四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳

別名『伊豆御勘気抄』

第一章 流罪について二つの大事を標示

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 (そもそも)此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり。一には大なる悦びあり。其の故は、此の世界を(しゃ)()と名づく、娑婆と申すは忍と申す事なり。故に仏をば能忍(のうにん)と名づけたてまつる。此娑婆の世界の内に百億の(しゅ)()(せん)、百億の日月、百億の四州あり。其の中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出でまします。此の日本国は其の仏の世に出でまします国よりは丑寅(うしとら)(すみ)にあたりたる小島なり。此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば、人の心もやはらかに、賢聖を()(にく)む事も候はず。此の国土は、十方の浄土にすてはてられて候十悪・
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五逆・()(ぼう)(けん)(しょう)・不孝父母・不敬沙門等の科の衆生が、三悪道に堕ちて無量劫を経て、還って此の世界に生まれて候が、先生の悪業の習気失せずして、やゝもすれば十悪・五逆を作り、賢聖をのり、父母に孝せず、沙門をも敬はず候なり。
 
 抑日蓮がこの伊東流罪の身となったことについて、二つの大事がある。
 その第一には大いなる悦びがある。そのゆえはこの世界を娑婆と名づける。娑婆というのは忍ぶということである。故に仏を能忍と名づけるのである。この娑婆世界の内には百億の須弥山と百億の日月と百億の四州とがあり、その中の中央の須弥山・日月・四州に、仏は出現されたのである。この日本の国はその仏が出現された国からみて丑寅の角にあたっている小島である。この娑婆世界以外の十方の国土は皆浄土であるから人の心も穏やかで賢人や聖人を罵たり憎悪することもない。
 しかしながら、この国土は十方の浄土から捨て果てられてしまった、十悪を犯した者・五逆を犯した者・賢聖を誹謗した者・父母に不孝をした者・僧侶を敬わない者などの悪科をなした衆生が、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて無量劫を経てから、かえって、この娑婆世界に生まれてきたが、前世の悪業の習気が消えないで、ややもすると十悪・五逆罪を作り賢聖を罵り、父母に孝行をせず、僧侶も敬わないのである。
 (あくぞう)・師子・悪牛・(あっ)()等の()便(だて)を以て害し奉らんとし、或は女人を(おか)すと云ひ、或は()(ひん)の者、或は殺生の者と云ひ、或は行き合ひ奉る時は(おもて)(おお)ふて(まなこ)に見奉らじとし、或は戸を閉じ窓を(ふさ)ぎ、或は国王大臣の諸人に向かっては、邪見の者なり、高き人を罵者(のるもの)なんど申せしなり。大集経・涅槃経等に見えたり。
 させる(とが)も仏にはおはしまさゞりしかども、(ただ)此の国のくせ()かた()()として、悪業の衆生が生まれ集りて候上、第六天の魔王が此の国の衆生を他の浄土へ出さじと、たばかりを成して、かく事にふれてひがめる事をなすなり。此のたばかりも詮ずる所は仏に法華経を説かせまいらせじ科と見えて候。其の故は魔王の習ひとして、三悪道の業を作る者をば悦び、三善道(さんぜんどう)の業を作る者をばなげ()く。又三善道の業を作る者をばいたうなげかず、三乗とならんとする者をばいたうなげく。又、三乗となる者をばいたうなげかず、仏となる業をなす者をば(あなが)ちになげき、事にふれて(さわ)りをなす。法華経は一文一句なれども耳にふるゝ者は既に仏になるべきと思ひて、いたう第六天の魔王もなげき思ふ故に()便(だて)をまはして()(なん)をなし、経を信ずる心をすてしめんとたばかる。
   故に釈迦如来が世に出現されたところ、ある者は毒薬を食物のなかにまぜて奉ったり、ある者は刀杖・酒で酔った狂暴な象・人を食う師子・獰猛な牛・人を害する狂犬などの手段を使って仏を害そうとし、またある者は瞿曇は女人を犯すといい、ある者は身分の卑しい者といい、ある者は瞿曇沙門は殺生した者であるといい、ある者は仏に行き合うと顔を覆って見まいとしたり、ある者は門戸を閉じ窓を塞いだり、ある者は国王・大臣など諸人に向かっては瞿曇は邪見の者であり、高貴な人を罵る者であるなどといったのである。これらのことは大集経や涅槃経などに見えている。
 これという失も仏にはあるわけはなかったけれども、ただ、この国の悪癖や片輪として、悪業を持った衆生が生まれ集まったうえに、第六天の魔王がこの世界の衆生を他の浄土へ出すまいと謀をなして、このように、事にふれては、非道なことをするのである。
 この謀も詮ずるところは仏に法華経を説かせまいとの料簡と見える。その理由は第六天の魔王の習として三悪道の業を作る者を悦び、修羅・人・天の三乗になろうとする者を大変に嘆く。だがまた三乗となる者はそれほど嘆かず、仏となる業を作る者を非常に嘆き、事にふれてその妨害をなすのである。法華経は一文・一句であっても、それを聞く者は既に仏になるであろうと思って、大変に第六天の魔王も嘆き思うゆえに、方法をめぐらして、種々の難をなし、法華経を信ずる心を捨てさせようと企むのである。

