大白法・平成12年8月1日刊(第554号より転載)御書解説(088)―背景と大意

法華題目抄(353頁)

別名『法華経題目抄』

 一、御述作の由来

 本抄は、文永三(1266)年一月六日、御年四十五歳の御述作です。

 文永三年という時期は、鎌倉における弘教の時期ですから、本抄は鎌倉において認められたと考えるのが自然ですが、この頃、大聖人様は房州(千葉県)にお帰りになることもあったので、房州においてお認めになられたとも伝えられています。

 対告衆は明らかではありません。しかし、念仏の執情を未だ取り払うことができない女性であることは、本抄の内容から推測できます。

 御真蹟については、断片的に散在している状況ですが、第三祖日目上人によって本抄の全体が筆写されており、現在も貴重な写本として大石寺に蔵されています。

 なお、本抄の冒頭に、「根本大師門人 日蓮 撰」とあるのは、発迹顕本以前の御化導の上にあって、未だ究竟の域に達していない時期にあることを表されているとも言えます。しかし、再往、本抄の深意を拝するならば、おのずと大聖人様の御化導の究竟にいきつく道筋が示されていることを知るべきです。

 二、本抄の大意

 法華経こそが一切衆生成仏の教え

 本抄は、内容において大きく二つに分けることができます。一つには、信心をもって唱える題目の功徳であり、二つには、寿量文底の妙法蓮華経の法体に具わる徳を示 されているということです。このことを踏まえた上で全体を拝していくことが大切です。

 はじめに、法華経の意味や説かれている教義が判らなくても、一日乃至一生の間にただ一遍の題目を唱えることによって、不退の位に至ることができることを説き、題目を唱える功徳が広大であることを示されています。さらに、経文や数々の事例を挙げ、「信の題目」こそ大切であることを述べると共に、信心なき者は誹謗闡提の者であると厳しく御指南されています。

 続いて、唱題の妙用として、私たちの広大にして堅固な悪業を消滅できることを種々の譬えをもって明示し、さらには法華経の題目に値遇することの難しさを説かれています。そして、法華経の修行には広・略・要の立て分けがあり、広・略を捨てて要を取る、すなわち、唱題が末法の修行であることを示されています。

 次に、妙法五字に具わる徳について述べられます。まず、妙法蓮華経には十界の依報・正報を収めていること、また十方法界における一切の法が妙法蓮華経に納められていることを挙げられます。
 さらに、妙の一字の徳として、開と具の徳を挙げられています。そして、その徳によって、爾前経では成仏できないとされていた二乗や悪人や女人の成仏も叶う、つまり一切衆生の成仏が叶うことを説かれています。

 最後に、日本国の一切の女人が念仏に執着しているというのは、悪知識に誑かされてい る姿であると喝破し、直ちに念仏を捨てて妙法五字を唱えていくよう勧誡され、本抄を結ばれています。

 三、拝読のポイント

 随順して疑わない信心を心掛けよう

 第一に、「信」についての御教示を挙げることができます。本抄に、

夫仏道に入る根本は信をもて本とす

とあるように、信じることが仏道の根本であることは言うまでもありません。したがって、唱題においても信じて唱えることが大切なのです。しかし実際には「難信難解」と法華経に説かれているように「信じる」ということほど難しいことはないとも言えるのです。

 では、「信」とはどのようなことなのか、日寛上人の御教示を拝するに、

内典の意は、随順して疑わざる義なり」(日寛上人文段集623頁)

と仰せであり、随順して疑わないことをもって「信」とされています。疑わないことが「信」であるということは、誰しも理解できることであります。しかし、随順することが「信」であるということについては、どれだけの人が正しく理解できているでしょうか。

 随順について日寛上人は、

如来の金言に随順す、これを信順の義と名づくるなり」(同)

と仰せられ、如来すなわち仏様の言葉に随うことであると教示されています。

 しかし、ここで留意すべきことがあるのです。それは御書が大聖人様の御金言であるからと言って、御書を拝読するだけで正しい信仰ができるかと言えば、決してそうではないということです。このような信仰では、我見による自分勝手な信仰に陥ることを知らなければなりません。

