土木殿御返事  文永八年九月一五日  五〇歳

依智滞在御書

 

(★477㌻)
 此の十二日酉の時御勘気。武蔵守殿御あづかりにて、十三日丑の時にかまくらをいでゝ佐土の国へながされ候が、たうじはほんまのえちと申すところに、えちの六郎左衛門尉殿の代官右馬太郎と申す者あづかりて候が、いま四・五日はあるべげに候。
 
 この十二日の酉の時(午後六時ごろ)に御勘気をこうむり、武蔵守殿の御あづかりとなり、十三日の丑の時(午前二時ごろ)に鎌倉を出て、佐渡の国へ流されることになった。当分は本間の領地の依智というところで、依智の六郎左衛門尉殿の代官で右馬太郎という者にあずけられており、いま四・五日はここにとどまるようである。 
 御歎きはさる事に候へども、これには一定と本よりごして候へばなげかず候。いまゝで頚の切れぬこそ本意なく候へ。法華経の御ゆへに過去に頚をうしなひたらば、かゝる少身のみにて候べきか。又「数々見擯出」ととかれて、度々失にあたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへなり。
 九月十五日        日蓮花押
(★478㌻)
   御歎きはもっともであるが、自分としてはもとより覚悟していたことであるからいまさら嘆いてはいない。今まで頚を切られないでいることこそ残念に思っている。法華経のために過去世にもし頚をきられていたなら、今生にこうした少身の身は受けなかったであろう。また経文には数数見擯出と書かれており、(法華経のために)たびたびこうした御勘気をこうむることによって過去の重罪をけしてこそ、仏になれるのであるから、我と我が心から求めて苦行しているのである。
 九月十四日        日蓮花押
土木殿御返事
 上のせめさせ給ふこそ、法華経を信じたる色もあらわれ候へ。月はかけてみち、しをはひてみつ事疑ひなし。此も罰あり必ず徳あるべし。なにしにかなげかん。
  土木殿御返事
 上(北条幕府)が責めてくるので、日蓮が法華経の行者であることがはっきり顕われた。月はかけて満ち、潮は引いて満ちることは疑いない。日蓮も罰を受けたから必ず徳を得るのである。どうして嘆くことがあろうか。