持妙法華問答抄 弘長三年 四二歳

 

第一章 成仏の直道を説く

(★293㌻)
 (そもそも)(まれ)に人身をうけ、(たまたま)仏法をきけり。然るに法に浅深(せんじん)あり、人に高下ありと云へり。(いか)なる法を修行してか(すみ)やかに仏になり候べき。願はくは其の道を聞かんと思ふ。答へて云はく、家々に尊勝あり、国々に高貴あり。皆其の君を(たっと)み、其の親を(あが)むといへども、(あに)国王にまさるべきや。(ここ)に知んぬ、大小権実は家々の(あらそ)ひなれども、一代聖教の中には法華(ひと)り勝れたり。是(とん)(しょう)()(だい)()(なん)(じき)()(どう)(じょう)の車輪なり。
   そもそも、まれに人間として生まれ、たまたま仏法を聞くことができた。ところが、仏の法に浅深があり、人の機根にも高下があるという。どのような法を修行すれば、すみやかに仏になれるのであろうか。願わくば、その道を聞きたいと思う。
 答えて言う。家々に尊勝の親がおり、国々に高貴の主君がいる。その親を崇めるといっても、どうして国王に勝ることがあろうか。これと同じく、大乗と小乗、権教と実教との対立する家々の諍いのようなものであるが、釈尊一代の聖教の中では法華経は、すみやかに菩提を証得するための指南であり、ただちに菩提の道場に至る即身成仏の車輪だからである。

 

第二章 法華の独勝を示す

 疑って云はく、人師は経論の心を得て釈を作る者なり。(しか)らば則ち宗々の人師、面々各々に教門をし()らひ、釈を作り、義を立て(しょう)(とく)菩提を志す。何ぞ(むな)しかるべきや。然るに法華独り勝ると候はゞ、心せばくこそ覚え候へ。答へて云はく、法華(ひと)りいみじと申すが心せばく候はゞ、釈尊程心せばき人は世に候はじ。何ぞ誤りの(はなはだ)しきや。(しばら)く一経一流の釈を引いて其の迷ひをさとらせん。無量義経に云はく「種々に法を説き、種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年未だ真実を顕はさず」云云。此の文を聞いて(だい)(しょう)厳等(ごんとう)の八万の菩薩一同に「無量無辺不可思議()(そう)()(こう)を過ぐるとも(つい)に無上菩提を成ずることを得ず」と(りょう)()し給へり。此の文の心は、華厳・阿含・方等・般若の四十余年の経に付いて、いかに念仏を申し、禅宗を持って仏道を願ひ、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、無上菩提を成ずる事を得じと云へり。しかのみならず、方便品には「世尊は法は久しくして後(かなら)(まさ)に真実を説き給ふべし」ととき、又「(ただ)一乗の法のみ有り二無く亦(さん)無し」と説きて此の経ばかりまことなりと云ひ、又二の巻には「唯我一人のみ能く救護(くご)を為す」と教へ、「但(ねが)って大乗経典を受持して乃至余経の一偈をも受けざれ」と説き給へり。文の心は、たゞわれ一人してよくすく()まも()る事をなす、
(★294㌻)
法華経をうけたもたん事をねがひて、余経の一偈をもうけざれと見えたり。又云はく「()し人信ぜずして此の経を()(ぼう)せば則ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻(あび)(ごく)に入らん」云云。此の文の心は、若し人此の経を信ぜずして此の経にそむかば、(すなわ)ち一切世間の仏のたねをたつものなり。その人は(いのち)をわらば無間地獄に入るべしと説き給へり。此等の文をうけて天台は「(まさ)に魔の仏と作っての(ことば)、正しく此の文によれり」と判じ給へり。唯人師の釈(ばか)りを(たの)みて、仏説によらずば何ぞ仏法と云ふ名を付すべきや。言語道断の次第なり。之に依て()(しょう)大師は「経に大小なく理に偏円(へんえん)なしと云って、一切人によらば仏説無用なり」と釈し給へり。天台は「若し深く()(えん)有りて、復(しゅ)多羅(たら)と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず」と判じ給へり。又云はく「文証無きは(ことごと)く是(じゃ)()なり」とも云へり。いかゞ心得べきや。
   疑つて言う。人師とは経論の心を会得して釈をつくる人のことである。そうであれば、即ち各宗の人師が、めいめいに、それぞれに教門を設え、釈を作り、義を立て、菩提を証得菩する道を志している。どうしてそれが空しいことがあろうか。しかるに法華のみが独り勝れるというのは心が狭いのではないかと思われる。
 答えて言う。法華経独り勝れているというのが心が狭いというのであれば、釈尊ほど心の狭い人は世にいないであろう。何と誤りのはなはだしいことか。しばらく一経・一流の釈を引いて、その迷いを悟らせよう。無量義経には「衆生の機根にあわせて種々に法を説いたが、それは仏の方便の力によるものであって、四十余年の間は未だ真実を顕さなかった」とある。この文を聞いて大荘厳等の八万人の菩薩は一同に「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎても、法華経以前の教えではついに無上菩提を成ずることはできない」と領解したのである。この文の意は華厳・阿含・方等・般若の四十余年の諸経にしたがって、いかに念仏を称え禅宗を持って仏道を願い無量無辺・不可思議・阿僧祇劫を過ぎたとしても無上菩提を成ずることはできないということである。 
 そればかりではなく、法華経方便品第二には「仏の方便の教えを久しい間説いた後に、かならず真実の教えを説あれるであろう」と説き、また「唯一乗の法のみ有り、二も無く亦三も無い」と説いて、この経だけが真実であるといっている。また法華経巻二の譬喩品第三には「唯我一人のみ能く一切衆生を救い護ることができる」と教え、「但だ楽って大乗経典を受持して、余経の一偈をも受けてはならない」と説かれている。文の意は「ただ我一人だけがよく衆生を救い護ることができる。
 法華経を受け持つことをねがって、余経の一偈をも受け入れてはならない」ということである。また譬喩品に「若し人が信じないで此の経を毀謗すれば、則ち一切世間の仏種を断ずるであろう。乃至。その人は命終して阿鼻獄に入るであろう」とある。この文の意は、もしこの人がこの経を信じないでそむくならば、則ち一切世間の成仏の種子を断つものである。その人は命が終われば無間地獄に堕ちるであろうと説かれたのである。
 これらの文をうけて天台大師は「『将に魔の仏となるにあらずや』との詞はまさしくこの文による」と判じたのである、ただ人師の釈ばかりを憑みにして、仏説によらなければ、どうして仏法という名を付けるべきであろうか。言語道断の次第である。これによって智証大師は授決集巻上に「『経に大乗・小乗の相違なく、理に偏円の差別がない』といって一切人師の言を用いるならば仏説は無用である」と釈している。天台大師は法華玄義巻十に「もし深い道理があり、また修多羅と合うものは収録してこれを用いよ。経典のなかに文が無く義の無い説は信受すべきでない」と判じている。同じく法華文義巻二には「文証のないものは、悉く邪見である」ともいっている。人師の説にのみ依る者はこれをどのように心得るのか。