 

第二章 流罪と仏記との合致を挙げる

 (しか)るに仏の在世の時は(じょく)()なりといへども、()(じょく)の始めたりし上、仏の御力をも恐れ、人の(とん)(じん)()邪見(じゃけん)も強盛ならざりし時だにも、(ちく)
(じょう)()(どう)
は神通第一の目連尊者(もくれんそんじゃ)を殺し、()(じゃ)()(おう)は悪象を(はな)ちて三界の独尊ををどし奉り、提婆達多は証果の阿羅(あら)漢蓮(かんれん)華比丘尼(げびくに)を害し、瞿伽利(くがり)尊者(そんじゃ)は智慧第一の舎利弗に悪名を立てき。(いか)(いわ)んや世(ようや)く五濁の(さか)んになりて候をや。況んや世末代に入りて法華経をかりそめにも信ぜん者の人にそね()ねた()まれん事はおびたゞしかるべきか。故に法華経に云はく「如来の現在にすら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」云云。始めに此
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の文を見候ひし時は、さしもやと思ひ候ひしに、今こそ仏の御言は(たが)はざりけるものかなと、(こと)に身に当たって思ひ知られて候へ。
   しかるに仏在世のときは、濁世とはいえ五濁のはじめであった上に、魔は仏の力を恐れ、衆生の貪・瞋・癡・邪見という生命の濁りもさほど強盛ではない時であった。それでも竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は狂暴な象を放って三界の独尊である釈迦如来を威し奉り、また提婆達多は声聞の証果を得た阿羅漢たる蓮華比丘尼を殺害し、瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗の悪口をいいたてた。世が次第に五濁の盛りになった仏滅後の世においてはそれ以上であるのはいうまでもない。ましてや世は末法に入った今日、法華経をかりそめにも信ずる者が人に嫉まれ、妬まれることは非常におびただしいであろう。故に法華経の法師品に「如来の現在ですらなお怨嫉が多い。ましてや仏の滅後においては、これより一層多いことはいうまでもない」と述べている。初めにこの経文を見たときには、それほどでもあるまいと思っていたが、流罪された今こそ、仏の言葉は、やはり間違っていなかったと、とくに身に当たって思い知ったのである。
 日蓮は身に(かい)(ぎょう)なく心に三毒を離れざれども、此の御経を若しや我も信を取り、人にも縁を結ばしむるかと思ひて随分世間の事おだやかならんと思ひき。世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依(きえ)をうけ、(ぎょ)(ちょう)を服する僧もさてこそ候か。日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず、只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧(ぼんそう)の名四海に満ち、(ろう)()をも殺さゞれども悪名一天に(はびこ)れり。恐らくは在世に釈尊を(もろもろ)の外道が(そし)り奉りしに似たり。是(ひとえ)に法華経を信ずる事の、()人よりも少し経文の如く信をもむけたる故に、悪鬼其の身に入ってそね()みをなすかとをぼ()へ候へば、是程の()(せん)無智無(むちむ)(かい)の者の、二千余年已前に説かれて候法華経の文にのせられて、()(なん)に値ふべしと仏(しる)しをかれまいらせて候事のうれしさ、申し尽くし難く候。    およそ日蓮は身に戒を行ずることもなく、心に貧・瞋・癡の三毒を離れてはいないが、この法華経を多分自らも信じ、人にも縁を結ばせることになると思って、正しいことをやっているのであるから世間の自分に対する扱いもかなり穏やかであろうと思っていた。いまは世が末になってしまったので、妻子を持っている比丘も人の帰依を受け、魚や鳥を食べる僧でも帰依を受けるのが当たり前となっているではないか。ところが日蓮はそうした妻子を持たず、魚や鳥をも食べず、ただ法華経を弘めようとしているだけで、それを失にされて、妻子を持たずして犯僧の名が国中に満ち、螻や蟻さえも殺さないのに悪名は天下にはびこってしまった。恐らくは在世に釈尊を諸の外道が毀ったことに似ている。これは偏に法華経を信ずることが、人よりも多少経文通りに正しく信を向けたゆえに悪鬼が世間の身に入って、嫉妬するのであるかと思われる。そう考えればこれはどの卑しく無智・無戒の僧である自分のことが二千余年も以前に説かれた法華経の文に載せられ、法華経の行者は必ず留難に値うであろうと仏が記し遺されたことの嬉しさはいい尽くし難いことである。 

