在の神通力があるので、この経を説くことそのものは、さして難かしくはないのです。しかし、凡師は、自在の三昧を得ていない為に、この経を説くことは、難しいのです。それ故に一劫の間、無数の讃嘆文によって讃仏する功徳よりも優れているのです。そうであれば、この弘経の人は「如来と共に居る」人であり、経文に「上の如し」とあるのです。また、法師品に「如来の滅後に、四衆の為に、この法華経を説こうと思えば、まさに説くべき。この善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座にすわり、このようにして、ちょうど、その時に、まさに四衆の為に広く、この経を説くべし」などと説かれています。このような人であれば、如来が内証を隠して人間に生まれ変わった人を派遣されて、供養されると思われるのです。同じく法師品に「怠ける心無く諸の菩薩及び四部の衆の為に、広く是の法華経を説くべし。時々に説法者をして、我が身を見ることを得せしめる」と説かれています。本師教主、釈迦如来は、このように、これを守護し供養されるのです。まして、我々、凡夫においては、これ以上に守護し供養されるのです。それ故に、もし、これを供養し、礼拝する人は、最上の功徳を得るのです。それ故に現在の弘経の僧侶を、まさに世尊に供養をするようにするべきなのです。これは、すなわち、法華経の掟なのです。
もし、この師を悪口罵詈し、誹謗すれば、種々の重罪を受けることになるのです。法華経法師品に「もし、一劫の中において常に不善の心を懐きて、色を作して、仏を罵るは、無量の重罪を獲る。それ、この法華経を読誦し持つこと有らん者に、少しでも悪口を加えるは、その罪また彼に過ぎる」と説かれている通りなのです。また法華経普賢菩薩勧発品に「もしは、人あって、これを軽毀し、汝は、狂人であり、空しく、この法華経を行じてついに得る所無しと言うも、もし、この経典を受持する者を見ては、起って遠く迎えること、まさに仏を敬ふが如くすべし」と説かれています。また、法華経譬喩品には「経を読誦し書持する者を見て、軽蔑し、嫉妬して、恨みを懐く。この人の罪の報いを、汝、今また、聴け、この人は、命終して阿鼻獄に入る」と説かれています。妙楽大師の法華五百問論に「大千界微塵数の仏を殺すは、その罪は、なお軽し。この経を毀謗する罪、これより多し。永く地獄に入って、出る時が来ること無し。この経を読誦する者を毀疵(きし)するも、またまた、是くの如し」とあり、論師、人師などの解釈が多いと言っても、これを省略します。
 然るに、我が弟子等の中にも「()(とく)()(とく)()(しょう)()(しょう)」の(やから)有って、(しゅっ)()()(しょう)の僧を(きょう)()せん。此の人の罪報(つぶさ)に聞くべし。今時の念仏・真言・律等の大慢謗法・一闡提(いっせんだい)等より勝れたること百千万倍ならん。(ここ)に無智の僧侶、(わず)かに法華経の一品二品乃至一部、或は又要文一十乃至一帖二帖等の経釈を習ひ受けて、広学多聞の僧侶に於て同位等行の思ひを成す。之の僧侶は是くの如き罪報を得ん。無智の僧侶(なお)是くの如きの罪報を得ん。何に況んや、無智の俗男俗女をや。又信者の道俗の(きょう)()尚是くの如し。況んや不信謗法の輩をや。
   然るに、我が弟子の中にも「未だ得ざるを得たりと言い、未だ証せざるを証せりと言えり」の者達がいて、迷いの世界に衆生を利益する為に生まれた僧侶を軽蔑し侮るのです。このような人の罪報を詳細に説明すると、現在の念仏、真言、禅・律などの大慢謗法や一闡提などより、百千万倍罪深いのです。ここに無智の僧侶は、わずかに法華経の一品二品、また一部、あるいは、また、要文の一十、乃至、一帖、二帖などの経釈を習い覚えて、広学多聞の僧侶と同じ位であり、何の違いもないとの思いを成しているのです。この僧侶は、このような罪報を受けるのです。無智の僧侶ですら、なお、このような罪報を受けるのです。ましてや、無智の俗世間の男女は、このような罪報を受けるのです。また、信者である僧俗の軽蔑や誹謗ですら、なお、このようであり、ましてや、不信の者や謗法の者は、なおさら、このような罪報を受けるのです。
