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(★293㌻) |
そもそも、まれに人間として生まれ、たまたま仏法を聞くことができた。ところが、仏の法に浅深があり、人の機根にも高下があるという。どのような法を修行すれば、すみやかに仏になれるのであろうか。願わくば、その道を聞きたいと思う。 答えて言う。家々に尊勝の親がおり、国々に高貴の主君がいる。その親を崇めるといっても、どうして国王に勝ることがあろうか。これと同じく、大乗と小乗、権教と実教との対立する家々の諍いのようなものであるが、釈尊一代の聖教の中では法華経は、すみやかに菩提を証得するための指南であり、ただちに菩提の道場に至る即身成仏の車輪だからである。 |
| 疑って云はく、人師は経論の心を得て釈を作る者なり。 (★294㌻) 法華経をうけたもたん事をねがひて、余経の一偈をもうけざれと見えたり。又云はく「 |
疑つて言う。人師とは経論の心を会得して釈をつくる人のことである。そうであれば、即ち各宗の人師が、めいめいに、それぞれに教門を設え、釈を作り、義を立て、菩提を証得菩する道を志している。どうしてそれが空しいことがあろうか。しかるに法華のみが独り勝れるというのは心が狭いのではないかと思われる。 答えて言う。法華経独り勝れているというのが心が狭いというのであれば、釈尊ほど心の狭い人は世にいないであろう。何と誤りのはなはだしいことか。しばらく一経・一流の釈を引いて、その迷いを悟らせよう。無量義経には「衆生の機根にあわせて種々に法を説いたが、それは仏の方便の力によるものであって、四十余年の間は未だ真実を顕さなかった」とある。この文を聞いて大荘厳等の八万人の菩薩は一同に「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎても、法華経以前の教えではついに無上菩提を成ずることはできない」と領解したのである。この文の意は華厳・阿含・方等・般若の四十余年の諸経にしたがって、いかに念仏を称え禅宗を持って仏道を願い無量無辺・不可思議・阿僧祇劫を過ぎたとしても無上菩提を成ずることはできないということである。 そればかりではなく、法華経方便品第二には「仏の方便の教えを久しい間説いた後に、かならず真実の教えを説あれるであろう」と説き、また「唯一乗の法のみ有り、二も無く亦三も無い」と説いて、この経だけが真実であるといっている。また法華経巻二の譬喩品第三には「唯我一人のみ能く一切衆生を救い護ることができる」と教え、「但だ楽って大乗経典を受持して、余経の一偈をも受けてはならない」と説かれている。文の意は「ただ我一人だけがよく衆生を救い護ることができる。 法華経を受け持つことをねがって、余経の一偈をも受け入れてはならない」ということである。また譬喩品に「若し人が信じないで此の経を毀謗すれば、則ち一切世間の仏種を断ずるであろう。乃至。その人は命終して阿鼻獄に入るであろう」とある。この文の意は、もしこの人がこの経を信じないでそむくならば、則ち一切世間の成仏の種子を断つものである。その人は命が終われば無間地獄に堕ちるであろうと説かれたのである。 これらの文をうけて天台大師は「『将に魔の仏となるにあらずや』との詞はまさしくこの文による」と判じたのである、ただ人師の釈ばかりを憑みにして、仏説によらなければ、どうして仏法という名を付けるべきであろうか。言語道断の次第である。これによって智証大師は授決集巻上に「『経に大乗・小乗の相違なく、理に偏円の差別がない』といって一切人師の言を用いるならば仏説は無用である」と釈している。天台大師は法華玄義巻十に「もし深い道理があり、また修多羅と合うものは収録してこれを用いよ。経典のなかに文が無く義の無い説は信受すべきでない」と判じている。同じく法華文義巻二には「文証のないものは、悉く邪見である」ともいっている。人師の説にのみ依る者はこれをどのように心得るのか。 |