 

第三章 権実相対して法華最第一を明かす

 問うて云はく、人師の釈はさも候べし。爾前の諸経に此の経第一とも説き、諸経の王とも()べたり。若し(しか)らば仏説なりとも用ゆべからず候か如何。答へて云はく、(たと)ひ此の経第一とも諸経の王とも申し候へ、皆是権教なり。其の語によるべからず。之に依て仏は「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き、妙楽大師は「(たと)ひ経有りて諸経の王と云ふとも、已今当説(さい)()第一と云はざれば兼但(けんたん)対帯(たいたい)其の義知んぬべし」と釈し給へり。此の釈の心は、設ひ経ありて諸経の王とは云ふとも、前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば、方便の経としれと云ふ釈なり。されば()(ぜん)の経の習ひとして、今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり。唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に、已今当の中に此の経(ひと)り勝れたりと説かれて候へ。されば釈には「唯法華に至って前教の意を説いて今教の意を顕はす」と申して、法華経にて如来の本意も、教化の儀式も定まりたりと見へたり。之に依って天台は「如来成道四十余年未だ真実を顕はさず、法華始めて真実を顕はす」と云へり。此の文の心は、如来世に出させ給ひて四十余年が間は真実の法をば顕はさず。
(★295㌻)
法華経に始めて仏になる実の道を顕はし給へりと釈し給へり。
   問うて言う。人師の釈はいかにもそのとおりであろう。しかし、爾前の諸経に「此の経第一」とも「諸経の王」とも宣べている。もしそうならば、仏説であっても用いてはならないであろうか。
 答えて言う。たとい「此の経第一」とも「諸経の王」とも述べていようとも、これらは皆権教である。その言葉によってはならない。このことを仏は「了義経に依るべきであって不了義経に依ってはならない」と説き、妙楽大師は「たとい経があって『諸経の王』というとも、已今当説最為第一といわなければ、兼但対帯の義によって方便の経と知るべきである」と釈されている。この釈の意は「たとい経があって『諸経の王』というとも、その経よりも前に説いた経にも、後に説かれる経にも、この経は勝れているといわなければ、方便の経と知りなさい」というものである。ただ法華経のみが、仏の最後の極説である故に「已今当の経々の中で此の経が独り勝れている」と説かれているのである。それ故、法華玄義釈籤には「ただ法華経に至って、爾前教が方便であるとの意を説いて、今教の本意を顕した」といって、法華経において仏の本意も、教化の儀式も確定したと説いている。
 これによって天台大師は「釈迦如来は成道して四十余年の間、未だ真実を顕さず、法華経で始めて真実を顕した」と述べている。この文の意は、如来が世に出られて四十余年の間は真実の法を顕さず、法華経で始めて仏になる真実の道を顕わされた、と釈されている。

 