 

第三章 法華経の行者の立証を悦ぶ

 此の身に学文つかまつりし事、やうやく二十四五年にまかりなるなり。法華経を(こと)に信じまいらせ候ひし事は、わづかに此の六七年よりこのかたなり。又信じて候ひしかども()(たい)の身たる上、或は学文と云ひ、或は世間の事に()えられて、一日わづかに一巻・一品(いっぽん)・題目(ばか)りなり。去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。其の故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住(ぎょうじゅう)坐臥(さが)に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是程の悦びは何事か候べき。
   この身に仏法を学ぶこと漸く二十四・五年になる。そのうちでも法華経を信じまいらせたのはわずかにこの六・七年以降のことである。また信じてはいたけれども懈怠の身である上に、あるいは研究のことやあるいは世間の事に妨げられて法華経に打ち込むことはわずかに一日にわずかに一巻・一品・題目ばかりであった。だが去年弘長元年五月十二日の伊豆流罪の日から今年の正月十六日に到るまでの二百四十余日の間は、昼夜ひまなく法華経を修行していると確信している。そのゆえは法華経のゆえに、このような流罪の身となったのであるから、これこそ行住坐臥に法華経を身で読み、行じていりことになったのである。人間世界に生を受けて、これはどの悦びはほかにあるであろうか。
 凡夫の習ひ我とはげみて、()(だい)(しん)()こして後世を願ふといへども、自ら思ひ出だし十二時の間に一時二時こそははげみ候へ。是は思ひ出ださぬにも御経をよみ、読まざるにも法華経を行ずるにて候か。()(りょう)(こう)の間六道()(しょう)(りん)()し候ひけるには、或は謀叛をおこし、強盗(ごうとう)()(うち)等の罪にてこそ国主より(いましめ)をも(こうむ)り流罪死罪にも行なはれ候らめ。是は法華経を弘むるかと思ふ心の強盛なりしに依って、悪業の衆生に讒言(ざんげん)せられて、かゝる身になりて候へば、定めて()
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(しょう)の勤めにはなりなんと覚え候。是程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の()(きょう)(しゃ)は、末代には有りがたくこそ候らめ。
   凡夫の習いとして、普通の人は、自ら励んで菩提心を発して、後生を願うといっても、自ら思ひ出して一日のうちには一時間か二時間ぐらい励むにすぎないであろう。だが日蓮は、思い出さなくても法華経を読み、口に読まなくても法華経を行じていることになるのである。考えてみれば過去無量劫の間・六道・四生を輪回していた時には、あるいは謀叛を起こし・あるときは強盗・夜打ちなどの罪でこそ国主から刑罰を受け、流罪・死罪に処せられたこともあろう。ところがこのたびの処刑は法華経を弘めようと思う心が強盛であったことによって、悪業の衆生に讒言せれて、このような流罪の身となったのであるから、必ず後生の成道の勤めになるだろうと確信する。これはどの作為はない。昼夜十二時休むことなく、法華経を行じている持経者は末代にはほかに絶対にないことではないか。

 