| 問うて云はく、人師の釈はさも候べし。爾前の諸経に此の経第一とも説き、諸経の王とも (★295㌻) 法華経に始めて仏になる実の道を顕はし給へりと釈し給へり。 |
問うて言う。人師の釈はいかにもそのとおりであろう。しかし、爾前の諸経に「此の経第一」とも「諸経の王」とも宣べている。もしそうならば、仏説であっても用いてはならないであろうか。 答えて言う。たとい「此の経第一」とも「諸経の王」とも述べていようとも、これらは皆権教である。その言葉によってはならない。このことを仏は「了義経に依るべきであって不了義経に依ってはならない」と説き、妙楽大師は「たとい経があって『諸経の王』というとも、已今当説最為第一といわなければ、兼但対帯の義によって方便の経と知るべきである」と釈されている。この釈の意は「たとい経があって『諸経の王』というとも、その経よりも前に説いた経にも、後に説かれる経にも、この経は勝れているといわなければ、方便の経と知りなさい」というものである。ただ法華経のみが、仏の最後の極説である故に「已今当の経々の中で此の経が独り勝れている」と説かれているのである。それ故、法華玄義釈籤には「ただ法華経に至って、爾前教が方便であるとの意を説いて、今教の本意を顕した」といって、法華経において仏の本意も、教化の儀式も確定したと説いている。 これによって天台大師は「釈迦如来は成道して四十余年の間、未だ真実を顕さず、法華経で始めて真実を顕した」と述べている。この文の意は、如来が世に出られて四十余年の間は真実の法を顕さず、法華経で始めて仏になる真実の道を顕わされた、と釈されている。 |
| 問うて云はく、已今当の中に法華経勝れたりと云ふ事はさも候べし。但し (★296㌻) 未だ |
問うて言う。已今当の三説の中で法華経が最も勝れているということが、いかにもそのとおりであろう。但しある人師の「四十余年未顕真実というのは法華経によって仏になる声聞のための言葉であり、爾前の諸経で得道した菩薩のためには、未顕真実というべきではない」という義をどのように心得るべきであろうか。 答えて言う。「法華経は二乗のためにとかれた経であり、菩薩のためではない。ゆえに未顕真実ということは二乗に限るべきである」というのは徳一大師の義である。これは法相宗の人である。このことを伝教大師が「現在の麤食者の偽りの書物を数巻作って正法を謗り、人を謗っている。どうして地獄に堕ちずにいられようか」と破折されたので、徳一はこの言葉に責められて 舌が八つにさけ死んでいった。 しかし「未顕真実」とは二乗のためであるというのは、最も道理を得ている。そのゆえは釈尊の布教の根元の趣旨は、もとより二乗の得道のためである。釈尊一代の化儀・三周の巧みな説法も、ことごとく二乗を正意とされたものである。それゆえ華厳経には、地獄の衆生は仏になっても二乗は仏になることができないと嫌い、方等経典には、高い峯には蓮が生じないように、二乗は仏の種を焦った衆生であるといわれ、般若経には五逆罪の者は仏になるが、二乗は成仏が叶わないと捨てられている。このようなあわれな捨て人が仏になることをもって仏の本意とし、法華経の規模とするのである。 それゆえ、天台大師は、摩訶止観巻六下に「華厳経・大品般若経も二乗を治すことはできない。ただ法華経のみがよく無学の二乗に善根を生じさせ、仏道を成就させることができる。故に妙と称する。また一闡提にも心があるから、やはり仏になることができる。しかし二乗は智慧を滅するので、菩提心を生ずることができない。法華経はよくこれを治す。ゆえに妙と称するのである」と。この文の意はくわしくいうにおよばばい。まことに華厳・方等・大品般若等の法薬も、二乗の重病をいやさず、また三悪道の罪人をも菩薩であるとして、爾前の諸経に成仏を許しているが、二乗の成仏を許さないのである。 