第四章 二乗作仏を示し法華の帰依を勧める

 問うて云はく、已今当の中に法華経勝れたりと云ふ事はさも候べし。但し()(にん)()の云はく、四十余年未顕真実と云ふは法華経にて仏になる(しょう)(もん)の為なり。爾前の得益の菩薩の為には未顕真実と云ふべからずと云ふ義をばいかゞ心得候べきや。答へて云はく、法華経は二乗の為なり、菩薩の為にあらず、されば未顕真実と云ふ事二乗に限るべしと云ふは徳一(とくいち)大師の義か。此は法相(ほっそう)(しゅう)の人なり。此の事を伝教大師破し給ふに「現在の()(じき)者は()(しょう)数巻を作って法を謗じ人を謗ず、何ぞ地獄に()せざらんや」と破し給ひしかば、徳一大師其の語に責められて舌八つに()けてうせ給ひき。未顕真実とは二乗の為なりと云はゞ最も(ことわり)を得たり。其の故は如来布教の(がん)()は元より二乗の為なり。一代の化儀(けぎ)、三周の(ぜん)(ぎょう)(しかしな)ら二乗を正意とし給へり。されば華厳経には地獄の衆生は仏になるとも二乗は仏になるべからずと嫌ひ、方等には高峯に(はちす)()ひざるように、二乗は仏の種を()りたりと云はれ、般若には五逆罪の者は仏になるべし、二乗は叶ふべからずと捨てらる。かゝるあさましき捨者(すてもの)の仏になるを以て如来の本意とし、法華経の規模(きも)とす。之に依って天台云はく「()(ごん)大品(だいぼん)も之を治すること(あた)はず。唯法華のみ有って()く無学をして(かえ)って善根を生じ仏道を成ずることを得せしむ。所以(ゆえ)に妙と称す」と。又「闡提(せんだい)は心有り、猶作仏すべし。二乗は智を滅す、心生ずべからず。法華能く治す、(また)称して妙と()す」云云。此の文の心は(くわ)しく申すに及ばず。誠に知んぬ、華厳・方等(ほうどう)大品(だいぼん)等の法薬(ほうやく)も、二乗の重病をばいやさず。又三悪道(さんなくどう)の罪人をも菩薩ぞと爾前の経にはゆるせども、二乗をばゆるさず。之に依って妙楽大師は「()(しゅ)を実に会すること諸経に或は有れども二乗は全く無し。故に菩薩に合して二乗に対し難きに従って説く」と釈し給へり。しかのみならず「二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕はす」と天台は判じ給へり。(しゅ)()が大海を渡らんをば是難しとやせん。(よう)()の力士を投げん、何ぞたやすしとせん。然らば則ち仏性の種ある者は仏になるべしと爾前に説けども、
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未だ(しょう)(しゅ)の者作仏すべしとは説かず。かゝる重病をたやすくいや()すは、独り法華の良薬なり。(ただ)(すべから)く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこ()をたをし、忿(いか)りの杖をすてゝ(ひとえ)に一乗に帰すべし。名聞名利は(こん)(じょう)のかざり、()(まん)(へん)(しゅう)は後生のほだし()なり。嗚呼(ああ)、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。
   問うて言う。已今当の三説の中で法華経が最も勝れているということが、いかにもそのとおりであろう。但しある人師の「四十余年未顕真実というのは法華経によって仏になる声聞のための言葉であり、爾前の諸経で得道した菩薩のためには、未顕真実というべきではない」という義をどのように心得るべきであろうか。
 答えて言う。「法華経は二乗のためにとかれた経であり、菩薩のためではない。ゆえに未顕真実ということは二乗に限るべきである」というのは徳一大師の義である。これは法相宗の人である。このことを伝教大師が「現在の麤食者の偽りの書物を数巻作って正法を謗り、人を謗っている。どうして地獄に堕ちずにいられようか」と破折されたので、徳一はこの言葉に責められて 舌が八つにさけ死んでいった。
 しかし「未顕真実」とは二乗のためであるというのは、最も道理を得ている。そのゆえは釈尊の布教の根元の趣旨は、もとより二乗の得道のためである。釈尊一代の化儀・三周の巧みな説法も、ことごとく二乗を正意とされたものである。それゆえ華厳経には、地獄の衆生は仏になっても二乗は仏になることができないと嫌い、方等経典には、高い峯には蓮が生じないように、二乗は仏の種を焦った衆生であるといわれ、般若経には五逆罪の者は仏になるが、二乗は成仏が叶わないと捨てられている。このようなあわれな捨て人が仏になることをもって仏の本意とし、法華経の規模とするのである。
 それゆえ、天台大師は、摩訶止観巻六下に「華厳経・大品般若経も二乗を治すことはできない。ただ法華経のみがよく無学の二乗に善根を生じさせ、仏道を成就させることができる。故に妙と称する。また一闡提にも心があるから、やはり仏になることができる。しかし二乗は智慧を滅するので、菩提心を生ずることができない。法華経はよくこれを治す。ゆえに妙と称するのである」と。この文の意はくわしくいうにおよばばい。まことに華厳・方等・大品般若等の法薬も、二乗の重病をいやさず、また三悪道の罪人をも菩薩であるとして、爾前の諸経に成仏を許しているが、二乗の成仏を許さないのである。
 これによって妙楽大師は法華玄義釈籤巻二に「余趣の衆生を仏道に会入させることは諸経にも説かれているが、二乗についてはまったく説かれていない。ゆえに余趣を菩薩に合して、二乗に対して、その難き二乗の作仏を示して法華経の力用を説いたのである」と釈している。そればかりではなく「二乗の作仏は、一切衆生の成仏を顕す」と天台大師は判じられている。修羅が大海を渡るのをむずかしいとするだろうか。幼児が力士を投げることをどうしてたやすいといえようか。そうであるならば、則ち仏性の種子のあるものは仏になる、と爾前に説くけれども、いまだ焦種の者が仏になるとは説かれず、このよう重病をたやすく治すのは、独り法華の良薬だけである。
 あなたがただ仏になろうと思うならば、慢心のはたほこを倒し、瞋りの杖を捨てて、ひとえに一仏乗の法華経に帰依すべきである。名聞名利は今生だけの飾りであり、我慢や偏執は後生の足かせである。まことに恥ずべべきであり、恐るべきことである。恐るべきことである。

