作詩 サムエル・ウルマン
(1840/4/13~1924/3/21)
年次 明治16年(1908年)
翻訳 岡田義夫
その周辺と散歩道
1.「青春」とマッカーサー
昭和17(1942)年5月、フィリッピンにおける、パターン半島の攻防戦で、コレヒドール要塞を制圧した日本軍によって、もぬけの殻となった地下司令部のマ元帥居室の壁にかけてあった「青春の詩」が発見された。
日本に持ち帰り翻訳されたものがこの格調高い一篇の詩文であって、マ元帥がこれを「座右の銘」として掲げていたか、あるいは、彼自身の作かもしれないと伝えられていた。
彼は一時、緒戦における、日本軍の猛攻に遭い、敗北と言う失意のドン底にあって、どれ程、この詩文に触れ、自らを励まし、また、必死で反撃を期していたのであった。そうして、数年を出でずして、フィリッピン国民に対する(メッセージ)、かの有名な「I
shall return」の名言通り、マニラを奪還し、やがて、本土上陸、占領実現への過程は史実の示すところであります。
彼は、退役後、ある企業の顧問となり、思慮深い演説家となった。1955年、75歳の誕生日に、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルでアメリカ連隊の聴衆を前に行った演説は、後に「話し方と効果において最も優れた演説の一つ」と言われるようになった。彼の伝記によれば、最も注目を集め、かつ、コメントが多かった演説の部分は、彼が「青春」の詩を紹介した次のくだりであった。「殆んど知られていない短いエッセイで、私がペンを取ったと思っている人もいるが、南部のビジネスと地域の指導者であった故サムエル・ウルマンが書いたものである」と。その講演の中で彼は、「自分は75歳であっても未だ若い、何故なら<青春とは、人生の一期間では全くなく心の持ち方である>と信じているからだ」と述べた。
彼は、それ以前にも、他の講演や晩餐会においてウルマンの詩を引用したが、1955年の演説は多くの新聞や雑誌で報ぜられ、それらの大半は演説のなかでのウルマンの作品の一部をとりあげていた。後日、1964年、マ元帥が死の病床にある時、新聞の記事は、彼の人生哲学と生きる意思を説明するために再び「青春」の一部を掲げた。彼の75歳の誕生日と彼の死にまつわる報道は米国でも日本でもウルマンの詩文に対する関心を復活させ、今日に至る日本での浸透に大きく貢献することに成る。
そして、更に、この浸透による影響は、日本人が彼に抱いていた尊敬心によってより増幅されて行った。1945年9月、マッカーサー元帥は、占領下日本の総司令官として日本に来ていた時、ウルマンの詩を彼がマニラの司令部の壁に掲げたのと同じように東京の司令部の彼の部屋に掲げた。
当時、マ司令部では、日本の戦後復興に関する情報蒐集のため、限られた小数の企業指導者層を招き接触する機会を設けていた。彼の居室の壁に掲げられた「青春」も彼らの見聞するところとなり、こうして彼我の交流の中で、口伝手で一般に開放され伝播する契機ともなった。
この詩文は、初め「詠み人知らず」で、青春だけが独り歩きする状態で広められて来た。なかんずく、企業トップ、乃至は、管理層に感動を呼び、そうせずにはおられなかった衝動から、この詩より受ける共有の波動が連鎖して感動の普及をみた。今や日本人の持つ共通の地下水としての共感が根強く定着しつつあります。
2.「青春」と松下幸之助
松下グループの創始者、松下相談役の回顧談として、92歳時のそれによれば、70歳で、松下グループのパナソニック部門を設立した時、彼は、ビジネスを拡大するには歳をとりすぎたと考えた。松下は、新しい起業が年齢上の衰えつつある心理的・肉体的なエネルギーにとってあまりにも危険が多すぎると恐れたのだった。その頃、彼は、偶々、「青春」に出会う。そして、詩詞の一部を記憶して自らを奮い立たせ、かつ、他の人々を励ますために、極めて広範囲にわたり、ビジネスや社交の席上でその詩の一部をスピーチに用い、その引用を繰り返す事に成る。