 問ふ、何が故ぞ妙法の受職を受くる人、是くの如く功徳を得るや。答ふ、此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵(おうぞう)、一大事因縁の大白法なり。化導三説に勝れ功(いち)()に高く、一切衆生をして現当の悉地成就をせしむる法なるが故に、此の経受職の人は是くの如く功徳を得るなり。釈に云はく「法妙なるが故に人貴し」等云云。或は云はく「好堅(こうけん)は地に処して芽既に百囲、(びん)()は卵に在って(こえ)衆鳥に勝る」等云云。或は云はく、妙楽云はく「(しか)も此の経の(こう)高く理絶するに約して、此の説を作すを得ん。余経は(しか)らず」等云云。(たと)ひ爾前方便の(ごく)()の菩薩なりとも、今経
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の初心()(ぎょう)の凡夫の功徳には及び給はず。何に況んや、我等末法()(じょく)乱漫に生を受け、三類の強敵を忍んで南無妙法蓮華経と唱ふ。(あに)如来の使ひに非ずや。豈霊山に於て(まのあた)り仏勅を受けたる行者に非ずや。是(あに)初随喜等の(たぐい)に非ずや。第五十の人すら尚方便の(ごく)()の菩薩の功徳に勝れり。何に況んや、五十已前の諸人をや。是くの如く莫大(ばくだい)の功徳を今時に得受せんと欲せば、正直に方便たる念仏・真言・禅・律等の諸宗諸経を捨てゝ、但南無妙法蓮華経と唱へ給へ。至心に唱へたてまつるべし、唱へたてまつるべし。
  日域沙門    日蓮花押
 文永九年(壬申)四月十五日の夜半に之を記し畢んぬ。
  それでは、なぜ、妙法の受職を受けた人は、このような功徳を得るのでしょうか。それは、この妙法蓮華経は、本地の甚深の奥蔵であり、一大事因縁の大白法であるからなのです。化導三説よりも優れ、その功は、釈迦牟尼仏の一期の中で最高に高く、すべての衆生に現当の悟りの境地を成就させる法である故に、この妙法の受職を受けた人は、このような功徳を得るのです。天台大師の法華文句第八巻の上に法師品を解釈して、「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に処尊し」と述べられ、また、あるいは、「高堅樹(こうけんじゅ)は、地にあっても、その芽は、既に百囲、鳥の(びん)()は、卵の時から、声は、他の鳥に優る」と記されています。あるいは、妙楽大師は、「しかも、この経の功高く、理絶するに約して、この説を作すを得る。余経は、然らず」と述べられており、たとえ、爾前方便の極位の菩薩であると言っても、法華経の初心始行の凡夫の功徳には、及ばないのです。まして、我々、末法の五濁乱漫に生を受けて、三類の強敵を忍んで、南無妙法蓮華経と唱える者は、それは、如来の使いでは、ないでしょうか。それは、霊山において、ひとり、仏勅を受けた行者では、ないでしょうか。これは、初随喜などの一類ではないでしょうか。50番目の人ですら、なお、方便の極位の菩薩の功徳よりも優れているのです。まして、50番目の前の人々であれば、なおさらです。
 このように莫大な功徳を現世において受けようと思うならば、正直に方便である念仏、真言、禅、律などの諸宗、諸経を捨てて、ただ、南無妙法蓮華経と唱えるべきです。真剣に唱えるべきです。真剣に唱えるべきです。
  日域沙門    日蓮花押
 文永9年の4月15日の夜半に、これを書きました。