 

第五章 法華経の信受を勧める

 問うて云はく、一を以て万を察する事なれば、あらあら法華のいはれを聞くに()(もく)始めて明らかなり。但し法華経をばいかやうに心得候てか、(すみ)やかに菩提の岸に到るべきや。伝へ聞く、一念三千の太虚(たいきょ)には()(にち)くもる事なく、一心三観の広池には智水にごる事なき人こそ、其の修行に堪へたる機にて候なれ。然るに南都の修学に(ひじ)をくだす事なかりしかば、瑜伽(ゆが)唯識(ゆいしき)にもくらし。北嶺(ほくれい)の学文に眼をさらさざりしかば、止観・玄義にも迷へり。天台・法相の両宗はほとぎ()(こうむ)って壁に向かへるが如し。されば法華の機には既にもれて候にこそ、(いか)んがし候べき。答へて云はく、利智(りち)(しょう)(じん)にして観法(かんぽう)修行するのみ法華の機ぞと云ひて、無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり。是(かえ)って愚癡(ぐち)邪見の至りなり。一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。されば経には「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に()ちずして十方の仏前に生ぜん」と説き給へり。いかにも信じて次の生の仏前を()すべきなり。譬へば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして此の縄にとりつかば、(われ)岸の上に引き(のぼ)さんと云はんに、引く人の力を疑ひ縄の弱からん事をあやぶみて、手を納めて是をとらざらんが如し。(いか)でか岸の上に登る事をうべき。若し其の(ことば)に随ひて、手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし。「唯我(ただわれ)一人のみ能く救護(くご)を為す」の仏の御力を疑ひ「()信得(しんとく)(にゅう)」の法華経の教への縄をあやぶみて、「(けつ)(じょう)無有疑」の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。菩提の岸に登る事難かるべし。不信の者は()在泥(ざいない)()の根元なり。されば経には「疑ひを生じて信ぜざらん者は(すなわ)ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり。

   問うて言う。一をもって万を推察するのであるから、あらあら法華経が他経に勝れる趣旨を聞いて、耳目が初めて明らかになった。しかし法華経をどのように心得て修行することが、速やかに菩提の岸に至るのであろうか。伝え聞くところによると一念三千の法門は大空には智慧の日の光が輝いて曇ることがなく、一心三観の広大な池には、智水の水が濁ることのない人こそ、その修行に堪えられる機根であるという。ところが、私は奈良の都の修学に臂をくだくほど励むことがなかったので、瑜伽・唯識の法門にもくらい。また比叡山延暦寺の学文にも眼をさらさなかったから、摩訶止観や法華玄義の法門にも迷うばかりである。天台や法相の両宗については、鉢を頭にかぶって壁に向かっているのと同じである。そうかといえば法華経によって得道する機根にはすでにもれている。どうしたらよいのであろう。
 答えて言う。智慧がすぐれておりたびたび精進して観法の修行をする人のみが法華経の機根であるといって、無智の人を妨げるのは今の世の学者の所行である。これはかえって愚癡・邪見の至りである。法華経は一切衆生皆成仏道の教えであるから、上根・上機の者は観念・観法もよいであろう。ただし下根・下機の者はただ信心が肝要である。故に法華経提婆達多品第十二には「浄心に信じ敬って疑惑を生じない者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちることなく、十方の仏前に生ずるであろう」と説かれているのである。なんとしても法華経を信じて、つぎの世に仏前にうまれることを期すべきである。
 たとえば高い岸壁の下に人がいて登ることができないときは、また岸の上に人がいて繩をおろし「この繩にとりつけば、私が 岸の上に引いて登らせよう」というのに、引く人の力を疑い、繩の弱いのではないかと危ぶんで手をださず縄を取らないようなものである。どうして岸の上に登ることができようか。もしその人の言葉に随って手を差し出し縄をつかめば即ち登ることができるのである。
 唯我一人・能為救護の仏の御力を疑い以信得入の法華経の教えの繩を危ぶんで決定無有疑の妙法を唱えなければ仏の力も及ばず、菩提の岸に登ることもむずかしいのである。不信は地獄に堕ちる根元である。故に法華経従地涌涌出品第十五には「疑いを生じて信じない者は即ち悪道に堕ちるのである」と説かれているのである。

 