第四章 悪逆の国主に約して知恩を述べる

 又止事(やんごと)なくめでたき事(はべ)り。無量劫の間六道に(めぐ)り候ひけるには、多くの国主に生まれ()ひ奉りて、或は(ちょう)(あい)の大臣・関白等ともなり候ひけん。()(しか)らば国を給はり、財宝官禄(かんろく)の恩を(こうむ)りけるか。法華経流布の国主に値ひ奉り、其の国にて法華経の御名を聞いて修行し、是を行じて讒言を蒙り、流罪に行なはれまいらせて候国主には未だ値ひまいらせ候はぬか。法華経に云はく「是の法華経は無量の国中に於て乃至(みょう)()をも聞くことを得べからず。(いか)(いわ)んや見ることを得て(じゅ)()読誦(どくじゅ)せんをや」云云。されば此の讒言の人、国主こそ我が身には恩深き人にはをわしまし候らめ。    また、各別に悦しいことがある。それは無量劫の間、六道に輪廻してきた間には、多くの国主に生まれ値い、あるいは国王に寵愛された大臣や関白にもなったであろう。もしそうであれば領国を賜わり財宝や官禄の恩を受けたことであろう。だが法華経流布の国主に値い、その国において法華経の御名を聞いて修行し、法華経を行じている人に讒言され、流罪に処してくれた国主には、いまだ値ったことはなかったのである。法華経安楽行品には「この法華経は無量の国中において、その名字を聞くことができない。ましてや見ることを得て受持し読誦することのできないのはいうまでもない」と述べられている。それゆえ、この讒言の人や国主こそ、わが身にとっては法華経を身読させてくれた恩の深い人であるといえよう。

 