これによって妙楽大師は法華玄義釈籤巻二に「余趣の衆生を仏道に会入させることは諸経にも説かれているが、二乗についてはまったく説かれていない。ゆえに余趣を菩薩に合して、二乗に対して、その難き二乗の作仏を示して法華経の力用を説いたのである」と釈している。そればかりではなく「二乗の作仏は、一切衆生の成仏を顕す」と天台大師は判じられている。修羅が大海を渡るのをむずかしいとするだろうか。幼児が力士を投げることをどうしてたやすいといえようか。そうであるならば、則ち仏性の種子のあるものは仏になる、と爾前に説くけれども、いまだ焦種の者が仏になるとは説かれず、このよう重病をたやすく治すのは、独り法華の良薬だけである。 あなたがただ仏になろうと思うならば、慢心のはたほこを倒し、瞋りの杖を捨てて、ひとえに一仏乗の法華経に帰依すべきである。名聞名利は今生だけの飾りであり、我慢や偏執は後生の足かせである。まことに恥ずべべきであり、恐るべきことである。恐るべきことである。 |
| 問うて云はく、一を以て万を察する事なれば、あらあら法華のいはれを聞くに |
問うて言う。一をもって万を推察するのであるから、あらあら法華経が他経に勝れる趣旨を聞いて、耳目が初めて明らかになった。しかし法華経をどのように心得て修行することが、速やかに菩提の岸に至るのであろうか。伝え聞くところによると一念三千の法門は大空には智慧の日の光が輝いて曇ることがなく、一心三観の広大な池には、智水の水が濁ることのない人こそ、その修行に堪えられる機根であるという。ところが、私は奈良の都の修学に臂をくだくほど励むことがなかったので、瑜伽・唯識の法門にもくらい。また比叡山延暦寺の学文にも眼をさらさなかったから、摩訶止観や法華玄義の法門にも迷うばかりである。天台や法相の両宗については、鉢を頭にかぶって壁に向かっているのと同じである。そうかといえば法華経によって得道する機根にはすでにもれている。どうしたらよいのであろう。 答えて言う。智慧がすぐれておりたびたび精進して観法の修行をする人のみが法華経の機根であるといって、無智の人を妨げるのは今の世の学者の所行である。これはかえって愚癡・邪見の至りである。法華経は一切衆生皆成仏道の教えであるから、上根・上機の者は観念・観法もよいであろう。ただし下根・下機の者はただ信心が肝要である。故に法華経提婆達多品第十二には「浄心に信じ敬って疑惑を生じない者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちることなく、十方の仏前に生ずるであろう」と説かれているのである。なんとしても法華経を信じて、つぎの世に仏前にうまれることを期すべきである。 たとえば高い岸壁の下に人がいて登ることができないときは、また岸の上に人がいて繩をおろし「この繩にとりつけば、私が 岸の上に引いて登らせよう」というのに、引く人の力を疑い、繩の弱いのではないかと危ぶんで手をださず縄を取らないようなものである。どうして岸の上に登ることができようか。もしその人の言葉に随って手を差し出し縄をつかめば即ち登ることができるのである。 唯我一人・能為救護の仏の御力を疑い以信得入の法華経の教えの繩を危ぶんで決定無有疑の妙法を唱えなければ仏の力も及ばず、菩提の岸に登ることもむずかしいのである。不信は地獄に堕ちる根元である。故に法華経従地涌涌出品第十五には「疑いを生じて信じない者は即ち悪道に堕ちるのである」と説かれているのである。 |
| 受けがたき人身をうけ、 (★297㌻) 同じく信を取るならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の |