第六章 法華信受の功徳を示す

 受けがたき人身をうけ、()ひがたき仏法にあひて(いか)でか(むな)しくて候べきぞ。
(★297㌻)
同じく信を取るならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の(ほん)()、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。持つ処の御経の諸経に(すぐ)れてましませば、()く持つ人も(また)諸人にまされり。(ここ)を以て経に云はく「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦()れ第一なり」と説き給へり。大聖の金言疑ひなし。然るに人此の理をしらず見ずして、(みょう)(もん)狐疑(こぎ)(へん)(しゅう)を致せるは堕獄の(もとい)なり。(ただ)願はくは経を持ち、名を十方の(ぶっ)()の願海に流し、誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし。然れば法華経を持ち奉る人は、天竜八部諸大菩薩を以て我れ眷属(けんぞく)とする者なり。しかのみならず、因身の肉団に果満の仏眼を備へ、有為(うい)の凡膚に無為(むい)(しょう)()を著ぬれば、三()に恐れなく八難に(はばか)りなし。七方便の山の頂に登りて九法界の雲を払ひ、無垢地(むくじ)の園に花開け、法性の空に月明らかならん。「是の人仏道に於て、決定して疑ひ有ること無けん」の文憑(もんたの)みあり。「唯我一人のみ能く救護を為す」の説疑ひなし。一念(しん)()の功徳は五波羅(はら)(みつ)の行に越へ、五十展転(てんでん)(ずい)()は八十年の布施に勝れたり。(とん)(しょう)菩提の教は(はる)かに群典に(ひい)で、顕本(けんぽん)遠寿(おんじゅ)の説は永く諸乗に絶えたり。(ここ)を以て八歳の竜女は大海より来たりて経力を(せつ)()に示し、(ほん)()(じょう)(ぎょう)は大地より()(じゅつ)して仏寿(ぶつじゅ)を久遠に顕はす。言語道断の経王、心行所滅の妙法なり。
   受けがたい人身をうけ、あいがたい仏法にあいながら、どうして一生を空しく過ごしてよいものであろうか。同じく仏法を信ずるならば、大小・権実とあるなかには、諸仏出世の本意であり衆生の成仏の直道である法華一乗をこそ信ずべきである。
 持つところの法華経が諸経に勝れていれば、能く持つ人もまた諸人に勝れるのである。このことを法華経薬王菩薩本事品第二十三には「能く是の経を持つ者は、一切衆生の中でまた第一である」と説かれている。仏の金言は疑いないのである。ところが世間の人は、この道理を知らず、また見もしないで、名聞を求め、疑い深く、偏見に固執しているのは、地獄に堕ちるもとである。
 ただ願うところは、法華経を持ち名を十方の諸仏の誓願の海に流し、誉れを三世の菩薩の慈悲の天に施すべきである。そうすれば、法華経を持つ人は、天竜等の八部衆や諸大菩薩を自分の眷属とする者である。そればかりでなく、因位にある凡夫の身の肉団に果位円満の仏眼をそなえ、有為の凡身に無為の聖衣を着たことになるから、三途にあっても恐れなく、八難所にあっても憂いはない。七方便の山の頂に登って九法界の迷いの雲を払い、無垢地の園に花は開き、法性の空に月は明らかとなるであろう。法華経如来神力品第二十一の「法華経を受持する人が、仏道を成就することは疑いない」との文は頼りになり、法華経譬喩品第三の「ただ我一人のみがよくこの三界の衆生を救護する」との仏説も疑いない。
 一念信解の功徳は、五波羅蜜の修行を越えており、五十展転の随喜の功徳は、八十年の布施よりも勝れている。すみやかに菩提を証得する教えは、はるかにあらゆる経典に秀で顕本遠寿の説は、諸余の経典にはながく絶えてないのである。
 このような次第で、八歳の竜女は大海から霊鷲山にきて即身成仏の経力を一瞬に示し、本化の上行菩薩は大地から涌出して仏の寿命が久遠であることをあらわした。まさしく法華経は言語で表現することのできない不可思議な経王であり、心の思慮分別の遠く及ばない妙法である。 

 