彼は、「青春」の言葉の中に、自分のビジネスを構築し続けるための情熱とエネルギーの再生を発見していたからであった。また、彼は、「20歳代の青年に負けないようなエネルギーや、アイデアをお持ちですが、その秘密は何でしょうか」という問いに対して、「私は、心の中に青春を持っていますから・・・」と。また、「青春とは、心の若さである。信念と希望にあふれ、勇気にみちて、日々新たな活動を続ける限り、青春は永遠にその人のものである」と応えている。
戦後日本の代表的な産業人として94歳で生涯を終えたとき、億万長者の松下は、日常、人々に「もうかりまっか」という言葉を挨拶替わりにしていたと報道されていた。しかし、彼は、既に、「青春」の素朴な<メッセージ>のなかに精神的・心的な復活を如実に見い出していたのである。晩年に、彼は、「青春」にまつわる記念式典に一編の祝辞を送付した。家族が代読したその末尾に、「ウルマンの詩は私の想いを満たした」と結ばれていた。「青春」から発信する霊感<美と喜悦・勇気と壮大・偉力>を自身に体現した彼の、「青春」の美しい眼差しに向き会った、素朴なこの結びの一言のはかりしれない重さに、会場は、一瞬の静寂を経て、異常な高揚をみせ、全体を劇的な感動の渦に巻き込んだことは言うまでもない。
3.幻の詩人、サムエル・ウルマン自身
「私たち人間は、だれでも個人として生活をいとなむだけでなく、意識するとしないにかかわらず、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。(トーマス・マン「魔の山」)」したがって、時代の精神がこれらの詩の中に現れるのは必然である。
彼の人生は、多くの点で成功の意味を定義し直した。故郷をユダヤ人である故に離れ、南北戦争では負ける側に立って戦い、その兵役のために聴力の一部を永久に失った。最後の4半世紀の人生は、妻の親しみと愛なしに過ごした。
ウルマンは、事業の成功、財産に無縁であった。生涯現役ではなかった。挫折感、屈折、鬱屈、諦めに取り囲まれるはずの環境に生きた。しかしながら、ウルマンは、彼の人生が失望によって制服される事を拒否し自己憐憫と厭世主義を克服した。
「青春」には、挫折や屈折の何れもみあたらない。78歳と言う高齢でこのようなみずみずしい詩文を創み出す心の若さには全く驚嘆の外はない。しかしながら、所詮、「青春」の本質は、志高く奉仕精神に満ち、楽観的だった作者の84年にわたる生涯から自然に生まれ出たものである。
ウルマンの「詞華集」の巻頭には、ホィットマンの詩から「壮麗に昇りゆく老年よ」という一節が引用されている。この詩は「悦ばしいかな、言いようのない恵み、死する日のおとずれ」と続く。自身の挑戦期間が短いことを身ら知っていたからこそ「青春」は明るい。そして、そのようなウルマンを何よりも支えたのは唯一神への揺るぎないユダヤ人としての信仰「Faith」である。畢竟するところ、「青春」は、ウルマンの青春讃歌であり、共に、老年讃歌、信仰讃歌なのである。
マ元帥、松下相談役、共に当代の傑出した人物と、「青春」との出会い、かつ、幻の詩人と評された、ウルマンの実像を垣間見ながら、これらの関わりを通じて、先人の人物像を追うとき、三者三様の個を超え、しかも、共通項で結ばれた夫々の生涯は、歴史上の好ましいよき「縁起絵巻」でもあった。
私は、ここに、「青春」の美しさと潔いメッセージに、そこに刻印された人生の喜びと希望、それこそ、他人と分かち合う価値あるものであると覚り、新しい出会いを機縁に、「青春の腑」を提示させて頂く次第であります。
啓上
平成9年1月4日(1997/01/04)
荒木 熙栄
(参考)
Samuel Ullman Museum - アラバマ大学バーミングハム校ウェブサイト内
マーガレットE・アームブレスター著 作山宗久訳、「サムエル・ウルマンの生涯とその遺産」(産能大学出版部、1993年10月20日)
宮澤次郎、感動の詩賦「青春」(竹井出版、昭和63年1月30日[1988/01/30])