受けがたい人身をうけ、あいがたい仏法にあいながら、どうして一生を空しく過ごしてよいものであろうか。同じく仏法を信ずるならば、大小・権実とあるなかには、諸仏出世の本意であり衆生の成仏の直道である法華一乗をこそ信ずべきである。 持つところの法華経が諸経に勝れていれば、能く持つ人もまた諸人に勝れるのである。このことを法華経薬王菩薩本事品第二十三には「能く是の経を持つ者は、一切衆生の中でまた第一である」と説かれている。仏の金言は疑いないのである。ところが世間の人は、この道理を知らず、また見もしないで、名聞を求め、疑い深く、偏見に固執しているのは、地獄に堕ちるもとである。 ただ願うところは、法華経を持ち名を十方の諸仏の誓願の海に流し、誉れを三世の菩薩の慈悲の天に施すべきである。そうすれば、法華経を持つ人は、天竜等の八部衆や諸大菩薩を自分の眷属とする者である。そればかりでなく、因位にある凡夫の身の肉団に果位円満の仏眼をそなえ、有為の凡身に無為の聖衣を着たことになるから、三途にあっても恐れなく、八難所にあっても憂いはない。七方便の山の頂に登って九法界の迷いの雲を払い、無垢地の園に花は開き、法性の空に月は明らかとなるであろう。法華経如来神力品第二十一の「法華経を受持する人が、仏道を成就することは疑いない」との文は頼りになり、法華経譬喩品第三の「ただ我一人のみがよくこの三界の衆生を救護する」との仏説も疑いない。 一念信解の功徳は、五波羅蜜の修行を越えており、五十展転の随喜の功徳は、八十年の布施よりも勝れている。すみやかに菩提を証得する教えは、はるかにあらゆる経典に秀で顕本遠寿の説は、諸余の経典にはながく絶えてないのである。 このような次第で、八歳の竜女は大海から霊鷲山にきて即身成仏の経力を一瞬に示し、本化の上行菩薩は大地から涌出して仏の寿命が久遠であることをあらわした。まさしく法華経は言語で表現することのできない不可思議な経王であり、心の思慮分別の遠く及ばない妙法である。 |
| (★299㌻) 年の積るをば知るといへども、今 |
およそその里を懐かしく思っても、道も絶え、縁もなければ通う心もおろそかになり、その人を恋しく思って、もの人の心が頼みにならず、契り交わしたこともなければ、待つ思いもなおざりになるように、かの公卿や殿上人の宮殿よりも勝れて、しかも行きやすい霊山浄土にいまだ行かず、「我は即ち父である」と仰せられた仏の柔和な御姿を見奉るべきなのにいままで拝見しない。これはまことにを涙で袂を腐らせ、胸をこがすほどの嘆きではないか。 暮れ行く空の雲の色や、明け方の次第に薄らいで行く月の光までも、心をたぎらせる思いがする。事にふれ、折につけても、後世を心にかけて、花の春・雪の朝にもこれを思い、風が騒ぎ、村雲の立ち迷う夕にも少しも忘れてはならない。出る息は入る息を待たないほど短いものである。いかなる時節にあっても、仏の毎自作是念の悲願を忘れ、いかなる月日にあっても無一不成仏の法華経を持たずにいられようか。昨日が今日になり、去年の今年となることも期待できない余命ではないか。すべて過ぎた歳月を数えて年の積もるのを知るけれども、今から行く末のことは、一日片時も誰が命ある者の数に入ると定められるであろうか。臨終はすでに今にありとは知りながら、我慢偏執・名聞利養にとらわれ、妙法を唱えないというのは、その志のほどはまったくいうに甲斐がないのである。そのような姿であっては、皆成仏道の法華法とはいえ、この人がどうして仏道を成就できようか。情愛のない人の袖には、みだりに月が宿ることはないであろう。また、命はまさしく一念の間に過ぎないから、仏は一念随喜の功徳を説かれたのである。もし、これが二念・三念を待つというならば、平等大慧の本誓・頓教一乗皆成仏の法とはいわれないのである。法華経は流布の時は末世、仏法も滅尽の時および、衆生の機根は五逆や謗法を納め入れている。ゆえに頓証菩提の心の指示にしたがって、狐疑・執著の邪見に身を任せてはならない。 生涯はいくばくもない。思えば、この世は一夜の仮の宿であることを忘れて、どれほどの名利を得ようというのか。また得たとしてもこれは夢の中の栄えであって、珍しくもない楽しみである。ただ先の世の業因に任せて生きるがよい。