第七章 法華誹謗の業因を明かす

 然るに此の(ことわり)いる()がせ()にして余経にひと()しむるは、謗法の至り、大罪の至極なり。譬へを取るに物なし。仏の神変にても何ぞ是を説き尽くさん。菩薩の智力にても(いか)でか是を量るべき。されば譬喩(ひゆ)(ほん)に云はく「若し其の罪を説かば、劫を(きわ)むとも尽きじ」と云へり。文の心は法華経を一度もそむ()ける人の罪をば、劫を窮むとも説き尽くし難しと見へたり。然る間、三世の諸仏の化導にももれ、恒沙(ごうじゃ)の如来の法門にも捨てられ、(くら)きより冥きに入りて阿鼻(あび)(だい)(じょう)()患争(げんいか)でか(まぬが)れん。誰か心あらん人長劫の悲しみを恐れざらんや。(ここ)を以て経に云はく「経を読誦(どくじゅ)し書持すること有らん者を見て、(きょう)(せん)憎嫉(ぞうしつ)して(しか)結恨(けっこん)(いだ)かん。
(★298㌻)
其の人(みょう)(じゅう)して阿鼻獄に入らん」云云。文の心は、法華経を()たも()たん者を見て、かろ()しめ、いや()しみ、にく()み、そね()み、うら()みをむす()ばん。其の人は命をは()りて阿鼻大城に入らんと云へり。大聖の金言誰か是を恐れざらんや。「正直捨方便」の明文、(あに)是を疑ふべきや。然るに人皆経文に背き、世(ことごと)く法理に迷へり。汝何ぞ悪友の教へに随はんや。されば「邪師の法を信じ受くる者を名づけて毒を飲む者なり」と天台は釈し給へり。汝()く是を慎むべし、是を慎むべし。
 (つらつら)世間を見るに法をば貴しと申せども、其の人をば万人是を(にく)む。汝能く能く法の源に迷へり。(いか)にと云ふに、一切の草木は地より出生せり。是を以て思ふに、一切の仏法も又人に()りて弘まるべし。之に依って天台は「(ぶっ)()すら猶人を以て法を顕はす。末代はいづくんぞ法は貴けれども人は(いや)しと云はんや」とこそ釈して御坐(おわ)し候へ。されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし。然らば(すなわ)ち其の人を(そし)るは其の法を毀るなり。其の子を(いや)しむるは即ち其の親を賤しむなり。(ここ)に知んぬ、当世の人は(ことば)と心と(すべ)()はず、孝経を以て其の親を打つが如し。(あに)(みょう)(しょう)(らん)恥づかしからざらんや。地獄の苦しみ恐るべし恐るべし。慎むべし慎むべし。(じょう)(こん)に望めても卑下すべからず。()(こん)を捨てざるは本懐(ほんがい)なり。下根に望めても(きょう)(まん)ならざれ。上根も()るゝ事あり、心をいたさざるが故に。
   しかるにこの道理をおろそかにして、他の経と等しいとするのは、謗法の至りであり、これ以上の大罪はない。譬えるにも譬える物がない。仏の神通変化の力によっても、どうしてこの罪を説き尽くせよう。菩提の智慧の力によっても、どうしてこの罪の大きさを計れるであろうか。それゆえ法華経譬喩品第三には「もしその罪を説くならば劫を窮めても尽きることがない」と述べているのである。文の意は、法華経を一度でもそむいた人の罪は、劫をつくしても説き尽くし難いということである。
 故に法華経に背く人は三世の諸仏の化導にももれ、恒沙のように数多い如来の法門にも捨てられ、暗い悪道から悪道に入って阿鼻大城の苦しみをどうしてまぬかれようか。誰か心ある人はこの長劫の悲みを恐れずにいようか。このことを法華経譬喩品第三には「経を読誦し書持する者を見て、軽賎憎嫉して恨み懐くならば、その人は命を終えて阿鼻獄に入るであろう」と説いている。文の意は法華経を読み持つ者をみて、軽んじ、賎しみ、憎み、嫉み、恨みをいだくならば、その人は命が終わって阿鼻大城に入るというのである。仏の金言であり、誰がこれを恐れずにいられようか。「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説く法華経方便品第二の明文をどうして疑うことができようか。ところが人は皆、経文に背き、世はことごとく法理に迷っている。あなたはどうして悪友の教えに随うことがあるだろうか。それゆえ「邪師の法を信じ受ける者を名けて毒を飲む者という」と天台大師は解釈されている。あなたはよくよくこのことを考え慎むべきである。

 つくづくと世間を見ると、法は貴いというけれども、その法を持つ人を万人が憎んでいる。あなたは、よくよく法の源に迷っている。どうしてかというと、一切の草木は大地から生ずる。このことから思うと、一切の仏法もまた人によって弘まるのである。これによって天台大師は「仏の在世でさえ、なお人によって法をあらわす。末代にあっても、どうして法は貴いけれども人は賎しいとはいえようか」と解釈されている。それゆえ持たれる法さえ第一ならば、持つ人もまた第一なのである。そうであれば、その人を毀るのはその法を毀ることである。その子を賎しむのは即ちその親を賎しむことである。これに照らせば、当世の人は言葉と心とすべて合わず、孝経でもってその親を打つような姿であることがわかる。仏菩薩が御照覧あそばされているのが恥ずかしくないのか。地獄の苦しみはまことに恐るべきでありくれぐれも慎しまなくてはならない。
 上根にくらべても卑下してはならない。下根を見捨てないのが仏の本懐だからである。下根に比べても高慢であってはならない。上根も救いに漏れるもことがある。心をつくして仏法を求めないからである。

 