第五章 四恩を示し真実の報恩を述べる

 仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か。四恩とは(しん)()(かん)(ぎょう)に云はく、一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生()(へん)誓願(せいがん)()の願を()こし難し。又悪人無くして菩薩に()(なん)をなさずば、いかでか功徳をば増長せしめ候べき。二には父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり。其の中に或は殺盗(せっとう)悪律(あくりく)()・謗法の家に生まれぬれば、我と其の(とが)(おか)さゞれども其の(ごう)(じょう)(じゅ)す。然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり。梵天(ぼんてん)(たい)(しゃく)・四大天王・転輪(てんりん)(じょう)(おう)の家に生まれて、三界四天をゆづられて人天四衆に()(ぎょう)せられんよりも、恩重きは今の(それがし)が父母なるか。三には国主の恩、天の三光(さんこう)に身をあたゝめ、地の()(こく)(たましい)を養ふこと、皆是国王の恩なり。其の上、今度(このたび)法華経を信じ、今度生死を離るべき国主に値ひ奉れり。(いか)でか少分の(あだ)に依っておろかに思ひ奉るべきや。四には三宝(さんぽう)の恩、釈迦如来無量劫の間菩薩の行を立て給ひし時、一切の福徳を集めて六十四分と成して、功徳を身に得給へり。其の一分をば我が身に用ひ給ふ。今六十三分をば此の世界に留め置いて、()(じょく)雑乱(ぞうらん)の時、非法の(さか)んならん時、謗法の者国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光勢力減ぜん
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時、日月光を失ひ、(てん)(りゅう)雨をくださず、地神地味(ちみ)を減ぜん時、草木(こん)(きゅう)枝葉華果(けか)薬等の(しち)()も失はん時、十善の国王も貪瞋(とんじん)()をまし、父母六親に孝せずしたしからざらん時、我が弟子、無智無戒にして(かみ)ばかりを()りて守護神にも捨てられて、(かつ)(みょう)のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のさゝへとせんと誓ひ給へり。又果地(かじ)の三分の功徳、二分をば我が身に用ひ給ひ、仏の寿命百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ恩をば四大海の水を(すずり)の水とし、一切の草木を焼いて墨となして一切のけだものゝ毛を筆とし、十方世界の大地を紙と定めて(しる)し置くとも(いか)でか仏の恩を報じ奉るべき。
   仏法を習う身としては必ず四恩を報ずるのが道理である。四恩とは心地観経によれば、一には一切衆生の恩である。一切衆生いなければ菩薩の四弘誓願の一つである衆生無辺誓願度の願いを発すことは難しい。また正法誹謗の悪人がいなくて菩薩に留難を加えないならば、どうして功徳善根を増していくことができよう。
 二には父母の恩である。われらが六道に生まれるためには必ず父母がある。そのなかにおいて、殺生や盗みを犯した家、畜類の屠殺を職業とする家、謗法の家等に生まれたならば、自分でそれらの罪を犯さなくとも、その宿縁によって、悪業を作ってしまう。しかるに、今生の父母は私を産んで法華経を信ずる身としてくれたのである。故に梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生まれて欲界・色界・無色界の三界や四天下をゆずられて、人界・天界の四衆に鄭重に敬われるよりもさらに恩の重いのは、現在の私の父母である。
 三には国王の恩である。天に輝く日・月・星の三光によってわが身を暖め、大地に育つ米・麦・粟・黍・豆の五穀で生命を養っていくことができるのは皆これ国王の恩による。そのうえ今度法華経を信じ、このたび生死の具縛を離れることのできる善知識の国主に値えたのである。どうして少分の怨によっておろそかに思うことができようか。
 四には仏・法・僧の三宝の恩である。はじめに仏の恩を述べれば、釈迦如来は無量劫の間、菩薩の修行を立て給うときに、その修行によっていっさいの福徳を集めて、これを六十四に分けて功徳を身に得られたのである。だがそのうち一分だけを自分のために用いられ、今残りの六十三分をこの娑婆世界に留め遺して、末法の五濁雑乱のとき、非法が盛んになるであろうとき、謗法の者が国中に充満するとき、日や月は光を失い、天竜は雨を降らさず、地神は大地の養分を滅するとき、草木の根・茎・枝・葉・華・菓・薬等の七つの味もなくなるとき、過去世に十善戒を持った果報で今生に国王と生まれたその国王までもが貪瞋癡の三毒を増し、衆生は父母.孝を尽くさず六親が互いに不和になるとき、そうしたなかで仏の弟子が無智で無戒のまま髪を剃り、形式だけの出家となったために守護の諸天善神にも捨てられて、生命をつないでいく手段のない僧や僧尼に対して、その六十三分の福徳によって、かれらの命を支えようと誓われたのである。また仏は、成道によって得た果徳の寿命を三つに分け、その功徳の三分の二を自身のために用いられ、本来仏の寿命は百二十歳までこの世にいられるところであったが、八十歳で入滅し、残るところの四十年の寿命を留め置いて、われらに与えられたのである。したがってその恩というものは四大海の水を硯の水として、一切の草木を焼いて墨を作り、いっさいのけものの毛を集めて筆とし、十方世界の大地を紙として書き残しても、どうして仏の恩に報いることができようか。
 法の恩を申さば 法は諸仏の師なり。諸仏の貴き事は法に依る。されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし。次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬へば(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大(とう)(みょう)(めっ)せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。    法の恩を述べるならば、法はいっさいの諸仏の本師である。諸仏が貴いことは法によるのである。それゆえに仏の恩に報いようと思う人は法の恩を報ずべきである。次に僧の恩についていえば、仏宝・法宝の二宝は必ず僧によって、後世に伝えられるのである。譬えば薪がなければ火はあり得ないし、大地が無ければ草木は生えることができない。仏法があっても、真実の僧がいて習い伝えなければ正法・像法・二千年を過ぎて末法へも伝わるということはない。故に仏は大集経に「五箇の五百歳の後の末法に無智無戒の僧に対して罪があるといって、その僧を悩ますならば、この人は仏法の大燈明である正法を滅ぼすと思いなさい」と説かれている。従って真実の僧の恩を報ずるのは実に難しい。 
されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童(せっせんどう)()(じょう)(たい)()(さつ)薬王大(やくおうだい)()()(みょう)(おう)等、此等は皆我が身を鬼のうち()がひ()となし、身の血髄(けつずい)をうり、(ひじ)をたき、(こうべ)を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を(こうむ)りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。然るに(しん)()(かん)(きょう)梵網(ぼんもう)(きょう)等には仏法を学し円頓(えんどん)の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。    それゆえなおのこと三宝の恩を報じなさい。昔の聖人には雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王などという人々がいるが、これらの人は皆、わが身を鬼神の餌食とし、身の血液と骨髄を婆羅門に与え、臂を燃やして供養し、頭を捨てたのである。しかるに、末代の凡夫は三宝の恩を蒙っているのにもかかわらず三宝の恩を報じていいない。それでは、どうして仏道を成ずることができようか。心地観経や梵網経等には「仏法を学び、大乗円頓の戒を受ける人は必ず四恩を報じなさい」と説かれている。
 (それがし)愚癡(ぐち)の凡夫血肉の身なり。三惑(さんなく)一分も断ぜず。(ただ)法華経の故に罵詈毀(めりき)(ぼう)せられて(とう)(じょう)を加へられ、流罪せられたるを以て、大聖の(ひじ)を焼き、(ずい)をくだき、頭をはねられたるになぞ()らへんと思ふ。是一の悦びなり。    日蓮は愚癡の凡夫で人と変わらぬ血肉の身である。見思・塵沙・無明の三惑の一分も断じていないが、ただ法華経を弘めるゆえに、罵詈・毀謗され、刀杖を加えられ、流罪されたことをもって、昔の大聖が臂を焼き髄をくだき頭をはねられたことに、なぞらえようと思う。これが第一の悦びとなるのである。