世間の無常を悟ろうとすれば、眼をさえぎり耳に満ちるほど多い。昔の人はただ名を聞くのみで、雲となり雨となったのであろうか。今の友もまた見えない。露と消え煙となって空に昇ってしまったのであろうか。自分はいつまでも三笠の山にかかる雲のようにあると思っていられようか。春の花が風にしたがって散り、秋の紅葉が時雨に染まる。これは皆、生きながらえない世の中の実例であるから、法華経随喜功徳品第十八には「世の中の皆牢固でないことは、水の泡や火の焔のようである」と説かれている。 「なんとしても、衆生を無上道に入らしめ、速やかに仏身を成就させたい」との御心の底、順縁・逆縁の者ともに救おうという御言葉は、まさに仏の本懐であるから、暫くも持つ者でもまた本意にかなうのである。また本意にかなうならば、仏の恩を報ずることになる。悲母のように慈悲深重の経文が心安めれば「唯我一人・能為救護」の御苦しみも、どうにか安まられるであろう。釈尊一仏が悦ばれるばかりでなく、法華経は諸仏出世の本懐であるから、十方三世の諸仏も悦ばれるであろう。「我即歓喜・諸仏亦然」と説かれているので、仏が悦ばれるだけでなく、仏の垂迹たる神もまた随喜されるのである。伝教大師が法華経を講義したときには、八幡大菩薩は紫の袈裟を大師に布施し、空也上人がこれを読んだ時には、松尾の大明神は寒風を防がれたのである。 |
| されば「七難即滅七福即生」と祈らんにも此の御経第一なり。現世安穏と見えたればなり。他国侵逼難・自界叛逆の難の御 |
それゆえ「七難即滅七福即生」と祈るにも、この法華経が第一である。法華経薬草喩品第五に「現世安穏」と説かれているからである。他国侵逼の難・自界叛逆の難を防ぐための御祈祷にもこの法華経に過ぎた経典はない。法華経陀羅尼品第二十六に「百由旬の内に、諸の衰患無からしむべし」と説かれているからである。 | |
| 然るに当世の (★300㌻) 譬へば去年の |
しかるに、今の世で行なわれている御祈祷はさかさまである。正法・像法の時代に流布した権教であり、末代に流布すべき最上真実の秘法ではない。譬えば去年の暦を用い、烏を鵜のかわりに使うのと同じである。これはひとえに、権教の邪師を貴んでいまだ実教の明師に会われていない故である。惜しいことに文王・武王の時の名玉・卞和の粗玉は、どこに納めたのであろうか。実にうれしいことは、釈尊の出世の本懐たる転輪聖王の髻の中の明珠を、このたび我が身に得たことよ。 このことは、十方の諸仏が証明したことであり、いいかげんな事柄ではないのである。さればこそ、法華経安楽行品第十四の「一切世間には、怨む者が多くて信じ難い」の文を知りながら、どうしてすこしでも疑いの心を残して「かならず成仏できる」と約束された仏に成らずにいられよう。 |
| 過去 |
過去遠々以来の苦しみは、ただいたずらに受けてきただけであった。どうして、しばらくでも不変常住の仏因を植えないでいられようか。未来永々にわたる楽しみは、今はわずかにしか心を養わないとしても、むやみに稲妻や朝霧のような名聞名利を貪るべきではない。「三界は安きところでなく、まさに火に焼かれる家のようなものである」とは仏の教えであり、「諸法は、幻化のようなものである」とは菩薩の言葉である。 | |
| 寂光の都ならずば、 日蓮花押 |
寂光の都でないなら、どこも皆苦の世界である。本覚の栖を離れて、どんな楽しみとなるだろうか。願くは「現世は安穏であり、後生は善処に生れる」と仰せの妙法を持つことのみが、ただ今生には真の名聞であり、後世には成仏の手引きとなるのである。すべて心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱え、他人をも勧めることが、今生に人界として生まれてきたことの思い出である。 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 日蓮花押 |