 そこで大切なことは、大聖人様の仏法を伝持される御法主上人猊下の御指南に随っていくということです。御書についても、御書の元意を御指南くださる御法主上人猊下がおられてこそ、私たちは正しく御書を拝し、正しく信仰することができるのです。

 御法主日顕上人猊下は、本抄の御説法において、

法華経の教えは随順なのです。随順しなければ結局、信というものが出てきません」(大日蓮643号)

と御指南されています。つまり下種三宝尊に随順し唱題することにより、御本尊様に対する確信も深まってくるのです。

 本抄においては、「信の題目」が肝要であることを御教示されています。その信とはいかなることかを正しく弁えることが信心修行において第一に大切であるということを銘記し、随順して疑わない信心を心掛けてまいりましょう。

 第二に、罪障消滅についての御教示を挙げることができます。本抄の冒頭で、一日乃至一生において、御題目を一遍唱えただけでついに不退の位に至ることを御教示されていますが、はたして一遍の唱題によって、不退の位に至ることができるのかと言えば、そう簡単なことではありません。日寛上人はこのことについて、

若し過去の謗法なき人は実に所問の如し。遂に不退に到るべし。然るに我等衆生は過去の謗法無量なり。この謗法の罪滅し難し」(日寛上人文段集619頁)

と御教示されています。すなわち過去に謗法が全くない人は、本抄の御指南どおり一遍の題目によって不退の位に至ることができますが、私たちには過去世からの無量の謗法があるため、ただ一遍の題目というわけにはいきません。

 しかし本抄では、どのような悪業を持っている人であっても、唱題の功徳によって必ずその悪業は消滅できることを、いくつかの譬をもって御教示くださっています。それゆえ日寛上人は、

故に信力強盛に妙行を励むべきなり」(同)

と仰せになっています。消え難い無量の謗法を抱えている我が身であれ、妙行すなわち御本尊様を固く信じ、弛まず唱題をしていくことにより、必ず罪障消滅が叶い、幸せな境界が開かれてくるのです。

 第三に、本抄において、

法華は仏になりがたき者すら尚仏になりぬ

と仰せのように、いかなる人も必ず成仏できるということです。法華経に至り、爾前経では成仏できないとされた二乗・悪人・女人の成仏が説かれましたが、それらは妙法蓮華経の妙の徳によることが本抄で示されています。すなわち御本尊様の徳により、一切衆生の成仏が叶うのです。

 御法主上人猊下は本抄の御説法において、

あらゆるものがお互いに具わり合っているのであって、そのなかに真実で最高の存在として仏様も具わっているのだから、自分の身に仏界がはっきりと顕れれば、そのまま仏様と成るのです」(大日蓮 652号)

 

と、

妙とは具の義なり

の文について御指南されています。また、

妙とは蘇生の義なり

との御教示からも、我が身に仏界がはっきり顕れるためには、御本尊様に信の題目を唱える以外にありません。

 したがって、成仏の大利益を賜ることができるのは、戒壇の大御本尊様在す我が日蓮正宗以外に無いということを知らなければならないのです。

 もったいなくも御本尊様に値遇できた私たちは、その有り難さをしっかり胸に刻み、精進すべきなのです。

 四、結  び

 自行化他にわたる信心を実践しよう

 本抄を拝し、信心口唱の功徳が無量であること、また御本尊様に具わる徳が広大無辺であることを学び、信心の確信をいよいよ深められ、御報恩の念を強められたに違いありません。

 最勝最善にして唯一無二の正法を受持できた私たちは、この喜びを自分だけに止めるのではなく、一人でも多くの人々に伝え、共々に幸せになっていくことが肝要です。

 時は、宗旨建立七百五十年を目前に控えています。自行のみに止めることなく、化他の折伏行に精進し、もって宗旨建立七百五十年の御報恩としてまいろうではありませんか。