第六章 大慈悲に立脚し謗法の堕獄を歎く

 第二に大なる(なげ)きと申すは、法華経第四に云はく「()し悪人有って不善の心を以て、一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵(きめ)せん、其の罪尚軽し。若し人一つの悪言を以て在家出家の法華経を読誦(どくじゅ)する者を毀呰(きし)せん其
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の罪甚だ重し」等云云。此等の経文を見るに、信心を起こし、身より汗を流し、両眼より涙を流す事雨の如し。我一人此の国に生まれて多くの人をして一生の業を造らしむる事を歎く。彼の不軽菩薩を(ちょう)(ちゃく)せし人現身に(かい)()の心を起こせしだにも、猶罪消え難くして千劫(せんごう)阿鼻地(あびじ)(ごく)()ちぬ。今我に(あだ)を結べる(やから)は未だ一分も(くゆ)る心もおこさず。
   流罪の身になったことについて、第二に大いなる歎きがある。というのは、法華経第四の巻・法師品第十に「もし悪人がいて、邪悪な心をもって、一劫の間、現実に仏前において、つねに仏を毀り罵しったとしてもその罪はなお軽い。もし人がただ一つの悪言であっても、在家・出家の法華経を読誦する者を毀ったならば、その罪は甚だ重いのである」等と説いている。わが身にあてて、これらの経文を拝見するとき、ますます信心を起こし、身より汗を流し、両眼より涙を流すことは雨のようである。
 そのわけは、日蓮一人がこの日本国へ法華経の行者として生まれてきたために、多くの人々へ一生の悪業を造らせてしまうことを歎くのである。彼の不軽菩薩を打ちたたいた人々は、その生きている間に悔い改める心を起こしてさえも、なおその罪が消え難くて千劫という長い間阿鼻地獄に堕ちてしまったのである。ところが今、日蓮に怨をなした徒輩はいまだに少しも悔いる心も起こさない。
 是体(これてい)の人の受くる業報を大集経に説いて云はく「若し人あって万億の仏の所にして仏身より血を出ださん。意に於て()(かん)。此の人の罪をうる事(むし)ろ多しとせんや否や。大梵王言(だいぼんのうもう)さく、若し人(ただ)一仏の身より血を出ださん、()(けん)の罪尚多し。無量にして(さん)をおきても数をしらず、阿鼻(あび)(だい)()(ごく)の中に()ちん。(いか)(いわ)んや万億(まんのく)の仏身より血を出ださん者を見んをや。(つい)によく広く彼の人の罪業果報を説く事ある事なからん。但し如来をば除き奉る。仏の言はく、大梵王、若し我が為に(かみ)をそり、袈裟をかけ、片時も禁戒(きんかい)をうけず、欠犯(けっぱん)をうけん者を、なやまし、()り、杖をもて打ちなんどする事有らば、罪をうる事彼よりは多し」

  弘長二年壬戌正月十六日    日蓮花押

 工藤左近尉殿

   こうした人の受ける業報を大集経に説いていうには「仏が問うに『もし人がいて千万億の仏の所で仏の身より血を出そうとしたならばどうなるか。またこの人の受ける罪は多いかどうか』と。大梵王が仏に申すには、『もし人があって、ただ一人の仏の身から血を出しただけでも無間地獄に堕ちて沢山の劫を経なければならない。その罪は計算機をもちいても数えることができないほどの無量劫の間、必ず阿鼻大地獄のなかに堕ちるであろう。まして万億の仏の身体から血を出だした者においては、それよりもはるかに罪が重いのである。それは、仏を除いては誰人も、その人の罪業と果報をことごとく説き尽くせる人はいないであろう。』と。仏のいわく『大梵王、もしわたしがために、髪を剃り、袈裟をかけている者ならば、片時も禁戒を受けず無戒であっても、その者を悩まし、ののしり、杖で打ったりすることがあれば、迫害を加える者が罪を受けることは、万億の仏の身より血を出す者よりも多いのである』」と。
  弘長二年壬戌正月十六日    日蓮花押
 工藤左近尉殿