第八章 我慢偏執を排し妙法帰命を諭す

 (およ)そ其の(さと)ゆかしけれども道絶たえ縁なきには、通ふ心もをろそ()かに、其の人恋しけれども(たの)めず(ちぎ)らぬには、待つ思ひもなを()ざり()なるやうに、彼の月卿(げっけい)雲客(うんかく)に勝れたる(りょう)(ぜん)(じょう)()の行きやす()きにも未だゆかず。「()(そく)是父(ぜぶ)」の(にゅう)(なん)の御すがた見奉るべきをも未だ見奉らず。是誠に(たもと)くた()し、胸をこが()(なげ)きならざらんや。暮れ行く空の雲の色、有明方(ありあけがた)の月の光までも心をもよほす思ひなり。事にふれ、をりに付けても後世(ごせ)を心にかけ、花の春、雪の(あした)も是を思ひ、風さは()ぎ、村雲まよふ(ゆうべ)にも忘るゝ(ひま)なかれ。出る息は入る息をまたず。何なる時節ありてか、(まい)自作是(じさぜ)(ねん)の悲願を忘れ、何なる月日ありてか、無一不成仏の御経を(たも)たざらん。昨日(きのう)今日(きょう)になり、去年の今年となる事も、是()する処の余命にはあらざるをや。総て過ぎにし方をかぞへて、
(★299㌻)
年の積るをば知るといへども、今行末(ゆくすえ)にをいて、一日片時も誰か命の数に入るべき。臨終(すで)に今にありとは知りながら、()慢偏(まんへん)執名(しゅうみょう)(もん)()(よう)(じゃく)して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下(むげ)にかひなし。さこそは皆成仏道の()(のり)とは云ひながら、此の人(いか)でか仏道にものうからざるべき。色なき人の袖にはそゞろに月のやどる事かは。又命已に一念にすぎざれば、仏は一念随(いちねんずい)()の功徳と説き給へり。若し是二念三念期すと云はゞ、平等大慧の本誓、(とん)(ぎょう)一乗皆成仏の法とは云はるべからず。流布の時は末世法滅に及び、機は五逆謗法をも納めたり。故に(とん)(しょう)()(だい)の心におきて()られて、狐疑(こぎ)(しゅう)(じゃく)の邪見に身を(まか)する事なかれ。生涯(いくば)くならず。思へば一夜の仮の宿を忘れて(いくば)くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に(さえぎ)り耳にみてり。雲とやなり、雨とやなりけん、昔の人は只名をのみきく。露とや消へ、煙とや登りけん、今の友も又みえず。我いつまでか三笠の雲と思ふべき。春の花の風に随ひ、秋の紅葉の時雨に染むる。是皆ながらへぬ世の中のためしなれば、法華経には「()は皆(ろう)()ならざること、水沫(すいまつ)泡焔(ほうえん)の如し」とすゝめたり。「以何(いが)(りょう)(しゅ)(じょう)(とく)(にゅう)()(じょう)(どう)」の()(こころ)のそこ、順縁逆縁の御ことのは、已に本懐なれば暫くも持つ者も又本意にかないぬ。又本意に叶はゞ仏の恩を報ずるなり。悲母(ひも)深重の経文心安ければ、唯我一人の御苦しみもかつ()がつ()やすみ給ふらん。釈迦一仏の悦び給ふのみならず、諸仏出世の本懐なれば、十方三世の諸仏も悦び給ふべし。「我即ち歓喜す、諸仏も亦然なり」と説かれたれば、仏悦び給ふのみならず、神も即ち随喜し給ふなるべし。伝教大師是を講じ給ひしかば、八幡大菩薩は紫の袈裟(けさ)を布施し、(くう)()上人是を読み給ひしかば、松尾の(だい)(みょう)(じん)は寒風をふせがせ給ふ。
   およそその里を懐かしく思っても、道も絶え、縁もなければ通う心もおろそかになり、その人を恋しく思って、もの人の心が頼みにならず、契り交わしたこともなければ、待つ思いもなおざりになるように、かの公卿や殿上人の宮殿よりも勝れて、しかも行きやすい霊山浄土にいまだ行かず、「我は即ち父である」と仰せられた仏の柔和な御姿を見奉るべきなのにいままで拝見しない。これはまことにを涙で袂を腐らせ、胸をこがすほどの嘆きではないか。
 暮れ行く空の雲の色や、明け方の次第に薄らいで行く月の光までも、心をたぎらせる思いがする。事にふれ、折につけても、後世を心にかけて、花の春・雪の朝にもこれを思い、風が騒ぎ、村雲の立ち迷う夕にも少しも忘れてはならない。出る息は入る息を待たないほど短いものである。いかなる時節にあっても、仏の毎自作是念の悲願を忘れ、いかなる月日にあっても無一不成仏の法華経を持たずにいられようか。昨日が今日になり、去年の今年となることも期待できない余命ではないか。すべて過ぎた歳月を数えて年の積もるのを知るけれども、今から行く末のことは、一日片時も誰が命ある者の数に入ると定められるであろうか。臨終はすでに今にありとは知りながら、我慢偏執・名聞利養にとらわれ、妙法を唱えないというのは、その志のほどはまったくいうに甲斐がないのである。そのような姿であっては、皆成仏道の法華法とはいえ、この人がどうして仏道を成就できようか。情愛のない人の袖には、みだりに月が宿ることはないであろう。また、命はまさしく一念の間に過ぎないから、仏は一念随喜の功徳を説かれたのである。もし、これが二念・三念を待つというならば、平等大慧の本誓・頓教一乗皆成仏の法とはいわれないのである。法華経は流布の時は末世、仏法も滅尽の時および、衆生の機根は五逆や謗法を納め入れている。ゆえに頓証菩提の心の指示にしたがって、狐疑・執著の邪見に身を任せてはならない。
 生涯はいくばくもない。思えば、この世は一夜の仮の宿であることを忘れて、どれほどの名利を得ようというのか。また得たとしてもこれは夢の中の栄えであって、珍しくもない楽しみである。ただ先の世の業因に任せて生きるがよい。世間の無常を悟ろうとすれば、眼をさえぎり耳に満ちるほど多い。昔の人はただ名を聞くのみで、雲となり雨となったのであろうか。今の友もまた見えない。露と消え煙となって空に昇ってしまったのであろうか。自分はいつまでも三笠の山にかかる雲のようにあると思っていられようか。春の花が風にしたがって散り、秋の紅葉が時雨に染まる。これは皆、生きながらえない世の中の実例であるから、法華経随喜功徳品第十八には「世の中の皆牢固でないことは、水の泡や火の焔のようである」と説かれている。
 「なんとしても、衆生を無上道に入らしめ、速やかに仏身を成就させたい」との御心の底、順縁・逆縁の者ともに救おうという御言葉は、まさに仏の本懐であるから、暫くも持つ者でもまた本意にかなうのである。また本意にかなうならば、仏の恩を報ずることになる。悲母のように慈悲深重の経文が心安めれば「唯我一人・能為救護」の御苦しみも、どうにか安まられるであろう。釈尊一仏が悦ばれるばかりでなく、法華経は諸仏出世の本懐であるから、十方三世の諸仏も悦ばれるであろう。「我即歓喜・諸仏亦然」と説かれているので、仏が悦ばれるだけでなく、仏の垂迹たる神もまた随喜されるのである。伝教大師が法華経を講義したときには、八幡大菩薩は紫の袈裟を大師に布施し、空也上人がこれを読んだ時には、松尾の大明神は寒風を防がれたのである。

