大白法・令和4年5月1日刊(第1076)より転載 日蓮正宗の基礎を学ぼう(153) 日蓮大聖人の御生涯㊴

本門弘通の大導師 日興上人の身延離山

 大聖人の御葬儀をとどこおりなく奉修した日興上人は、弘安五(1282)年十月二十五日、大聖人の御霊骨を捧持して身延に帰山し、御遺命に従い身延山久遠寺の別当に就かれました。
 地頭の波木井実長(日円)は、初発心の師匠である日興上人の御着任を喜びました。その様子は、同年十ニ月十一日に書かれたと推定される波木井実長の書状に、
 「まことに身延の山で毎日有り難いお経をあげてくださり、それを皆がご聴聞できるということは、大聖人がいらっしやった時の御事の有り難さは申すまでもないことですが、ただ今は、あなた(日興上人)が身延においでになる故にこそ、と本当に有り難いことであると、私はただひとえに存じ上げております(趣意)」(日興上人身延離山史62頁)
とあるように、身延山の別当に就任された日興上人に厚い信頼を寄せていることが文面から伝わってきます。
 また、弘安八(1285)年正月四日の『波木井日円状』には、
 「日興上人によって身延における妙法弘通が盛んになったことを、たいへん喜んでおります。日興上人が身延にいらっしやることは、故聖人(日蓮大聖人)がいらっしやることと同じであると思っております(趣意)」(大日蓮187号)
と記し、日興上人の帰山は大聖人の再来のように思われると、喜びの心を表現しています。
 こうして日興上人は身延山久遠寺の別当として入山されるや、本門戒壇の大御本尊を厳護し、大聖人御在世当時と変わらずに興学布教に勤め、本門弘通の大導師として名実共に一門統率の重責を担われたのです。
 そして日興上人は、
 「いづくにて死に侯とも、はかをばみのぶさわにせさせ候べく候」(御書1596頁)
との大聖人の御遺言(『波木井殿御報』)により、この地に墓所(廟所)を定めて、御霊骨を安置しました。

 墓所輪番の制定

 明けて弘安六(1283)年一月末、日興上人は、諸老僧をはじめ門下の僧侶並びに遠近の壇越を身延に集めて、盛大かつ厳粛に、大聖人の第百箇日忌法要を奉修されました。
 日興上人は、百箇日法要に参集した諸老僧に計って、大聖人の墓所(廟所)の守護と給仕をするための月番の制度を設け、弟子たちが「御廟守護の任」に当たることを決めました。その時の記録が、『定 基所可守番帳事』です。
 これは御入滅を前にして大聖人が「弟子六人事」(六老僧)を定め、さらに御遺命に、
 「仏は釈迦立像墓所の傍らに立て置くべし云云。
  経は私集最要文注法華経と名づく同じく墓所の寺に籠め置き、六人香花当番の時之を被見すべし。自余の聖教は沙汰の限りに非ず云云」(『宗祖御遷化記録』御書1866頁)
と仰せられ、本弟子六人が「六人香花当番」と墓所の当番を命じられたことによるものです。
 大聖人の御意を深く考慮された日興上人は、墓所の当番を輸番制にすることによって、諸国の弘教に励んでいる諸老僧をはじめ弟子一同が、年に一度は身延に詣り、墓所の守護と香華の給仕を通して大聖人に対する報恩の念を強くし、本門弘通の大導師である日興上人のもとに参集することで一門の異体同心の団結が計られると考えられたからです。
 これは常々、大聖人から賜った、
 「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なし (中略)日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ侯」(御書1389頁)
との訓誡によるものと拝察されます。
 しかし、この墓所輪番の制は、弘安六年九月頃までは、何とか日興上人が門下の直弟子を督励して遅滞なく動めていましたが、十月の大聖人の第一周忌頃には、五老僧たちは御正墓のある身延に登山せず、これ以後、墓所の輪番守護は忘れられ、輪番制は有名無実になってしまいました。中でも日朗は、大聖人が墓所の傍らに立て置けと御遺言された釈迦立像(一体仏)を無断で奪い取って下山し、日昭も『注法華経』を持ち去りました。
 日興上人は諸老僧が参詣しないありさまを、弘安七年十月十八日に上総国興津在生の美作房日保に宛てて、
 「何事よりも身延の沢の御墓の荒れはて候いて、鹿かせきの蹄に親り懸らせ給い候事目も当てられぬ事に候」(日蓮正宗聖典555頁)
と述べられて、諸老僧が大聖人の三回忌を過ぎても参詣せず、当審の勤めを守らないため、大聖人の御廟付近が荒れ果てていることを歎かれています。
 また、この諸老僧の態度を日興上人は同じく『美作房御返事』に、
 「師を捨つべからずと申す法門を立てながら忽ちに本師を捨て奉り侯わん事大方世間の俗難も侭なく覚え候」(同)
と、切ない真情を吐露されています。結果として、番帳の次第を懈怠く勧めたのは、日興上人、日目上人、寂日房等の日興上人門下方でした。
 このような状況下で、弘安八(1285)年、寒さも和らいだ春三月、今まで音信のなかった本弟子の一人、民部日向が突然身延に登山してきました。当時、諸老僧が一方的に墓所輪番制を放棄し、御正墓への参詣を怠るという状態であったため、本弟子の一人である日向が登山してきたことは、大聖人の御報恩と門下の異体同心を願う日興上人にとっては喜ばしい出来事でした。
 そこで日興上人は、日向を信頼し学頭に任じられました。しかし日向は次第に不法の色を見せ、日興上人の信頼を裏切っていくのです。詳しくは次回に述べます。

 『身延山久遠寺番帳事』なる文書

 先に紹介した日興上人御執筆の『墓所可守番帳事』は現在、西山本門寺に所蔵されています。しかし、池上本門寺にもこの正文書と対抗するように『身延山久遠寺番帳事』なる文書があり、日蓮宗においては日興上人筆と称しています。
 池上の文書、通称池上本は、『墓所可守番帳事』との名称ではなく、『身延山久遠寺番帳事』として、あたかも久遠寺の別当職が輪番制であったような誤解をさせる名称になっています。この書を、正文書である『墓所可守番帳事』と比較対照すると、日興上人の筆跡、書体とは明らかに異なり、「蓮華阿闍梨」、「白蓮阿闍梨」という大聖人の定められた本弟子が「蓮華房」「白蓮房」となっているなど、日興上人に偏見を持つ人による、後世の偽作であることは明らかです。
 この『身延山久速寺番帳事』と同じ時期に同じ目的をもって作られたものが、『御遺物配分事』で、これも明らかに日興上人の筆跡ではありません。花押も、日興上人の御本尊及び西山本の『墓所可守番帳事』とは全く異なります。
 特に、この池上本の『御遺物配分事』には、「執筆 日興」の下にかすかに「在判」との文字があります。この「在判」が意味するものは、他人が書いた文章を筆写する際に、花押の所在を示すもので、日興上人御本人が、「執筆 日興」と御自身で執筆されていながら、「在判」と書くことは絶対にありません。日興上人の御自筆であれは、「在判」ではなく御花押になるからです。
 したがって、この文書は『久遠寺番帳事』と合わせて日興上人以外の誰かが書いた文書であることは確実です。「在判」の文字が都合悪いのか、後から削っているような痕跡が見えます。この他にも、池上本の疑問点を挙げれば枚挙に暇がありません。
 したがって、池上本の『身延山久遠寺番帳事『『御遺物配分事』は、共に日興上人への御付嘱、久速寺の別当職を否定するため、後世の誰人かによって書かれた偽書であるということです。