 

第九章 末代流布の最上真実の秘法を示す

 されば「七難即滅七福即生」と祈らんにも此の御経第一なり。現世安穏と見えたればなり。他国侵逼難・自界叛逆の難の御()(とう)にも、此の妙典に過ぎたるはなし。「百由旬の内に諸の衰患(すいげん)無からしむべし」と説かれたればなり。    それゆえ「七難即滅七福即生」と祈るにも、この法華経が第一である。法華経薬草喩品第五に「現世安穏」と説かれているからである。他国侵逼の難・自界叛逆の難を防ぐための御祈祷にもこの法華経に過ぎた経典はない。法華経陀羅尼品第二十六に「百由旬の内に、諸の衰患無からしむべし」と説かれているからである。
 然るに当世の()(とう)はさかさまなり。先代流布の権教なり。末代流布の最上真実の秘法にあらざるなり。
(★300㌻)
譬へば去年の(こよみ)を用ゐ、(からす)()につかはんが如し。是(ひとえ)に権経の邪師を貴みて、未だ実教の明師に値はせ給はざる故なり。惜しいかな、文武の(べん)()があら玉、(いず)くにか納めけん。嬉しいかな、釈尊出世の(もとどり)の中の明珠、今度我が身に得たる事よ。十方諸仏の証誠としているがせならず。さこそは「一切世間には怨多く信じ難し」と知りながら、(いか)でか一分の疑心を残して、(けつ)(じょう)無有疑(むうぎ)の仏にならざらんや。
   しかるに、今の世で行なわれている御祈祷はさかさまである。正法・像法の時代に流布した権教であり、末代に流布すべき最上真実の秘法ではない。譬えば去年の暦を用い、烏を鵜のかわりに使うのと同じである。これはひとえに、権教の邪師を貴んでいまだ実教の明師に会われていない故である。惜しいことに文王・武王の時の名玉・卞和の粗玉は、どこに納めたのであろうか。実にうれしいことは、釈尊の出世の本懐たる転輪聖王の髻の中の明珠を、このたび我が身に得たことよ。
 このことは、十方の諸仏が証明したことであり、いいかげんな事柄ではないのである。さればこそ、法華経安楽行品第十四の「一切世間には、怨む者が多くて信じ難い」の文を知りながら、どうしてすこしでも疑いの心を残して「かならず成仏できる」と約束された仏に成らずにいられよう。

 

第十章 持妙法華の真実を明かす

 過去遠々(おんのん)の苦しみは、(いたずら)にのみこそうけ()()しか。などか(しばら)く不変常住の妙因をうへざらん。未来永々の楽しみはかつがつ心を養ふとも、()ゐてあながちに電光朝露の名利をば(むさぼ)るべからず。「三界は安きこと無し、(なお)火宅の如し」とは如来の教へ「所以(ゆえ)に諸法は幻の如く化の如し」とは菩薩の(ことば)なり。    過去遠々以来の苦しみは、ただいたずらに受けてきただけであった。どうして、しばらくでも不変常住の仏因を植えないでいられようか。未来永々にわたる楽しみは、今はわずかにしか心を養わないとしても、むやみに稲妻や朝霧のような名聞名利を貪るべきではない。「三界は安きところでなく、まさに火に焼かれる家のようなものである」とは仏の教えであり、「諸法は、幻化のようなものである」とは菩薩の言葉である。
 寂光の都ならずば、(いづ)くも皆苦なるべし。本覚の(すみか)を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世(げんせ)安穏(あんのん)後生(ごしょう)善処(ぜんしょ)」の妙法を(たも)つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引(ろういん)なるべけれ。(すべから)く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも(すす)めんのみこそ、今生人界の思出(おもいで)なるべき。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
 日蓮花押
   寂光の都でないなら、どこも皆苦の世界である。本覚の栖を離れて、どんな楽しみとなるだろうか。願くは「現世は安穏であり、後生は善処に生れる」と仰せの妙法を持つことのみが、ただ今生には真の名聞であり、後世には成仏の手引きとなるのである。すべて心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱え、他人をも勧めることが、今生に人界として生まれてきたことの思い出である。
 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
 日蓮花押